第五十五話:信用の価値
「残りは、わしの商いで叩き出す!」
そう豪語した龍馬だったが、当然ながら、現実の壁が消えてなくなったわけではない。
リサから託された金貨二百枚を頭金に据えたとしても、中型古船を手に入れるには、まだ金貨五百枚という気の遠くなるような大金が不足していた。
ルークは両手で頭を抱えて激しくのたうち回った。
「いやいやいやいや! “叩き出す”って、一体どうやってですか!? 今日明日で金貨五百枚なんて、絶対に無理ですよ! どこかの大国の中央銀行でも襲う気ですかぁっ!?」
同行していた中古船商も、呆れたように鼻で笑いながら煙草の灰を落とした。
「旦那、夢を見るのは勝手だがな。そいつの言う通りだ。船ってのはなぁ、海を渡るための道具である前に、‘信用’で動くもんなんだよ。金の無い奴、信用の無い奴に、海は絶対に渡れねぇさ」
「……信用、かえ」
その言葉に、龍馬が静かに反応した。
怒るでもなく、困り果てるでもない。その瞳の奥に、まるですべての謎が解けたかのような、奇妙に深い光が灯る。
「おう。おんしゃ、今ええことを言った。海は‘信用’で渡るもの、か……」
龍馬はフッと笑うと、懐の奥底、羽織の裏地に隠された小さな革袋に手を伸ばした。
引き出されたのは、かつて行商の途中で、レンジから「役に立つ」と手渡されていた、貨幣の入った革袋だった。
――『アーデルハイト銀貨』。
チャリン、と龍馬がそれをホテルの木製のテーブルに置いた瞬間。
それまで退屈そうにしていた中古船商の目が、文字通り点になった。次いで、彼の顔からサーッと血の気が引いていく。
「……お、おい。待て。おい……!」
船商は椅子をガタリと鳴らして立ち上がり、震える指で銀貨を指差した。
「なんでそれを……なんでそれを、お前みたいな陸から来たばかりのぽっと出の商人が持ってるんだよ……!?」
周囲の空気の密度が、一瞬でピリピリと張り詰める。
後ろで静観していたレヴァインすらも、その銀貨を目にした刹那、完全に目を見開いて絶句していた。
「龍馬……お前、それをどこで手に入れた」
「レヴァインさん? なんですかこれ、ただの銀貨じゃないんですか?なんか随分精密ですけど」
尋常ではない周囲の怯えぶりに、ルークがオドオドしながら尋ねる。
レヴァインは銀貨から目を離さないまま、苦り切った声で説明を始めた。
「……ルーク。それは普通の市場に流通する貨幣じゃない。アーデルハイト銀貨――我が最高評議会が、世界に数ある港湾都市の中でも、極めて密接な関係を持つ‘特定の超大物’にしか発行しない‘信用貨幣’だ」
「信用、貨幣……?」
「『この銀貨を持つ者が行うあらゆる取引の不渡りは、ウィストリアが全額補償する』……。つまり、その銀貨の本質は通貨じゃない。ウィストリアという国家そのものが、その身を削ってでも価値を担保する、最強の国家保証付き信用証なんだよ」
レヴァインの声が重さを増していく。
「発行数は世界で約千枚。所持を許されるのは、大陸を代表する巨大港湾都市の首長、世界を牛耳る超巨大商会の会頭、あるいは一部の特権的な外交関係者のみ。……文字通り、‘ウィストリアの信用そのもの’が形を成した代物だ」
普通の商人であれば、この事実を知った瞬間、「これで船が買える!」「大富豪だ!」と狂喜乱舞しただろう。
だが、坂本龍馬という怪物は、やはりどこまでも規格外だった。
彼はテーブルの上の銀貨を指先で弄び、ランプの光に透かしながら「レンジのヤツ……こんどごっつい旨い酒奢っちゃるわ」と笑みを浮かべ、一瞬でその「本質」へと辿り着いた。
「……違うのう、レヴァイン。こりゃあ、ただの‘高価な金目のもの’じゃないわえ」
「……何?」
「これは‘信用’という目に見えん怪物を、無理やり金属の形に落とし込んだ‘モノ’ながじゃ」
レヴァインが、本日二度目の絶句。龍馬の言葉は、ウィストリアがこの銀貨を作った政策意図の核心を、容赦なく抉り出していた。
龍馬は不敵に笑いながら、さらに言葉を続ける。
「なぁ、レヴァイン。おんしゃら評議会が、世界中の大港湾都市にこの銀貨をばら撒いちゅう本当の理由ぁ……。ウィストリアが干からびそうになった時、外の国々に‘おまんらには何も売らない’と言われんためじゃろ?」
「――ッ!」
レヴァインの身体が、明確に強張った。
「こいつはどんくらいじゃ?金貨の二倍か?五倍か?」
「……十倍だ」
「はっ!豪気じゃのう」
一枚取り出した銀貨を弾きながら、獰猛に笑う。
「この国ぁ、食い物を止められたら一日で終わる脆い国じゃ。じゃき、おんしゃらぁは、いつ裏切るかわからん『国家同士の繋がり』やのうて、物流の心臓部である『港そのもの』と直に繋がろうとした。国家がどれほど揉めて戦争を始めようが、港の商人たちだけは、この銀貨の信用に釣られて商いを止めんように。……違うかよ?」
沈黙。
レヴァインは何も答えなかった。いや、答えられなかった。
たった数日この都に滞在しただけの陸の男が、ウィストリアが何百年もかけて構築してきた世界戦略の「一番の弱み」と「一番の企み」を、完全に看破してみせたのだ。
「……化け物め」
レヴァインは絞り出すように呟いた。
「そこまで分かっているなら話は早い。その銀貨を中古船商に引き渡せ。五十枚あれば船は買える。その袋ごと渡せば新造艦だって買えるだろう」
「いや」
龍馬は即座に首を振った。
「こんな面白いもん、ただの買い物で使ってしまうにぁ、まっこと勿体ないきに」
「は? 何を言ってるんですか龍馬さん!」
ルークが素っ頓狂な声を上げる。
「ルーク、商売っちゅうんはな、手元のカネをそのまま右から左へ流すだけじゃあ、ちっとも面白うないがじゃ。この銀貨ぁ、ただの‘払う金’じゃない。‘ウィストリアちゅう巨大な怪物の信用を、そっくりそのまま借りるための特大の切り札じゃ。これを使えば……まだ手元にない‘未来のカネ’を動かせる」
――レバレッジ。
まだこの世界にその概念は定着していない。だが、龍馬の頭の中には、すでにその悪魔的なまでに合理的でダイナミックな「カネの動かし方」が完成していた。
「レヴァイン、今すぐウィストリアの『商業ギルド』へ行くぜよ。この銀貨を人質(担保)にして、これから始まる大仕事の‘先払い受注’をブン捕りに行くきに!」
現在、ウィストリア周辺の海域は、帝国の鉄買い占め、魔導具材料の異常な高騰、それに伴う航路の混乱と戦争準備により、完全に大パニックに陥っていた。
「荷物はあるが、危険すぎて海へ出られない」「運べるだけの肝と腕を持った商船が不足している」――まさに、血液の循環が止まりかけている状態だった。
龍馬が目をつけたのは、その“止まりかけている流れの隙間”だった。
「カネもない、船もない、組織もない。だが、お前には『流れを見る力』だけはある、か……」
並んで歩くレヴァインは、龍馬の横顔に、底知れない恐怖と期待を感じていた。
一刻ののち。三人はウィストリア商業ギルドの荘厳な本部へと乗り込んだ。
最初、ギルドの幹部たちは、泥にまみれた羽織を着た龍馬を「陸の骨董拾いが何の用だ」と、完全に舐めきった態度であしらおうとした。
だが、龍馬がテーブルに『アーデルハイト銀貨』を叩きつけ、さらに管理局の責任者であるレヴァインがその背後に無言で直立した瞬間、幹部たちの顔色は一変した。
「ギルドの旦那方、今、帝国の嫌がらせのせいで、北方の魔導材料の流通が完全に死んじゅうろ?」
龍馬は不敵に笑い、ギルドの地図を指で叩いた。
「誰も行きたがらん、海賊と帝国の軍船がひしめく第六海路……。わしが、そこを突っ切って、来月までに必要な材料を丸ごとここに運んでみせる。じゃき、その銀貨の信用を担保に、‘運賃の全額先払い’と、‘次回の取引の独占権’の契約書にサインを貰おうか」
龍馬が提示したのは、緻密極まる市場の分析と、帝国の裏をかく完璧な航路の提案。金も船もまだない男が、その圧倒的な「知略」と「国家の信用」だけを武器に、ギルドの百戦錬磨の老人たちを完全に圧倒していく。
長い、長い交渉の末。
ギルドの最高幹部は、震える手で契約書にサインを書き終えると、信じられないものを見る目で龍馬を睨みつけた。
「……つまり、貴様は……。まだ手元に船も一隻もなく、何一つ荷を運んでもいない、この世に‘まだ存在していない商い’を、先にその信用だけで成立させると言うのか……!?」
龍馬は、ギルドから渡された、先払い分の金貨がギッシリと詰まった重い袋を持ち上げると、ニカッと太陽のように笑った。
「旦那、商いっちゅうんはな、‘今、目の前にあるモノ’だけでやるもんじゃないきに」
「何……?」
「これから新しゅう流れる‘未来’に、先に値段を付ける。それこそが、本当の商いじゃ」
その言葉を聞いた瞬間、レヴァインの背筋に、ゾクッとした冷たい戦慄が走った。
この坂本龍馬という男は、ただの優秀な商人ではない。
彼は、物資を運ぶ「物流」を作ろうとしているのではない。この世界の経済、国家、そして人間の欲望そのものを巻き込んだ、『信用の流れ』そのものをゼロから作り変えようとしているのだ。
ギルドの重い鉄扉を出ると、外はちょうど、海都を赤紫に染め上げる美しい夕暮れ時だった。
龍馬は、先払いで勝ち取った大量の金貨の袋を肩に担ぎ、再びあの中古船ドックの岸壁へと向かった。
ルークが「本当に、本当に未来のお金で船を買っちゃったよ……」と、未だに現実が信じられない様子で放心している。
龍馬は、波間にぷかぷかと揺れる、あの傷だらけで小さくてボロい中型船を思い浮かべた。
世界中の誰もが見向きもしなかった、海の墓場の片隅に眠るボロ船。
だが、これこそが、これから世界中の海に、既存のすべての国家を揺るがす巨大な大嵐を巻き起こすことになる、運命の第一歩――未来の『ユニオン号』だった。
龍馬は、夕日に照らされる船体を愛おしそうに見つめながら、ニッと静かに、しかし確信に満ちた声で笑った。
「――待っちょれ。すぐ、迎えに行くきのう」




