第五十六話:ユニオン号
ウィストリア商業ギルドから先払いの金貨をブン捕った後。
龍馬、ルーク、そして管理局のレヴァインの三人は、再びあの小汚い中古船ドックへと足を運んでいた。
ずっしりと重い金貨の袋が机に叩きつけられると、中古船商は信じられないものを見る目でそれを見つめ、長いため息をついた。
「……チッ。本当に持って来やがったな、このペテン師め」
皮肉を言いつつも、商売は商売だ。羊皮紙の契約書にサインが交わされ、正式に船の所有権が龍馬へと譲渡された。
龍馬は、そわそわとした様子で桟橋を渡り、ついに自分のものとなった中型船へとゆっくりと足を踏み入れた。
一歩、一歩、確かめるように甲板を歩く。
コンコン、と木製の手すりを拳で叩き、風に小さくはためく帆を見上げる。
屈み込んで船底の構造を覗き込み、最後に、遮るもののない船首の先端へと立った。海風が、彼の泥にまみれた羽織を大きくはためかせる。
龍馬は愛おしそうに船体を撫でながら、ぽつりと語りかけた。
「――今日からおんしゃは、わしらの船じゃ」
「だから!船に話しかけるの、本当に不気味ですからやめてくださいっ!」
背後でルークがすかさずツッコミを入れる。
だが、龍馬は振り返らず、ただ遠い海を見つめたまま静かに言った。
「ルーク。この船の名前ぁ、もう決まっちゅうがじゃ」
「え? もう決めてるんですか?」
「『ユニオン号』ぜよ」
横で腕を組んでいたレヴァインが、怪訝そうにその眉をひそめた。
「ユニオン……? 聞き慣れない響きだな。どういう意味だ?」
龍馬はそこでようやく振り返り、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「‘結ぶ’っちゅう意味じゃ。人を、国を、そしてこの広い海をな」
「綺麗に決まったところを申し訳ねぇがな、旦那」
契約書を片付けた中古船商が、今度は別の分厚い帳簿を開きながら、底意地の悪い笑みを浮かべて声をかけてきた。
「船は売った。だがよ……‘船員’はどうするんだ?」
「……ん?」
龍馬の動きが、ピタリと止まる。
「ほら来たぁぁぁぁぁぁ!!」
ルークが頭を抱えて叫んだ。
「そうですよ! 船を買っただけで動くわけないじゃないですか! 船を安全に導く『航海士』、舵を握る『操舵手』、帆を操る大勢の『甲板員』、飯を作る『料理番』、船を直す『整備工』……! 最低限動かすだけでも、一体何人の人間が必要だと思ってるんですか!」
船商はここぞとばかりに、さらに冷徹な現実を畳みかけてくる。
「それだけじゃねぇ。その野郎どもの毎日の給金、長旅に耐える大量の食料と水、破れた時のための予備の帆、補修用の木材、さらに港を出入りするたびに毟り取られる『港湾税』……。おい、陸の旦那。海ってのはな、船を買った後の方が、文字通り湯水のようにカネがかかるんだよ」
ルークは白目を剥いて泡を吹きそうになっていた。
「買った後の方がお金かかるなんて、聞いてないですよぉっ!」
「そりゃあ。船っちゅうのは、買った後もそんなにカネがかかるもんじゃき」
龍馬が事も無げに顎をなでる。
「気付いてたのか、お前は」
「だから、わしは元船乗りじゃち言うとろうが」
レヴァインが、これ以上ないほど冷ややかな、呆れ果てた視線を龍馬に突き刺した。
急遽、港の安酒場に場所を移し、臨時の船員募集を始めた三人。
龍馬はテーブルにギルドの金貨をいくつか積み上げ、景気よく声を張り上げた。
「おい、海の猛者ども! わしらの『ユニオン号』に乗らんか! ガッポリ儲かる大仕事ぜよ!」
酒場にいた荒くれ者の船乗りたちが一斉に色めき立ち、その中の一人が尋ねた。
「おいおい、景気がいいな! 航路はどこだ?」
「第六海路じゃ!」
龍馬が元気よく答えた。
――その瞬間、酒場全体の空気が、文字通り凍りついた。
それまで賑やかだった喧騒が一瞬で消え去り、船乗りたちは引き攣った顔で、積まれた金貨から一歩、また一歩と後ずさりしていく。
「だ、第六海路だって……!? 馬鹿言え、今あそこがどうなってるか知らねぇのか!」
「帝国の軍船が目を光らせ、血に飢えた海賊どもがうようよしてる、戦争前夜のド真ん中だぞ!」
「あんな呪われた海、誰が行くかよ!」
誰も、金貨に手を伸ばそうとはしなかった。
龍馬は困ったように頭を掻きながら、一人の大柄な船乗りに詰め寄った。
「なぁ、おんし。まっこと儲かるぜよ?」
「死ぬぞ」
「いやいや、死なんき」
「死ぬって言ってんだろ!」
「ははは、まぁ、多分死なんじゃろ」
「死ぬ!」
「そんときゃ笑って死んじゃるき!」
「認めたぁぁぁぁぁぁ!!!」
ルークの絶叫が酒場に響き渡る。
「本人が『死んじゃる』って言っちゃった!やっぱり生きて帰れない片道切符じゃないですかぁっ!」
「相変わらず、とんでもねぇ大馬鹿野郎だな、お前は」
酒場の入り口から、クツクツと喉を鳴らすような笑い声が聞こえた。
見れば、昨日龍馬に船の本質を見抜かれて驚愕していた、片脚が義木の老船工――ダリオが、煙草を燻らせながら立っていた。
「ダリオの親方……」
船乗りたちが道を開ける。ダリオは龍馬の前の席にどかと腰を下ろした。
「まっこと、大馬鹿野郎ぜよ」
龍馬は否定せず、ケラケラと笑う。
「だが、そういう大馬鹿は、俺ぁ嫌いじゃねぇな」
ダリオは不敵に笑うと、龍馬をまっすぐに見据えた。
「船は買った。馬鹿でけぇ夢もある。……だがな、旦那。船ってのは、どれほど立派な理想を掲げようが、一人じゃ絶対に動かん。海の怖さを知る、本物の身内が必要だ」
そう言うと、ダリオは酒場の最奥、ランプの光すら届かない薄暗い特等席を顎で指し示した。
「……あそこに、一人、死に損ないの男が座ってる。かつては我が国でも三本の指に入るほどの名航海士として、その名を轟かせた男だ。……まぁ、今じゃただの、過去の傷に怯える惨めな酒浸りだがな」
ダリオが紹介したその男――。
ボロボロの外套を深く羽織り、周囲の喧騒を完全に拒絶するように、ただ黙々と強い酒を煽り続けている。だが、そのグラスを握る手のタコは、彼がどれほど過酷な舵を握り続けてきたかを無言で物語っていた。
未来の、大船団の幹部候補となる男との、それが最初の出会いだった。
龍馬は、迷うことなくその男のテーブルへと歩み寄り、椅子の背を引いて向かいに座った。
男は視線すら上げず、ただ冷ややかにグラスを見つめている。
「……乗らんか、わしの船に」
龍馬は、極めて短く、真っ直ぐに切り出した。
男は、外套の奥から、酷く濁った、だが射抜くような鋭い瞳を龍馬へと向けた。
「……断る。俺はもう、二度と海へは出ない。陸で溺れて死ぬと決めている」
「そうか」
龍馬は、即座に立ち上がった。
「え……?」
男は、逆に激しく困惑した。
ダリオの紹介でやってくるような奴だ。もっと必死に食い下がるか、熱い理想を語って説得してくるものだと思っていた。だが、この男は、驚くほどあっさりと引き下がったのだ。
龍馬は羽織を直し、困惑する男を見下ろしながら、フッと柔らかく笑った。
「おんしが嫌なら、それでええがじゃ。無理やり乗せても、海の神様に嫌われて船が沈むきに。……安心しや、船ぁ、他にも動かせる奴はおる」
そう言い残すと、龍馬は一度も振り返ることなく、大股で酒場を出て行ってしまった。
「……」
男は、取り残されたようにグラスを握りしめたまま、龍馬が去った酒場の扉をじっと見つめていた。
押し付けがましくない、だが妙に胸の奥をざわつかせる、あの大きな背中――。
男の凍りついた心の奥底に、ほんの小さな、だが消えない「興味」の火種が灯った瞬間だった。
夕暮れ。
再びユニオン号へと戻ってきた三人。
船員は未だにゼロ。山積みの維持費に、航路の危険。問題は、何一つとして解決していない。
だけど、目の前には、確かに自分たちの「船」が、波に揺られながらそこに存在していた。
龍馬は船首に立ち、赤紫から深い群青へと染まりゆく、どこまでも広大な海を見つめていた。
「……始まったのう、レヴァイン」
隣に並んだレヴァインが、フッと鼻で笑う。
「何がだ」
「流れじゃ」
「はっ、船一隻でか」
「なに言うちゅうか」
龍馬は、その鋭い目を世界の果てへと向けた。
「世界を流すんにゃあ船一隻ありゃあ充分じゃろうが」
レヴァインが眉をひそめる。
龍馬は遠く、海を眺めていた。
その視線の先にあるのは――ウィストリアの都。その向こうに広がる、戦火がくすぶる世界。
そして、いずれ世界中の海を繋ぎ、歴史を根底からひっくり返すことになる、未来への壮大な航跡だった。
ユニオン号は、夜の静かな波に揺れながら、その大嵐の始まりを告げるように、ギィと優しく、力強く軋んだ。




