第五十三話:海を繋ぐ船
「……なんで異国に来てからというもの、毎日毎日こんなに歩かされるんですかぁ……。ふくらはぎがパンパンを通り越して、もう感覚がないですよぉ……」
朝の中央港。
ルークは岸壁の荷出し箱に腰掛け、完全に魂が抜けた顔で己の足を叩いていた。
ウィストリアの活気は相変わらず凄まじいが、連日の強行軍に彼の体力はとっくに限界を迎えていた。
だが、その隣に立つ坂本龍馬は、完全に真逆だった。
昨日、管理局のレヴァインから見せられた『中央穀物管理区』の現実。帝国による食糧の買い占め、そしてこの美しい都が抱える絶対的な脆さ。
それらの重い現実を突きつけられながらも、龍馬の瞳は絶望に曇るどころか、むしろ獣のようにギラギラと輝いていた。
(止められん流れ?…………ふざけんなちゃ。止められんなんて流れは無いんじゃ!向きを変える!それだけで流れるもんじゃき)
彼の頭脳は、絶望の淵でこそ、恐ろしい速度で次の手を求めて回転を始めていた。
「おい、ルーク。へばっちゅう暇はないぜよ。昨日見かけた、あっちの面白い場所へ行くきに!」
「ええっ!? また歩くんですかぁ!?」
泣き言を言うルークを容赦なく引っ張り、龍馬が向かったのは、華やかな中央港の喧騒から大きく外れた、港湾地区の最果てにある中古船ドックだった。
そこは、先ほどまでのまばゆい海上都市の景色とは打って変わり、暗い陰鬱な空気が漂っていた。
並んでいるのは、色褪せた帆をだらりと垂らした古びた帆船、部品を剥ぎ取られるのを待つ解体待ちの巨船、無数の傷が刻まれた黒い船体。
周囲には、こびりついた古い機械油と鼻を突く濃い潮の臭いが立ち込め、地べたには無気力に煙草を吸う老船乗りたちが座り込んでいる。
そこは、役目を終えた船たちが最後に流れ着く、文字通りの“海の墓場”だった。
「ひぃっ……なんですかここ、お化けが出そうですよ! 絶対に嫌な予感しかありませんからね!?」
ルークが自分の肩を抱いてガタガタと震え出す。
龍馬は、そんな相棒の頭をくしゃくしゃと雑に撫でながら、不敵に笑った。
「ははは! おまん、昨日からそれしか言うちょらんのう! けんどなルーク、宝の山ぁ、いつだってこういう小汚い場所に眠っちゅうもんながじゃ」
龍馬は、ドックに係留されたボロ船の一隻一隻を、まるで恋人でも見つめるかのような熱い目で見つめ始めた。
彼にとって、船はただの「海を渡るための移動手段」ではなかった。
龍馬の視線の先にある船は――広大な海を越えられる力であり、王や国家が定めた理不尽な国境を平然とまたげる翼だった。
これがあれば、帝国に隠れて大量の穀物を運ぶこともできる。
理不尽な戦争から人を逃がすこともできる。
陸の権力者が隠したがる世界中の「情報」を、風に乗せて瞬時に運ぶことだってできる。
何より船は、どこの国の法にも縛られない。
「……やっぱり、まっこと素晴らしいのう」
龍馬はぽつりと、しかし深い確信を込めて呟いた。
「船っちゅう存在ぁ……それ自体が、ひとつの‘自由’ながじゃ。船ぁ、世界に新しゅうて、誰にも止められん『流れ』を作れるがじゃな……」
「お前、本当に昨日の俺の話を聞いていたのか?」
背後から、呆れたような低い声が響いた。
振り返ると、濃紺の外套をなびかせたレヴァインが、眉間を指で押さえながら歩いてくるところだった。
忙しい身でありながら、龍馬という「大馬鹿野郎」の動向が気になり、結局付き合わされてしまったらしい。
「この国が食糧危機で潰れかけてるって現実を突きつけた翌朝に、ボロ船の品定めとはな。お前の頭の構造を疑うよ」
「ははは! 聞いたきに、こうして必死に考えちゅうがじゃ、レヴァイン!」
龍馬は全く怯むことなく笑い返した。
彼は理想論だけで終わる男ではない。目の前にある最悪の現実に対して、どうやって具体的な牙を剥くか、その手段を本気で探しにきているのだ。
「おい、そこの陸の兄ちゃん。ウロウロと邪魔だ。ここは死に損ないの船を片付ける場所だ、お遊びなら中央港へ帰りな」
不意に、解体中の船の影から、片脚が義木の老人が現れた。
深い皺が刻まれた顔、海風に鍛え上げられた頑強な身体。この中古船ドックの管理をしている老船工、ダリオだった。
かつては数々の修羅場をくぐり抜けてきた名船長だったというその佇まいで、ダリオは龍馬をあからさまに舐めきった目で見下ろした。
「船のロープの結び方も知らねぇような陸者に、我が子同然の船たちを値踏みされるのは、胸クソが悪いんでね」
その挑発的な態度にも、龍馬はただ「ほう」と笑みを深くしただけだった。彼は一歩前へ出ると、ダリオの背後にある一隻の、中型の古びた商船を指差した。
「おんしゃ、そう言うが、あの船ぁまっこと凄まじい造りをしちゅうぜよ」
「……あ?」
龍馬は船体を鋭い目で見つめながら、流れるように言葉を紡ぎ出した。
「外見ぁボロじゃが、船底の竜骨の組み方が異常に太い。これぁ波の荒い大海原を渡るための構造じゃ。じゃが、舵の反応を高めるために船尾の形がちくと絞られちゅう……。積載の効率を落としてまで、速度と、浅い水路での小回りを最優先した設計ながじゃ。……おまけに、甲板のあの不自然な補強構造、いざとなれば商売用のクレーンを外して、すぐにでも軍用の大型バリスタ(大弩砲)を三基は転用できるようになっちゅう。……違うちゅうかね?」
「ッな……!?」
老船工ダリオは、持っていた工具を落とさんばかりに目を見開いた。
今、この陸の男が口にしたことは、すべてその船の隠された「本質」だった。
図面を見たわけでも、海の歴史を知っているわけでもないはずの男が、ただ一瞥しただけで、その船の速度、積載効率、武装への転用可能性までを完璧に見抜いてみせたのだ。
「お前……ただの陸者じゃねぇな……!?」
「わしゃ、元船乗りじゃけえな」
ダリオの驚愕を背に受けながら、龍馬はレヴァインの方を振り返り、不敵にニヤリと笑った。
「レヴァイン。昨日おんしゃは『ウィストリアは海路を封鎖されれば飢える』と言った。……じゃが、それぁ『国同士のやり取り』でカネや食い物を囲い込もうとするきに、一箇所を止められただけで終わるがじゃ」
「……何が言いたい?」
レヴァインの目が、一瞬で管理局の責任者の鋭さに戻る。
「国にゃあしがらみが在る。じゃから弱い。なら、国籍も人種も、『しがらみも』とっぱずして、一つの巨大な‘流れ’になればええ」
龍馬は両手を大きく広げ、海の墓場に眠るボロ船たちを指し示した。
「どこの国にも属さない。王様の命令も聞かない。じゃが、世界中の海を自由に行き交い、どこの国とでも平然と商いをする、独立した商船集団を作るがじゃ。帝国が『ウィストリアに流すな』と海を塞ぐなら、その包囲網の隙間をすり抜けて、止められんほどの食い物を、止められんほどの速度で流し続ければええ!」
「――ッ!」
レヴァインは、本気で息を呑んだ。
それは、既存のこの世界のあらゆる常識を覆す、恐るべき危険思想だった。
国家に縛られない流通。戦争という国家の最高意思決定すら無視して動き続ける、民間の物流ネットワーク。
既存の海運常識とは異なる思想が、今、この世界の最果てのドックで産声を上げたのだ。
レヴァインは本気で龍馬の目を覗き込み、その肩を強く掴んだ。
「……龍馬。お前、自分がどれほど恐ろしく、危険なことを口にしているか分かっているのか?」
「危険?」
「国家というものはな、自分たちの管理下にない『国境を超える独立物流』を、何よりも嫌い、恐れるんだ。制御ができない、税も毟り取れない、どこから情報が漏れるかもわからない。お前の言っていることは、帝国だけでなく、このウィストリアにとっても、すべての既存の国家にとっての‘明白な反逆思想’だぞ!」
レヴァインの言うことは、国家の官僚として100%正しい指摘だった。
だが、坂本龍馬という怪物は――その警告を聞いて、今日一番の、最高に愉快そうな大爆笑を爆発させた。
「――ははははは!! じゃき、面白いがじゃろうが!!」
「な……っ!」
「誰もやったことがない。国家の偉い奴らが全員青ざめて怒り出す。……まっこと、命を懸けるに値する、特大の洗濯じゃき!」
「ほら、また始まったぁぁぁぁぁぁ!!!」
それまで黙って聞いていたルークが、ついに耐えかねたように両手で頭を抱えて絶叫した。ドックにいた老船乗りたちが、一斉にビクッと肩を震わせる。
「この人! この坂本龍馬っていう人は! ガルガドにいた時もそうでしたけど、超大迷惑な厄介事を、いつもその場の『思いつき』と『ノリ』で始めるんですよぉぉ!! レヴァインさん、騙されちゃダメです! この人は本物の大馬鹿野郎なんですぅぅ!!」
「がははは! ルーク、おまんのツッコミぁ、いつも切れ味がええのう!」
龍馬がケラケラと笑うことで、ドックを支配していた張り詰めた空気は、一瞬でいつもの寺田屋のような軽いものへと霧散していった。レヴァインもまた、呆れを通り越して、最早笑うしかなかった。
やがて、海都に静かな夕暮れが訪れた。
オレンジ色に染まる波間に揺れる、ドックで一番ボロくて小さな一隻の中古船。龍馬はその船首の先端に、ふらりと立ち上がっていた。
ギィ……ギィ……と、波を受けて木造の船体が軋む音が、静かな夜の始まりを告げるように優しく響く。
龍馬はしゃがみ込むと、愛おしそうに、その傷だらけの甲板の木肌を優しく撫でた。
「……おまん。こんな小汚い場所で腐るにぁ、まだ早すぎるのう。……わしと一緒に、世界の果てまで本当の『世界』を見に行きたいがか?」
背後で腕を組んでいたレヴァインが、フッと鼻から煙を抜いた。
「おい、龍馬。船に話しかけるな。気味が悪い」
「ははは! 何を言うちゅうがじゃ! 命懸けで海を渡ってきた船にぁな、人間と同じようにちゃんと魂があるもんながじゃき!」
レヴァインは、夕日に照らされる龍馬の大きな背中をじっと見つめていた。
最初はただの、陸から来た面白い商人だと思っていた。だが、この男の器は、海よりも深く、そして計り知れない。
レヴァインは咥えていた煙草を足元で消すと、最後に、静かに問いかけた。
「……龍馬。お前は結局、この世界で何を作ろうとしている?」
龍馬は振り返らなかった。
ただ、夕日に真っ赤に染まる、どこまでも広大な海の水平線の先を見つめたまま、不敵に、そして最高に美しい笑みを浮かべて答えた。
「――誰にも、王様にも帝国にも、絶対に止められん‘大きな流れ’じゃ」
吹き抜ける潮風が、龍馬の羽織を大きくはためかせる。
海の都ウィストリアの最果てで、世界を繋ぐ大船団の夢が、今、確かに動き出そうとしていた。




