第五十八話:海を捨てた男
翌朝、龍馬はユニオン号の手すりに寄りかかり、昨日酒場で出会ったあの男のことが頭から離れない様子で、ダリオに向かって問いかけた。
「なぁ、ダリオ。昨日おんしが言いよった、あの奥の席の酒浸りの男……。名前ぁ、何て言うがじゃ?」
「……エリオットだ」
ダリオはパイプの煙をふぅと吐き出し、遠い目をした。
「元は、このウィストリアでも最高の航海士の一人さ。あいつにかかりゃあ、どんな荒海だろうが庭池同然だった」
「お前……エリオットを知らないのか?」
そこへやってきたレヴァインが、心底驚いたように目を見開いた。
「知らん」とあっけらかんと答える龍馬に、レヴァインは呆れたように言葉を続ける。
「この海で商いをする者なら、十年前までは誰もがその名を知っていた伝説の男だ。……だが、今はただの生ける屍さ」
ダリオの口から、エリオットの過去が静かに語られた。
十年前。彼はある大規模な商船団の筆頭航海士として、あの『海竜海域』の近くを航行していた。だが、突如として発生した異常気象と魔獣の襲撃により、船団は壊滅。仲間たちは全員、海に呑まれて死亡した。
――生き残ったのは、エリオットただ一人。
それ以来、彼は己の技術を呪い、海を憎み、ただ現実を忘れるために酒を煽るだけの抜け殻になった。これまで、あいつの腕を求めて何十人もの大商人が大金を積んで誘いに来たが、エリオットはそのすべてを、酷く冷淡に断り続けてきたという。
「……」
ルークもレヴァインも、その壮絶な過去に言葉を失い、重苦しい沈黙が甲板を支配した。
龍馬は腕を組んだまま、ただ一言、
「――そうか」
とだけ呟いた。
「え……? それだけですか?」
ルークも、ダリオもレヴァインも、あまりの拍子抜けさにずっこけそうになった。
「ちょっと、龍馬さん!」
昼前、ユニオン号の出航準備を手伝いながら、ルークは耐えかねて龍馬に詰め寄った。
「なんであの航海士の人を、もう一度誘いに行かないんですか!? あんなに凄い人なら、僕たちの仲間に引き入れるべきじゃないですか!」
龍馬は、ロープをきゅっと結び直しながら、不思議そうにルークを振り返った。
「ルーク。わしゃあ昨日、あいつを誘うたじゃろ?」
「それは、一言声をかけただけじゃないですか!」
「断られたき、なら今はこれで終わりぜよ」
龍馬の口調は、冷たいのではなく、どこまでも平坦で、相手への絶対的な敬意に満ちていた。
「あいつにぁあいつの、命を懸けた傷がある。それを、部外者のわしらが『可哀想じゃき』とか『立ち上がれ』とか、土足で踏みにじるような真似ぁしたらいかん。海へ戻るか、陸で溺れるか、それを決めるがぁあいつ自身じゃ。わしらが口を挟むことじゃないきに」
「あ……」
ルークは言葉を詰まらせた。
龍馬は、エリオットの心の痛みがわからないのではない。安易な同情で相手の矜持を傷つけたくないのだ。それが、坂本龍馬という男の、人間に対する一貫した優しさだった。
しかし、理想と現実は別物だった。
龍馬たちは独力で『誰も通らぬ海(海竜海域)』の出航準備を進めていたが、すぐに致命的な問題にぶち当たった。
「駄目だ、やっぱり何も分からねぇ」
ダリオが海図を前にして頭を抱えていた。
「あの海域の潮流がどうなってやがるか、風の向き、隠れ岩礁の位置、渦潮がどこで生まれるか……何一つデータがねぇんだ。俺ですら、あそこには一度も近寄ったことがねぇ」
「だから不可能だと言ったんだ」
レヴァインが冷酷に告げる。
「地図のない海を往くのは、目隠しをして崖の上を走るようなものだぞ」
一方、その頃。
港のいつもの薄暗い酒場では、エリオットがカウンターで一人、濁った琥珀色の酒を喉に流し込んでいた。
だが、今日の酒は、どうにも喉越しが悪い。嫌でも周囲の船乗りたちの噂話が耳に入ってくるからだ。
「おい、聞いたか? あの東方の商人のボロ船、ユニオン号」
「本当にあの大馬鹿野郎ども、明日にも『海竜海域』へ向けて船を出すらしいぞ」
「正気の沙汰じゃねぇ。航海士もなしにあの渦潮の海に入るなんて、自殺志願者だ」
「絶対、全員死ぬな……」
「そりゃあめぇ、死ぬに決まってんだろ」
「でもなんか意外といけそうとか」
「海図も無しにか?」
「俺はああいう馬鹿は嫌いじゃねえんだがな」
船乗りたちの言葉が、エリオットの脳裏で十年前の悲鳴と重なる。
「……チッ。まずい酒だ」
エリオットはグラスを叩きつけるように置いたが、胸の奥のざわつきは、どうしても消えなかった。
その日の夜。
静まり返ったユニオン号の船長室で、龍馬は一人、ランプの灯りを頼りに、空白だらけの海図をじっと見つめていた。
コツ……、コツ……、コツ……。
静かな夜の甲板に、確かな足音が響いた。ダリオの木の義足とは違う、確かな人間の足音だ。
龍馬が顔を上げると、船長室の入り口に、外套を深く被ったあの男――エリオットが立っていた。
「……ひとつ、聞かせろ」
エリオットは濁った目で、しかし鋭く龍馬を睨みつけた。
龍馬は驚くこともなく、ただ嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
「なんじゃ」
「お前は本気で……航海士もなしに、あの海竜海域を通る気か」
「おう、本気ぜよ」
「死ぬぞ。十年前の、俺の仲間たちのように……一瞬でバラバラになって海の藻屑だ」
「じゃろうな。何も分からん海じゃき、その覚悟ぁしちゅう」
「……なら、何故行く!」
エリオットの声に、激しい感情が混じる。
「大金のためか!? 名誉のためか!? 命をドブに捨てるような真似をして、何が楽しい!」
龍馬は、ゆっくりと立ち上がった。そして、エリオットの目を真っ直ぐに見据え、静かに、しかし地響きのような確信を込めて言った。
「――そこに、‘道’があるきじゃ」
「何……?」
「誰も通らん、誰も見ようとせんだけで、そこには確かに海が広がっちゅう。道があるなら、行ける。世界が『無理じゃ』と諦めた場所に風穴を開けて、新しゅうて誰も止められん流れを作る……。わしがこの世界でやりたいがぁ、それだけじゃき」
「――ッ」
エリオットは息を呑み、沈黙した。
かつて自分が愛し、そして絶望した「海」という存在に、これほどまでに真っ直ぐに、恐怖も奢りもなく立ち向かおうとする男を、彼は見たことがなかった。
次の瞬間、エリオットは乱暴に龍馬の前に歩み寄ると、机の上の海図をひったくるように奪い取った。
「……馬鹿が。そこじゃない」
エリオットは懐から煤けたペンを取り出すと、空白だった海図を、凄まじい速度でなぞり始めた。
「渦潮は、この岩礁の裏で生まれる。潮流は西から東へ、こう流れるんだ。もしここを突破するなら、中央ではなく、この最も波の荒い北側の岩礁帯を突っ切るしかない……!」
描き込まれていく、完璧な『生きた海の地図』。
それを見た龍馬は、口元をニヤリと大きく歪めた。
「な、何が起きてるんですかぁっ!?」
騒ぎを察知して船長室に飛び込んできたルークが、海図を書き換えていくエリオットの姿を見て驚愕の声を上げた。
後ろから覗き込んだレヴァインも、「これは……完璧な水路図だ……」と絶句している。ダリオだけが、入り口の壁に寄りかかりながら、ニヤニヤと嬉しそうにパイプを咥えていた。
一通り海図を書き終えると、エリオットはペンを叩きつけ、龍馬から視線を外すように外套のフードを深く直した。
「……勘違いするな」
エリオットは吐き捨てるように言った。
「俺はお前らの船に『乗る』とは一言も言っていない。ただ……目の前で、十年前と同じような無謀な馬鹿どもが死ぬところを、二度と見たくないだけだ」
そう言って足早に立ち去ろうとするエリオットの背中に向けて、龍馬は満面の笑みを浮かべ、声をかけた。
「ほう! じゃあ、とりあえず美味い酒でも飲むかえ、エリオット?」
「人の話を聞けと言っているんだ、この大馬鹿野郎が!」
「さっき食堂の女将に教えてもろうたんじゃが、めっぽう旨い酒じゃき」
「ちょ!龍馬さん!そろそろ備蓄の相談を」
「待て龍馬!まだ俺との話は終わってない」
「まぁ祝い酒じゃき!おまん等も呑むぜよ」
「だから祝うな!俺がいつお前の――――」
エリオットとレヴァイン、ルークの怒声を龍馬の笑い声が掻き消していく。
「今日は呑むぜよお!」
「ほらぁ! またそうやってすぐ人を巻き込むんですから!龍馬さーん!!」
一人、ユニオン号に残された『海図』を眺め、ダリオは満足気にパイプを吹かす。
「ったく。い~い海図だぜ」




