第五十九話:出航前夜
翌朝、海の都ウィストリアの柔らかな朝陽がユニオン号の甲板を照らす頃、その男は現れた。
外套のフードを深く被り、ひどく不機嫌そうな顔をしたエリオットが、桟橋を渡って甲板に足を踏み入れる。手には、昨日彼自身が書き換えた詳細な海図が握られていた。
ルークが「あ、エリオットさん! 本当に来てくれたんですか!?」と声を弾ませるが、エリオットはツンとそっぽを向いた。
「勘違いするな。何度も言うが、俺はあの呪われた海に『出る』とは一言も言っていない。ただ、預けた海図がどう使われるか、見届けに来ただけだ」
そう言い張りながらも、エリオットの目はすでに海の男のそれに戻っていた。
彼は甲板をのっしのっしと歩き回ると、素早く、そして執拗に船の各部を点検し始めた。
中央のマストを見上げ、手首を返して帆の生地を揉み、索具の結び目を引っ張り、屈み込んで船底の継ぎ目を凝視する。
そして、一通りの点検を終えたエリオットは、冷え切った視線を龍馬たちに向け、信じられないと言わんばかりに低く呟いた。
「……お前たちは、本気でこんな粗悪な状態で、あの海竜海域に行くつもりだったのか?」
その場に、重苦しい沈黙が流れた。
誰もが言葉を返せない中、まず老船工のダリオが、パイプを咥え直して天井を見上げた。
「……いや。俺は最初から、もっと直さなきゃ死ぬって言ったぞ、旦那」
次いで、管理局のレヴァインが、腕を組んで冷徹に告げた。
「私はお前よりも、もっと言った。あそこは自殺志願者の行く場所だとな」
「僕なんて、毎日、毎朝、毎晩、口から血が出るくらい言ってますよ!!」
ルークが涙目で両手を振り回して叫ぶ。
三人の視線が、一斉に元凶へと集まった。
当の坂本龍馬は、頭の後ろで腕を組み、のんきにケラケラと笑いながらこう言った。
「ははは! まぁ、わしゃあこれでも行けると思ったきに!」
「「「行けるかぁぁぁ!!!」」」
今度もまた、完璧な三連唱のツッコミが、朝の甲板に響き渡った。
「いいか、よく聞け」
エリオットは乱暴に手帳を開くと、羽ペンを走らせながら、容赦なくユニオン号の欠陥を突きつけていった。
「まず、メインマストは芯が傷んでいる、全交換だ。急な突風に耐えられん。それに補助帆の数が圧倒的に足りない。あの激流を抜けるには、細かな風の制御が必須だ。ロープは劣化して今にも千切れそうだし、船底の防護補強も薄すぎる。魔獣の尾がかすっただけで一撃で浸水するぞ。さらに言えば、水樽も非常食もまるで足りない。錨だって、こんな古い型じゃあ、あの異常海流の底に引っかかりもしない!」
次から次へと溢れ出る、致命的な欠陥のリスト。
それを聞いたルークは、ガクガクと膝を震わせ、その場に崩れ落ちた。
「う、嘘だ……。またお金が飛んでいく……! ギルドから貰った先払い金が、一瞬で消えていくぅぅぅ!!」
だが、そんな絶望のどん底に落とされたルークの横で、龍馬は少しも表情を崩さなかった。それどころか、エリオットが書き連ねた欠陥リストを覗き込み、嬉しそうに目を輝かせたのだ。
「――ほう! つまり、その悪いところを全部直しゃあええちゅう話じゃろ?」
「……何?」
エリオットは、羽ペンを握ったまま動きを止めた。
普通、これだけの欠陥を突きつけられれば、どんな商人も「金がない」「もう無理だ、諦めよう」と頭を抱えるか、あるいは航海士の指摘を煙たがって怒り出すものだ。
だが、龍馬は違った。彼は「問題が見つかった」という最悪の状況を、一瞬で「これを直せば確実に成功するという、解決方法が見つかった」という最高の前進へと脳内で変換してみせたのだ。
(……こいつ一体何なんだ)
エリオットは、胸の奥を激しく揺さぶられるのを感じていた。
彼の脳裏に、十年前のあの忌まわしい記憶が蘇る。
あの時の商船団の船長たちは、誰一人としてエリオットの話を聞こうとはしなかった。
「海が荒れている」「魔獣の気配がある」とエリオットがどれほど危険を指摘しても、彼らは「予定が遅れる」「利益が減る」と無視し、無根拠な楽観にすがり、いざ事故が起きれば「航海士の読みが外れたせいだ」と責任を転嫁し合った。
その結果、船団は全滅し、エリオットだけが生き残った。
だが、目の前の龍馬は、その過去の亡霊たちとは何もかもが違っていた。
突きつけられた問題を、すべて真っ直ぐに聞き、認め、笑い、そして「じゃあ、直そうや」と、前だけを向いて足を踏み出す。
エリオットの頑なに凍りついていた心の殻が、龍馬のその圧倒的な器の大きさに触れて、また少し、ピキリと音を立てて割れていくのが分かった。
「よし、そうと決まれば大急ぎで修繕じゃ! ダリオ、職人集めを頼めるかえ!」
龍馬が腕をまくって叫ぶ。
「へっ、とっくに手配してあるさ、旦那」
ダリオがニヤリと笑って指を鳴らすと、桟橋の向こうから、大きな工具箱を担いだ港の腕利き職人たちが、ぞろぞろとユニオン号に向かって歩いてくるのが見えた。
「おいおい、ダリオの親方! このボロ船をそんなに大改造するのかい?」
「あの大馬鹿な商人の船だろ? 面白そうだから、俺たちの腕を貸してやるよ!」
職人たちは口々に笑いながら、甲板へと上がり、さっそく木材を切り、ロープを編み直し始めた。
彼らは龍馬の「船員」でもなければ、命を懸けた「仲間」でもない。ただ、港の噂で耳にした『誰も通らぬ海へ往く大馬鹿野郎』の計画が、職人として、海の男として、どうしようもなく「面白そうだから」集まっただけなのだ。
遠巻きにその様子を見ていたレヴァインが、感心したように嘆息した。
「……大したものだな。龍馬、お前は言葉で人を説得しようとはしない。ただ、お前自身の熱量で、周囲の人間の退屈な日常を巻き込み、巨大な渦にしてしまう」
それこそが、坂本龍馬という男が持つ、理屈を超えた本当の強さだった。
夕暮れ。
一日中、職人たちの怒号と槌音が響き渡っていたユニオン号は、見違えるような姿を取り戻していた。
新調されたマストが据え付けられ、丁寧に補強された船底が波を弾いている。まだ出航してはいない。だが、船は確かに「戦う準備」を終えていた。
エリオットは、新しく張られた索具に手をかけ、夕陽に染まる海を静かに見つめていた。
潮の匂いを嗅ぎ、風の向きを肌で感じ、やがて、ぽつりと小さく呟いた。
「……出るなら、三日後だ」
「ほう?」
後ろから、龍馬が近づいてくる。
「その日になれば、この海域の海流が大きく変わる。渦の位置も一時的に外側へずれるはずだ。……あの呪われた海を通るなら、そこしかない」
エリオットの言葉に、龍馬は口元をニヤリと大きく歪めた。
「そりゃあええ。完璧な舵取りじゃき」
「勘違いするな」
エリオットは慌てて、いつもの冷淡な口調を取り繕った。
「俺はまだ、お前の船に『乗る』とは一言も言っていない。ただ、一番生還率の高い日程を教えてやっただけだ」
「分かっちゅう、分かっちゅう」
龍馬はヒラヒラと手を振る。
「俺は、乗らんからな。絶対に陸に残る」
「そうかえ」
「……」
あまりにあっさりとした龍馬の返答に、エリオットは拍子抜けして、次の言葉を失った。
龍馬は、夕陽を浴びて黄金色に輝く船長室の扉をトントンと叩くと、振り返って、エリオットにニカッと悪戯っぽい笑みを向けた。
「じゃあ、船長室のすぐ隣の部屋ぁ、一番日当たりがええき、綺麗に空けちょくきのう」
「人の話を最後まで聞けと言っているんだ、この大馬鹿野郎がぁっ!!」
エリオットの盛大な怒声が、赤く染まる海の都の空へと響き渡った。
ルークが「あはは、もう部屋の配置まで決まっちゃいましたね」と笑い、レヴァインもフッと口元を緩める。
出航まで、あと三日。
ユニオン号は静かにその時を待っていたのだった。




