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坂本龍馬、異世界商会記~宿屋から始めて交易で戦争を止めるまで~  作者: ダイちゃん
第五章『航路』

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第五十七話:誰も通らぬ海

翌朝。朝陽が差し込むユニオン号の甲板には、コツコツと小気味よい音が響いていた。老船工ダリオが義木を鳴らしながら、手すりやマストの状態を厳しく叩いて確認している。


「旦那、船体の方は俺と野郎どもで叩き直してやる。だがよ……やっぱり問題は中身だ」

ダリオはパイプの煙を吐き出し、ため息混じりに首を振った。


そう、船は手に入った。ギルドからの先払い金で修繕の目処も立った。しかし、肝心の「船員」が一人も集まらないのだ。

昨日、酒場で『第六海路』の名を出して以来、港には「ユニオン号は動く棺桶だ」という噂が完全に広まってしまっていた。


「だから言ったじゃないですかぁ!」

ルークが頭を抱えて、甲板の樽に突っ伏した。

「お金ができても、命が惜しい船乗りたちが、危険な航海なんて乗ってくれるわけないんですよ!」


「言っただろう、龍馬。あの海域はもう、商売人が通っていい海じゃないんだ」

呆れたようにそう告げたのは、昨日に引き続き様子を見にやってきた管理局のレヴァインだった。


「ほう」

龍馬はただ一言そう呟くと、いつもの飄々とした態度を引っ込め、静かにレヴァインを見つめた。


「現実を教えてやる。よく見ろ」

レヴァインは甲板の荷出し箱の上に、管理局が厳重に管理している最新の周辺海域地図を広げた。


そこには、緻密な航路とともに、無数の赤いバツ印が書き込まれていた。

「これが現在の第六海路だ。ここには帝国の第三艦隊が遊弋ゆうよくしている。さらに、帝国から許可を得たタチの悪い『私掠船しりゃくせん』や、それに便乗した海賊どもが、この狭い海域を完全に封鎖しているんだ。直近の一ヶ月だけで、ウィストリアに向かおうとした商船が十一隻、跡形もなく襲撃され、沈められている」


レヴァインは指で地図の拠点を叩き、鋭い視線を龍馬に送った。

いつもなら「なんとかなるき」と茶化すはずの龍馬だったが、今回は違った。彼は一言も挟まず、真剣な目で地図のバツ印と、レヴァインの語る軍事情報をすべて頭に叩き込んでいた。

その横顔には、かつて数々の激動を生き抜いてきた男の、冷徹なまでの観察眼があった。


すべてを聞き終え、状況を完全に理解した龍馬は、腕を組んで小さく頷いた。


「なるほど。……じゃあ、第六海路を真っ直ぐ通るがは無理じゃのう」


「……は?」

レヴァインは耳を疑ったように声を漏らした。


「やっと理解してくれたんですね、龍馬さん!」

ルークが救われたような顔で歓喜の声を上げる。「じゃあ、この無謀な航海は中止ですね!?」


「いや、中止にゃあせん。真っ直ぐが無理なら、迂回すればええ」


龍馬は不敵に笑うと、広げられた地図の端をバサリと手で叩き、そのまま地図のさらに外側――航路すら描かれていない、ただ青い絵の具だけで塗りつぶされた空白の海域を指差した。


「で……こっちは、何があるがじゃ?」


その指が示している場所を見た瞬間、レヴァインの顔が今度こそ完全に引き攣った。絶句、という言葉がこれほど似合う表情はない。


「……そこは、航路じゃない。正気か、龍馬」


「何故じゃ?」


「死ぬからだ」


「ほう」


龍馬の促しに、レヴァインは忌々しげに額を押さえながら、その恐るべき海域の名を口にした。

「過去数百年間、利用された記録がただの一度もない呪われた海竜海域だ。そこは、この世界で最も狂暴な巨大魔獣――『シーサーペント』の巨大な巣窟になっている。入った船は一隻残らず、影も形もなく海の藻屑だ。異常な海流と、船を丸ごと飲み込む巨大な渦潮が絶え間なく渦巻いている。誰も近寄らない、近寄ってはならない世界の終わりだ」


レヴァインの必死の警告を、龍馬は顎を撫でながらフムフムと聞いていたが、やがて妙に楽しそうな声で尋ねた。


「つまり……そこにぁ、帝国の軍船もおらんのじゃな?」


重苦しい沈黙が流れた。

レヴァインは眉をひそめ、不承不承ながら答える。

「……居ない。あんな場所に艦隊を配置すれば、戦う前に全滅する」


「海賊は?」


「居ない」


「じゃあ、めんどくさい国の検問や軍船は?」


「居ないと言っているだろう!」


「ほう!」

龍馬はポン、と手を叩くと、満面の笑みを浮かべた。


「じゃあ、そこが一番安全じゃのう!」


「「「違(う(わ(います)!!!」」」


レヴァイン、ダリオ、ルークの声が、見事なまでに甲板にハモった。安全の定義が歪みすぎている。

そして龍馬の脳裏にも声が聞こえる。


『――お主、まさか我を』

(さてのう?)

『…………握り飯4つだ』


「よし、決まりじゃ!」

龍馬が拳を叩く。


「よしじゃない!!!」

レヴァインが、ついにエリートの仮面を完全にかなぐり捨てて激怒した。


「龍馬! お前は何故そんな、狂気としか思えない発想になる!?」

レヴァインは龍馬の胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄った。

「魔獣の巣窟を突っ切る奴があるか! 異常だ、お前の頭はどうかしている!」


だが、龍馬は怒るレヴァインの肩をポンと優しく叩くと、底知れない強さを持った目で笑った。


「レヴァイン。簡単じゃ。……世の中の多くの奴らぁな、何かしようとする時に、『出来ん理由』ばっかりを必死になって探しゆうがじゃ。帝国がおるから無理、海賊がおるから無理、海が荒れちゅうから無理、とな」


「それは、現実的なリスク管理というものだ!」


「じゃがな」

 龍馬は地図の空白の海を、力強く指差した。


「わしゃあ、‘出来る理由’を探しゆうだけじゃき。どれほど狭い針の穴だろうが、一筋でも通れる道がありゃあ、そりゃあもう『出来る』ってことじゃ」


「――ッ!」


レヴァインは言葉を失い、ただ絶句するしかなかった。


「……狂ってる。だが……」

 レヴァインは、恐怖と共に、言葉にできない高揚感が己の胸を叩くのを感じていた。


その夜。港の片隅にある安酒場。

カウンターの端で、ダリオは硬いエールを煽りながら、隣に座る男の背中に向かって、ぽつりと呟いた。


「おい。もしあの馬鹿が、本当にシーサーペントの渦巻くあの呪われた海域を抜けるつもりなら……。この街に、一人だけ居るな。その海の海流の癖を、身をもって知っている男が」


ガタ、と。

酒場の最奥、薄暗い席で黙々と安い強い酒を飲んでいた、あの酒浸りの元航海士の手が止まった。

前回、龍馬の誘いをあっさりと断った、過去に深い傷を持つ男――。


ダリオの言葉、そして昼間に港で耳にした「誰も通らぬ海を通る」という龍馬のあまりにも無謀で、しかし前代未聞の計画が、彼の耳に、そして凍りついた脳裏に嫌でも流れ込んでいた。


男の表情は、暗がりに隠れて見えない。

だが、彼は静かにグラスを置くと、誰もいない壁に向かって、吐き捨てるように小さく呟いた。


「……馬鹿野郎が。……本物の、大馬鹿野郎だ……」


その声には、怒りと、呆れと――そして、かつて失ったはずの、海の男としての熱い血が、再び脈打ち始める確かな音が混じっていた。


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