第六十話:ユニオン号、出航
出航の朝が来た。
海の都ウィストリアの港には、朝早くから老船工ダリオと、昨日までユニオン号の修繕を手伝っていた職人たちが大勢集まっていた。
朝陽を浴びて波に揺れるユニオン号は、数日前までのボロ船とは見違えるほど凛々しい姿を見せている。新調されたメインマストが、まるで新しい時代を指し示すかのようにまっすぐ天へと伸びていた。
そんな中、甲板の手すりにしがみつき、今にも胃の中のものをぶちまけそうな顔をしている男が一人。
「龍馬さん、本当に、本当に行くんですか……?」
ルークは涙目で、隣で気持ちよさそうに朝の潮風を吸い込んでいる龍馬を見上げた。
「当たり前じゃろ。船も直った、海図もある。行かん理由がどこにあるがじゃ?」
「今なら、今ならまだ間に合いますよ! 荷物を降ろしてギルドに謝れば、まだ引き返せます!」
「何が間に合うがじゃ?」
「全部です! 僕の命とか、胃袋の健康とか、全部!!」
「ははは! おんしぁ相変わらず賑やかじゃのう!」
龍馬は豪快に笑い、ルークの背中をバシバシと叩いた。
そこへ、波止場の人混みを割って、一人の男が歩いてきた。一分の隙もない管理局の制服に身を包んだレヴァインだ。今日は業務としてではなく、個人的な見送りに来たらしい。
「お前を止めるのは、もう諦めたよ」
レヴァインは腕を組み、呆れたようにため息をついた。
「ほう、そりゃあ賢明じゃ」
「褒めていない。……だが、管理局の人間としてではなく、一人の友人として言わせてもらう。死ぬなよ、龍馬。お前のような男がここで消えるのは惜しいぞ」
口では毒づきながらも、レヴァインの瞳の奥には、この無謀な男が歴史にどんな風穴を開けるのか、ほんの少しだけ期待している色が混じっていた。
出航の時刻が近づく。しかし、タラップの前に立つダリオが、パイプを咥えたまま困ったように頭を掻いた。
「なぁ、旦那。船は最高に仕上がったが……やっぱり、決定的に船員が足りねぇ。毒を食らわば皿まで。俺は行くとしても旦那と、このヘタレ(ルーク)だけじゃ、まともに帆を張ることもできねぇぞ」
「ううっ、やっぱり中止だぁ……!」
ルークが救われたような顔をした、その時だった。
「――おいおい、誰が足りねぇって?」
野太い声が響いた。振り返ると、そこには工具を片付けたばかりの港の職人たちや、昨日まで酒場で龍馬の噂を笑っていたはずの、体格のいい荒くれ船乗りたちがニヤニヤと笑いながら立っていた。
「おい、陸の商人さんよ。お前さんの『誰も通らぬ海を往く』って大ホラ、どうにも寝覚めが悪くてよぉ」
「海竜海域に入るなんて真っ平御免だが……その手前まで、お前さんがどんな大馬鹿な航海をするのか、この目で見てみたくなっちまった!」
「へっ、死ぬなら死ぬで、冥土の土産、極上の酒の肴だ。乗ってやるよ、ユニオン号に!」
職人や船乗りたち、総勢十数名が、次々とタラップを渡って甲板に上がり、勝手にロープを握り始めた。
龍馬は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに口元を大きく歪めて笑った。
「ほう……! こりゃあ、とんでもない大馬鹿ばっかりが集まったのう!」
「てめぇ(旦那)だけには言われたくねぇよ!」
船乗りたちが一斉に怒鳴り返し、甲板がどっと沸く。
説得もせず、金での勧誘もせず、ただ己の熱量だけで巻き込んだ、ユニオン号の最初の『クルー』がここに揃った。
「おい、威勢がいいのは結構だがよ」
ダリオが船乗りたちを見渡しながら、にやりと笑った。
「肝心の、あの荒海を導く『航海士』がいねぇじゃねぇか」
「あ……」
ルークがハッとして周囲を見渡す。
「やっぱり、エリオットさんは来てくれないんじゃ――」
コツ……、コツ……、コツ……。
その言葉を遮るように、桟橋の硬い木を踏みしめる確かな足音が響いた。
人混みが自然と二つに割れる。そこへ現れたのは、脇に煤けた海図をしっかりと抱え、ひどく不機嫌そうな顔をしたエリオットだった。
甲板の全員が息を呑み、静まり返る。
エリオットはまっすぐに龍馬の前まで歩み寄ると、その鋭い眼光で龍馬を睨みつけた。
「……おい」
「なんじゃ」
龍馬はニヤリと笑う。
「お前が言っていた、船長室の隣の、一番日当たりのいい部屋だが……」
エリオットはフンと鼻を鳴らし、ぶっきらぼうに言い放った。
「ちゃんと、掃除はしてあるんだろうな?」
一瞬の静寂。そして、
「乗るんかーーーーーい!!!」
ルークの魂のツッコミが炸裂した。
刹那、港全体が地鳴りのような大爆笑に包まれる。
「誰が乗ると言った!!」エリオットは顔を真っ赤にして激怒し、拳を振り回した。「あそこは俺の『荷物』置き場だ! 俺はただの、歩く荷物としてそこに引きこもるだけだ!!」
「ほう! 随分とやかましくて、大きな荷物じゃのう!」
龍馬がケラケラと笑い、エリオットの肩を組む。
伝説の航海士、ここに正式加入。これ以上ない最高のピースが嵌まった。
「よしッ!係留ロープを外せ! 面舵、進路を北へ!」
エリオットが即座に鋭い指示を飛ばす。先ほどまでの酒浸りの男の影はどこにもない。紛れもない、伝説の航海士の顔だ。
「アイサー!」
荒くれどもがキビキビと動き、ユニオン号を岸壁から引き離す。
新調された真っ白な帆が、ウィストリアの力強い追い風をいっぱいに孕んで、パンッ! と心地よい音を立てて広がった。
船首に立った龍馬は、遠い水平線を見据え、腹の底から声を張り上げた。
「――出航じゃああああ!!!」
歓声とともに、ユニオン号が滑るように青い大海原へと突き進んでいく。
岸壁で見送るレヴァインは、遠ざかっていく船の影を見つめながら、小さく帽子を押さえ、誰も聞こえない声で呟いた。
「……行ってこい、大馬鹿野郎ども」
出航から数日後。
ユニオン号の航海は、エリオットの完璧な舵取りのおかげで極めて順調だった。新米クルーたちも、今ではすっかりロープワークに慣れ、船内には活気が満ちていた。
しかし、その平穏は突如として破られる。
「前方、水平線上に影! ……デ、デカい! 帝国の軍艦だ!!」
マストの上からの叫び声に、甲板が一気に緊張に包まれた。
ルークが望遠鏡を覗き込み、顔面を紙のように真っ白にする。
「嘘でしょ……!? 軍艦が三隻も……! おわったぁぁぁ! 出航して数日で僕の人生おわったぁぁぁ!」
船乗りたちが武器を構え、身構える。
だが、奇妙なことに、その巨大な帝国軍艦は、ユニオン号の姿を視界に捉えているはずなのに、攻撃態勢を取るでもなく、ただ遥か遠くからこちらをじっと見ているだけだった。そのまま、すれ違うように遠ざかっていく。
「……襲って、こない?」
呆然とするルークに、エリオットが冷ややかに鼻で笑って説明した。
「当然だ。今の俺たちは、ウィストリアから北部山脈へ向かう『空船』だからな。帝国が血眼になって狙っているのは、貴重な鉄鋼を山ほど積んで戻ってくる、帰りの船さ。何も持たない行きの上り船に、わざわざ手出しはしてこない」
「あ……」
ルーク、そして乗組員一同の背筋に、冷たいものが走った。
つまり、行きはただのプロローグ。鉄鋼を積んで戻る『帰り』こそが、本当の戦場(本番)になるのだと、全員がその瞬間に理解した。
その日の夜。
月明かりだけが照らす静かな夜の海。甲板で夜番の見張りをしていた船乗りが、突然、喉を詰まらせたような悲鳴を上げた。
「あ、あわ……ま、魔獣だぁぁぁっ!!!」
「何事じゃ!?」
龍馬を筆頭に、全員が甲板へと飛び出す。
見張りの指差す先――ユニオン号からわずか数百メートル先の海面が、激しく泡立ち、割れた。
ドゴォォォンッ!!
現れたのは、全長十数メートル、鉄の皮膚と巨大な牙を持つ、この海域の恐怖の象徴『海喰い鮫』だった。それ一匹で中型船を噛み砕くと言われる大魔獣の出現に、船乗りたちは絶句し、ルークは腰を抜かした。
しかし、恐怖はそれで終わりではなかった。
次の瞬間、海喰い鮫の真下の海面が、まるで海底火山が爆発したかのように、何倍もの規模で膨れ上がったのだ。
ズゥゥゥゥンッ!!!
空間を圧殺するような咆哮とともに姿を現したのは、海喰い鮫がまるでメダカに見えるほど、天を突く巨躯を持った『シーサーペント(海竜)』だった。
シーサーペントは、逃げる間もなく絶叫する海喰い鮫を、その巨大な顎でバクリと一撃で丸呑みにした。
バシャァァァンッ!!!
凄まじい水飛沫とともに、月光に照らされた海が一瞬にして真っ赤な血に染まる。そして、大魔獣は再び、静かに深海へと消えていった。
残されたのは、あまりの圧倒的な暴力の余韻と、完全に凍りついたユニオン号の静寂。
「……見たか」
エリオットが、震える声で言った。
「あれが、俺たちのすぐ横に広がる『海竜海域』だ。過去、あの海に入った船がどうなったか、これで分かっただろう」
船乗りたちはガタガタと震え、生唾を飲み込んだ。
水平線の彼方には、今見たような巨大な影が、無数に蠢く海域が暗闇の中に広がっている。
誰も近付こうとしない理由。そして帝国の軍船すら、絶対に追ってこない理由。そのすべてを、全員が骨の髄から理解させられた。
「絶対……絶対にあんなところ、入りたくないですぅ……」
ルークがガタガタと震える。
だが――。
激しく血の匂いが漂う夜の海を見つめながら、坂本龍馬だけは、その瞳に妖しい光を宿し、面白そうにニヤリと笑っていた。
「ほう……。凄まじいのう」
さらに夜が更けた、静かな船首。
龍馬が一人で夜風に当たっていると、彼の影が不自然に大きくうねり、青い神聖な魔力の残像がゆらりと立ち上った。
『――ふん。お主、あそこ(縄張り)へ行く気か?』
脳裏に響く、皇帝龍(皇さん)の威厳ある声。
「いや、まだじゃ」
龍馬は遠い海を見つめたまま、悪戯っぽく笑った。
「今回は、真っ直ぐ北へ行くき。あの海は……『帰り』に使う」
『ほう?何故だ?』
「ズルぁ一回までじゃき」
龍馬は懐から懐中時計を取り出し、パチリと蓋を閉めた。
「行きも帰りも楽をしたら、せっかくの航海が面白うないろ? 帰り、帝国が総出でわしたちを待ち構えちゅうところを、あの海で一気にぶち抜く……。その方が、絶対に愉快なぜよ」
その言葉を聞いた皇さんは、一瞬の静寂の後、満足そうにフハハと喉を鳴らして笑った。
『ふははは! まさしく不敵な企みよ。良い、帰りの愉しみにとっておく』
青い魔力の残像が、静かに影へと溶けていく。
月光を浴びながら、ユニオン号は波を力強く蹴立てて進む。
目指すは、未知なる鉄鋼の眠る、北部山脈――。




