第六十一話:北の果ての商人
ウィストリアを出航してから数日。ユニオン号はついに、世界の屋根と云われる北方山脈の麓に広がる港へと到着した。
そこに広がっていたのは、南国気質のウィストリアとはまるで異なる、凍てつく鉄と灰色の景色だった。
海面にはガリガリと音を立てて流氷が浮かび、見上げるほどに巨大な山脈は、厚い万年雪を頂いて白く輝いている。港のあちこちにそびえ立つ巨大な精錬炉からは、黒い煙がモクモクと吐き出され、寒空の下で薄着の港湾労働者たちが、重々しい足取りで鉄を積み上げていた。
「さ、さむさむさむさむいッ! 龍馬さん、空気の冷たさで耳がちぎれそうです!」
ルークはありったけの毛布を体に巻き付け、歯をガチガチと鳴らしながら甲板で丸くなっている。
「ほう……」
龍馬はコートの襟を立てながら、物珍しそうにその光景を見渡した。
「ここがノルディアだ」
エリオットが、タラップに足をかけながら静かに言った。
「世界で最も良質な鉄と魔石を産出する、山の国さ」
「なるほどな。確かに、肌にピリピリくるほど鉄の匂いがする港だぜ」
ダリオが義足の音を響かせながら、職人の目で精錬炉を見つめる。
港の倉庫には、驚くほど大量の鉄鉱石や精製された鉄塊、そして妖しく光る魔石が、うずたかく積まれていた。
これだけの資源があるのなら、さぞかし活気に満ち溢れているのだろうと思いきや、港を行き交う人々の表情は一様に暗く、どこか死んだような静けさが漂っている。
龍馬は目を細め、その山積みの資源を見つめて呟いた。
「……売れんのか」
「売れんのさ」
エリオットが吐き捨てるように応じる。
「正確に言えば、今は売り先が『一つ』しかないんだ」
ユニオン号の一行は、港の管理統括を担う、ノルディアの老商会長の元へと足を運んだ。
部屋の暖炉ではパチパチと薪が燃えていたが、対面した老商会長の表情は、外の氷海よりも冷え切っていた。
「ウィストリアからの商人か。……だが、お前たちがいくら欲しがろうと、我が国の鉄も魔石も、その大半はあそこへ行く」
商会長は、窓の外の遥か先――帝国の方向を指差した。
「帝国は、我々の足元を見て、信じられないほどの安値で資源を買い叩いていく。……だが、売らねば我々は明日の食料すら買えず、生きていけんのだ」
商会長の手が、悔しさに小刻みに震える。
「かつてはウィストリアとの交易路もあったが、帝国が海を封鎖してからは激減した。おかげで我々は、山ほどの富(資源)をその手の中に持ちながら、飢えに震える貧しい暮らしを強いられている……。これが、ノルディアの現実だ」
ルークはその壮絶な搾取の構造にショックを受け、「そんな……」と言葉を失った。普通なら、ここで「酷い話だ」と同情するか、「私が帝国を蹴散らして救いましょう!」と大口を叩くところだろう。
だが、龍馬はただ静かに腕を組み、
「――なるほどのう」
とだけ、深く頷いた。
安易な慰めも、無責任な同情もしない。ただ、その過酷な現実をありのままに受け止める。徹底したリアリストこそが、坂本龍馬という男だった。
商会長の告白が終わり、いよいよ具体的な商談に入る。
ルークは待ってましたとばかりに、龍馬の耳元で興奮気味に囁いた。
「龍馬さん! 今ですよ! 相手は売り先がなくて困ってるんです。こちらの予算なら、最高品質の鉄鉱石も魔石も、船倉一杯詰めますよ!大儲けですね!」
誰もが、ユニオン号の船倉を溢れさせるほどの大規模な買い付けを予想した。
だが、龍馬は懐から取り出した注文書を、そっと机の上に置いた。
「この分だけ売ってつかあさい」
そこに書かれていた数量を見た瞬間、部屋にいた全員の時間が凍りついた。
「……少なすぎる」
エリオットが、眉をひそめて龍馬を睨む。ユニオン号の積載量の、半分にも満たない量だったからだ。
「……本気か?」
商会長も、からかわれたのではないかと不審の目を向ける。
「は、はあああああ!? 何言ってるんですか龍馬さん!!」
ルークにいたっては、ひっくり返って絶叫した。
「ここまで命懸けで海を渡ってきたんですよ!? なんでそんな、ちょっとしたお土産みたいな量しか買わないんですか!?」
だが、龍馬の目は冗談を言っている風ではなかった。彼は確かに、ビジネス(利益)を取りに来ている。しかし、決してここで「買い占め」をする気はなかった。
「理由を聞こう」
商会長が、重々しい声で問いかけた。
「今の我が国なら、どれだけ大量に買い付けようと、帝国の相場よりは色をつけてやれた。なぜ、それだけの儲け話を棒に振る?」
龍馬はふっと柔和に微笑み、長椅子に深く背をもたれかけた。
「わしゃあ、この土地へ初めて来た。おんしらも、わしという人間をまだ何も知らん。……そして、わしもまた、おんしらのことを何も知らんきに」
「……」
「じゃから、まずは一回じゃ。お互いに『約束を守れる人間かどうか』、それを試すための、これが最初のご挨拶ぜよ」
龍馬は真っ直ぐに商会長の目を見据え、言葉を続けた。
「今回は、この少額の取引を確実に成立させる。そしてわしゃあ、約束する。――わしゃあ、必ずまたここへ来る。山ほどの食いモン積んでの。そん時ゃ、山ほどの鉄を買い取らせて貰うきのう」
その瞬間、部屋の空気がガラリと変わった。
商会長は絶句し、龍馬の顔をまじまじと見つめた。
帝国の商人なら、ノルディアの困窮に付け込んで、極限まで買い叩いた。
普通のウィストリアの商人なら、一過性の利益のために、買えるだけの資源を足元を見て買い漁っただろう。
だが、この男は違った。目先の不当な暴利を捨て、最初から「次がある」という未来の信頼を結びにきているのだ。
こうして、拍子抜けするほど小規模な、しかし確実な初めての商談が終了した。
ユニオン号の船倉に少量の鉄と魔石が積み込まれ、帰港の準備が進む中、ルークはまだ納得がいかない様子で甲板のロープを片付けていた。
「もう! 龍馬さん、やっぱり今回の利益、めちゃくちゃ少ないですよ!? 命を懸けた割に、これじゃあ全然大儲けじゃないじゃないですか!」
「ははは、何を言いゆう。これだけあれば、今回の船代(経費)はきっちり返せるし、わしたちがしばらく美味い飯を食う分には、お釣りが来るほど充分じゃろ」
龍馬はケラケラと笑いながら答える。
「なら、商売としては上等じゃ」
「そういう話をしてるんじゃないんです! 商人なら、もっとこう、ガッポリ稼いで大富豪になる夢を見なさいって言ってるんです!」
ルークがキーキーと怒る。
「ルーク。わしゃあな、まさに『そういう話』をしちゅうがぜよ」
龍馬は悪戯っぽく笑い、ルークの頭をぽんぽんと叩いた。
「……?」
ルークが首を傾げる中、龍馬はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、北の冷たい海を見つめていた。
夕刻。ゆっくりと岸壁を離れていくユニオン号を、老商会長は港の端からじっと見送っていた。
「商会長、本当によろしかったのですか? あのような素性の知れぬ男に……」
隣に立つ側近の男が、不安げに尋ねる。
「……信用できるかどうかは、まだ分からん」
商会長は、白波を掻き分けて進むユニオン号の影を見つめたまま、小さく首を振った。
「だが、あの男は……帝国の商人とも、これまでに会ったウィストリアの商人とも、何もかもが違っていた。欲に目が眩んでおらん。いや……もっと、途方もなく大きな『何か』を見据えている目だった」
商会長の口元に、微かな、しかし確かな期待の笑みが浮かぶ。
「予言しておこう。――奴は、必ずまた来る」
その頃、ユニオン号の船首。
刻一刻と近づく激戦の海を前に、ルークは再び寒さに震えながら、龍馬に問いかけていた。
「龍馬さん。結局、今回はあの気難しい商会長に『顔を売る』ためだけに、わざわざこんな北の果てまで来たんですか?」
「まさか。わしゃあ商人ぜよ? ちゃんと中身のある商いはしたきに」
龍馬は懐から、先ほど商会長と交わした小さな契約書を取り出し、ひらひらと振ってみせた。そして、獲物を狙う猛禽のような鋭い目で、ニヤリと大きく笑った。
「ただのう……『次の商い』の方が、今回より何十倍、何百倍も大きいっちゅうだけじゃ」
行きは、ただの挨拶。
鉄鋼を積んで戻る『帰り』こそが、本当の化かし合いの始まり。
ユニオン号は、静かに牙を研ぎながら、再びあの魔獣と帝国の待つ南の海へと、その針路を転回した。




