第五十四話:商いの値段
海の都ウィストリアの朝は早い。だが、俺――ルークの頭痛が始まるのは、それよりもさらに早かった。
「……買う。絶対に買うぜよ、ルーク。あの船がありゃあ、わしらの新しい『流れ』が始められるきに!」
海上ホテルの廊下を歩いている間も、坂本龍馬という男は完全に「船モード」に突入していた。両手をせわしなく動かし、頭の中で新しい航路の図面でも広げているのか、その目は完全に据わっている。
一方の俺は、文字通り絶望のどん底にいた。
「お願いですから目を覚ましてください、龍馬さん……。昨日レヴァインさんの話を聞いたばかりじゃないですか。国家レベルの危険思想ですよ? それ以前に、僕たちには今、船を買うようなお金なんて――」
「ははは! カネぁ動かせば入ってくるもんながじゃ!」
入ってきません。普通は出ていくだけです。
俺は一歩歩くごとに寿命が縮むような思いを抱えながら、昨日訪れたあの「海の墓場」――中古船ドックへと再び足を運ぶ羽目になった。
二度目となる中古船市場の空気は、昨日のようなロマンに満ちたものではなかった。
潮の臭いも、飛び交う怒号も、今はただ冷徹な「現実」の数字として俺たちの前に立ちはだかっていた。
龍馬さんは船の構造を見て目を輝かせるのをグッと堪え、案内された中古船商の事務所の机に、どかと腰を下ろした。
目の前に座る、海犬のような鋭い目をした中古船商が、一枚の分厚い羊皮紙をトントンと指で叩いた。
「おい、陸の旦那。昨日ダリオの親方が見込んだ男だってから、特別に実用的なやつで見積もりを出してやった。……これが、お前の欲しい『自由』の値段だ」
提示された見積書を、俺は龍馬さんの横から恐る恐る覗き込んだ。
・中型古船(要修繕)一隻:金貨四百枚
・船体・帆の補強修繕費:金貨百五十枚
・最低限の船員雇用の手付金(三ヶ月分):金貨百枚
・ウィストリア入港・航路許可登録税:金貨五十枚
【総計:金貨七百枚】
「……な、なな、ななひゃく……!?」
その瞬間、俺の視界は文字通り真っ白になった。
金貨七百枚。
ガルガドの寺田屋で、一体何千杯のラーメンと酒を売れば届くというのだ。それどころか、一生かかってもお目にかかれないような天文学的な数字が、そこには淡々と並んでいた。俺は膝の力が完全に抜け、その場に崩れ落ちて白目を剥いた。
いつもなら「なんとかなるき!」と笑い飛ばすはずの龍馬さんも、流石にその数字を前にして、ピタリと口を閉ざした。
腕を組み、険しい顔で羊皮紙の数字をじっと見つめている。
彼は、思いついたら周囲を巻き込んで突っ走る台風のような男だ。けれど、決して現実を理解していない世間知らずの馬鹿ではない。むしろ、大金を動かすことの本当の重さと恐ろしさを、誰よりも知っている。
――夢はある。だが、今の自分たちの手には、到底届かない。
事務所を支配する重苦しい沈黙が、龍馬さんに「世界の壁」の冷たさを刻みつけているようだった。
『……ふん。不甲斐ない奴め』
その時、俺の脳裏に直接、あの恐ろしくも厳かな、しかしどこか呆れたような声が響いた。
龍馬さんの影の隙間から、一瞬だけ、怪しく青く光る鱗の残像が見えたような気がした。この街にやってきても密かに同行している、あの伝説の『皇帝龍』だ。
皇帝龍は、商人の事務所の天井を見上げるようにしながら、退屈そうに言葉を続けた。
『“アレ”を丸ごと、この場に出してやろうか?』
俺は聞いただけだけど、多分アレとは”竜の素材”だろう。確かにそれなら船の一隻や二隻は簡単に買えそうだ。
その言葉を聞いた瞬間、俺は「神様仏様、皇帝龍様……!」と縋り付きそうになった。それがあれば、この息苦しい現実から一瞬で解放される。
だが――。
「――いかん。おまんわしを甘やかすなや」
龍馬さんは、即座に、そして断固とした声でそれを拒絶した。
『ほう』
「生き死にの掛かったがじゃわしの誇りなんぞどうでもええがな?じゃけんどこりゃあまだわしの我儘の範疇じゃ。わしゃこの手ぇで自分の商いを掴みたいがぜよ」
龍馬さんの瞳には、一切の揺らぎがなかった。
どれほど遠く、高い壁であっても、神のような力に頼って超えてしまっては意味がない。自分の足で歩き、自分の頭で稼ぎ、正当な「対価」として船を勝ち取る。それこそが、坂本龍馬という男の、絶対に譲れない絶対的な矜持だった。
だから――――
「……はぁ。もう、しょうがないですね……」
重苦しい空気の中、俺は深いため息をつきながら、よろよろと立ち上がった。そして「皇さん、すいません、アレ出してください」
『ん?あぁ、アレか――ほれ』
皇さんは影から、厳重に包まれていた「それ」を吐き出した。
「……ん? ルーク、それは何じゃ?」
龍馬さんが不思議そうに目を丸くする。
俺が机の上にドン、と置いたのは、随分と使い込まれて油の染みた、ずっしりと重い革の金袋だった。口を縛る紐を解くと、中から、ガルガドの街や王都で流通している本物の金貨が、鈍い音を立ててこぼれ落ちた。
「出発する前、女将さんに持たされたんです。『あいつがまた旅先で、とんでもない大バカをやらかしたら、これで顔を叩いて正気に戻しな』って」
俺は苦笑しながら、その金袋を龍馬さんの前へと押し出した。
中に入っているのは、金貨二百枚。ウィストリアで船を買うには、到底足りない端金かもしれない。だけど、そこにはリサさんが毎日、怒鳴り散らしながら、煙草を咥えて、汗水垂らして守ってきた『テラダ屋』の血と汗の結晶が詰まっていた。
「女将さんはね、全部わかってたんですよ。龍馬さんが、ただの商売で終わるわけがないって。世界へ飛び出して、また大嵐を起こすだろうって……全部、理解して、僕にこれを預けてくれたんです」
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龍馬は世界へ出る。けれど、龍馬には帰る場所がある。彼を信じ、背中を支えてくれる仲間が、あの小さな食堂で待っている。
寺田屋こそが、坂本龍馬という旅人の、始まりの「港」なのだ。
『――ええい! 人間の情話などどうでもよい! それよりルークよ、この袋を我が空間から引き出す際、我の美しい鱗に煤油が掠れたぞ!』
突然、龍馬の影がぶわりと膨らみ、皇帝龍が憤慨したように声を荒げた。
『我は悠久を生きる高潔なる皇帝龍であるぞ! それを、ただの荷物預かり所や便利な金庫か何かと勘違いするな!! 甚だ不愉快である!』
威厳たっぷりに怒る皇帝龍だったが、言っている内容が完全に「ただの愚痴」だったため、事務所の空気が一気に軽くなった。中古船商は「なんだ、今の声は……?」と怯えている。
「あはは! すまんすまん、悪かったきに!」
龍馬は笑いながら、懐から「塩おにぎり」をポンポンと影の口へと放り込んだ。
『……む、モグ……。ふん、相変わらずこの『コメ』という奴は、妙に美味いな……。今回だけは許してやる』
皇帝龍は一瞬で機嫌を直し、影の奥で満足そうに咀嚼音を立て始めた。完全に、寺田屋の頃のような、家族の距離感だった。
龍馬は、手渡されたリサの金袋を、愛おしそうに両手で包み込んだ。
ただの金属の塊じゃない。そこには、リサの信頼、寺田屋の温もり、仲間たちの想い――そのすべてが、ずっしりとした重みとなって宿っていた。
龍馬はゆっくりと立ち上がると、事務所の窓から、ドックに並ぶ中古船を見上げた。
その目は、昨日船を見つけた時の、少年が新しいおもちゃを見つけたような「夢」の目ではなかった。
背負ったものの重さを知り、この金を頭金にして、足りない分はここで死に物狂いで稼ぎ出すという、冷徹で、しかし誰よりも熱い“覚悟”の目だった。
「……旦那、どうするんだ? 陸の金じゃ、うちじゃあ額面通りには変えられねぇぞ」
中古船商が尋ねる。
龍馬は、金袋を強く、強く握りしめ、海の向こうの水平線を見据えながら、不敵に、そして最高に真っ直ぐに言い放った。
「――買うぜよ。この金は頭金じゃ!足りん分は、この海で稼ぐ!わしの商いぁ、ここから始まるがじゃき」」
夕暮れの風が、海の都に新しい嵐の予感を運んでくる。
ただの夢想は終わり、坂本龍馬の本当の「戦い」が、この海の都で幕を開けようとしていた。




