第五十二話:止まれぬ国
海の都の朝は、胃袋への奇襲から始まった。
海上ホテルの食堂に並べられたのは、見た目は普通の粥なのに口に入れた瞬間スパイスの辛さが突き抜ける魚介粥、目が覚めるほど酸っぱい謎の果実酒、香辛料をこれでもかとすり込んで干された怪しい魚、そして石鹸みたいな匂いのする黒パン。
「なんで朝からこんなに辛くて酸っぱいんですか、この国はぁ……」
ルークが涙目で粥を突ついている横で、龍馬は「うまいっ! 朝から身体がシャキッと目ぇ覚めるぜよ!」と、信じられない勢いでそれらを平らげていた。
そこへ、昨夜知り合った管理局のレヴァインが現れた。
昨夜の酒場の時とは違って、その表情はひどく硬く、張り詰めていた。
「――龍馬。朝食が終わったら、少し付き合え」
その声のトーンだけで、ただ事ではないと分かる。
龍馬はスプーンを置くと、いつもの笑みを引っ込め、鋭い目でレヴァインさんを見つめた。
「……この都の腹ん中を見せてくれるがか」
レヴァインは否定も肯定もしなかった。ただ、深く外套の襟を立てただけだった。
レヴァインに連れられて水路をいくつも渡り、たどり着いたのは、一般の市民や商人が決して立ち入ることのできない、重警戒を敷かれた特別区域――『中央穀物管理区』だった。
そこはまさに、海上国家ウィストリアの“国家の胃袋”そのものだった。
視界を埋め尽くすのは、天を突くほどに巨大な石造りの倉庫群。その前には、数え切れないほどの小麦袋の山が築かれ、日に焼けた労働者たちが蟻の群れのように忙しなくそれを運び込んでいた。
あちこちで役人たちが目を光らせ、穀物の検査や品質確認を行い、倉庫の入り口には魔法の青い光を放つ巨大な「魔法冷蔵庫」が稼働して、冷気を吹き出している。
槍を携えた厳重な警備の兵士たちが鋭い視線で行き交う中、書記官たちが「北方産、三百八十袋!」「第四ドックへ回せ!」と、嗄れた声で数字を叫び合っていた。
怒号と熱気、そして小麦の粉塵が舞うその光景を、龍馬は一瞬で見抜いた。
「……なるほど。この国じゃあ、カネや宝石なんかより、この食い物そのものが一番の“戦略物資”ながか」
「違う」
前を歩くレヴァインが、低く冷たい声で遮った。
「戦略物資なんて高尚なものじゃない。これは“命”そのものだ」
レヴァインは巨大な倉庫の壁に背を預け、煙草を咥えた。だが、火はつけない。
「昨日も言ったが、ウィストリアは人口が多すぎる。群島国家ゆえに、この巨大な人口を養うだけの農地が絶対的に不足しているんだ。この国にあるすべての穀物は、外の陸地からの輸入依存で成り立っている。つまり、海路を封鎖されれば、この国は数ヶ月で確実に餓死する」
「けんど、今これだけ大量の小麦が集まりゆうじゃないか」
ルークが不思議そうに周囲を見渡す。
「これは『今』の分だ。そして……これが最後の『余力』かもしれない」
レヴァインの目が、諦観の海へと沈んでいく。
「最近、帝国側の巨大商会が、陸地の穀物流通を異常な勢いで買い占め始めている。小国や地方の農村に莫大なカネを掴ませ、ウィストリアへ流れるはずだった穀物を根こそぎ強奪しているんだ。そのせいで市場価格は高騰し、いくつかの港は我が国への出荷を一方的に閉鎖した。穀物船への保険の拒否、航路での陰湿な輸送妨害……あらゆる手段で、俺たちの首を絞めに来ている」
レヴァインは、静かに龍馬を見据えた。
「戦争はまだ始まっていない。だがな、龍馬。この国では、もう“飢え”が始まっているんだ」
「……そんなもん、商売やないッ!」
龍馬の怒声が、倉庫の壁に跳ね返った。
いつもの温厚な顔は消え去り、その瞳には激しい怒りの炎が宿っていた。
「食い物を人質にして人を殺そうなんて、ただの首締めじゃ! 商いっちゅうんは、互いが豊かになるためにやるもんじゃろうが!」
「それが国家というものだ、龍馬」
レヴァインは怒ることもなく、むしろ哀れむような目で龍馬を見た。
「国家ってのはな、自分たちの腹が減れば、人間性なんぞ簡単に捨てる。どんなに美しい理想を掲げた議会があろうと、国民が飢えれば、次の日にはただの獣の群れに変わるんだ。俺は、そういう国をいくつも見てきた」
レヴァインの声には、世界を知りすぎた者特有の、深く冷たい絶望が貼り付いていた。
彼は続ける。この都を統べる評議会も、すでにその恐怖によって限界を迎えているのだと。
「評議会の空気は、完全に真っ二つに割れている。『穏健派』は、あくまで交易の維持を訴え、外交交渉と妥協によって帝国との衝突を避けようとしている。……だが、もう手遅れだ。対する『強硬派』は、陸の穀倉地帯を先制攻撃で占領し、ウィストリア独自の陸地(領土)を獲得すべきだと主張している。奪われる前に、奪え、とな」
つまり、この美しい海の都ですら、もう「戦争を避ける」という段階を過ぎ、いつ、どうやって引き金を引くかという狂気の淵に立たされているのだ。
「だからって、戦をしたら同じじゃろうが!!」
龍馬は、レヴァインの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで一歩詰め寄った。
「奪えば、今度は奪い返される! 殺しゃあ、また憎しみで殺される! そんな血の流れ、誰かが、どっかで無理にでも止めにゃあならんがじゃ!!」
「――止めたいに決まってるだろうが!!」
レヴァインが、初めて感情を爆発させて激昂した。
その怒声は、近くにいた書記官たちが一斉に震え上がって振り返るほどに凄まじいものだった。
レヴァインの拳は、白くなるほど強く握りしめられていた。彼だって、平和を、この国の自由な理想を守りたいのだ。だが、現実という名の怪物が、その理想を容赦なく踏み潰していく。
「止められるものなら、俺だって今すぐに止めたい! だが、どうやって止める!? 綺麗事じゃ腹は膨らまないんだ!……俺たちは絶望する訳にはいかないんだよ!」
重苦しい沈黙が、二人の間に流れた。
行き交う労働者たちの足音だけが、やけに大きく響く。
やがて、レヴァインは深く、深くため息をつくと、額を押さえて疲れ切った顔で微笑んだ。
「……すまん。取り乱した」
「……いや。わしの方こそ、熱くなりすぎたきに」
龍馬もまた、ふっといつもの穏やかな表情に戻り、頭を掻いた。
レヴァインはぽつりと煙草を咥え直し、今度は静かに火をつけた。紫煙が、小麦の香る空気に溶けていく。
「……お前みたいな中身の詰まった馬鹿が、この世界にあと十人居ればな。何かが変わったかもしれないが」
その言葉に、龍馬はニカッと白い歯を見せて笑った。
「何を言いゆう。世界中の流れを一人で背負い込んで、今にも潰れそうな顔をしちゅうおんしゃも……十分、救いようのない大馬鹿野郎じゃき」
「……違いない」
レヴァインは自嘲気味に笑い、二人は小さくグラスを合わせるかのように、拳を軽く突き合わせた。
帰り道。
空がどろりとした夕焼けに染まる頃、三人は中央港の片隅にある、少し寂れたドックの横を通りかかった。
そこには、役目を終えたような古い中古の小型船が、何十隻もずらりと並んで波に揺れていた。
龍馬はその場所で、ピタリと足を止めた。
「……龍馬さん?」
ルークが不審に思って声をかけるが、龍馬の耳には届いていないようだった。
龍馬の目が、夕日に照らされて怪しく、ギラギラと輝き始めていた。
その船群を見つめる彼の脳内では、凄まじい速度で計算が行われている。
(小回りが利く……。このサイズなら、狭い水路も浅瀬もスイスイ行ける。いや、あっちのもそっと大きゅう奴なら大海も行けるか?……)
じっと手すりを握りしめた龍馬が、じわりと口元を歪めた。
「……のうルーク。おまん、船が欲しゅうないか?」
「嫌な予感しかありません!!!」
ルークが、頭を抱えて絶叫した。この人がこういう目をしている時は、間違いなく、とんでもない大騒動が巻き起こる前触れだ。
レヴァインは呆れ果てたように煙草の灰を海へと落としながらも、その口元には、少しだけ楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「お前……あれだけの現実を見せられて、まだ懲りないのか。本当に大馬鹿野郎だな」
その夜。
ホテルの部屋の窓から、龍馬は静かに夜の港を見つめていた。
遠くで光る、穀物倉庫の厳重な魔導灯の明かり。
この国は、確かに美しい。人が人として扱われ、海を通じて世界へと開かれている。
だが、その美しさは、「飢え」という一突きによって、あまりにも簡単に狂い、崩壊してしまう。
龍馬は夜風に羽織をなびかせながら、昼間のレヴァインの言葉を思い返し、ぽつりと静かに呟いた。
「流れは、物流は、国境を無くして人を生かす。……けんど、その流れを止められれば、流れは簡単に人も殺すがか」
世界の広さを知った男は、今、その世界が孕む圧倒的な「闇」の深さに、初めてその指先で触れたのだった。
黒い海は、何も答えず、ただ静かに街を揺らし続けていた。




