第四十八話:ルーク航海日誌
ガルガドの夜は更け、寺田屋の喧騒も今は昔。営業を終えた静かな食堂には、一房のランプの灯りと、琥珀色の酒が注がれた二つのグラスだけがあった。
テーブル席で、女将のリサは手元にある一冊の古びたノートを開いていた。表紙は潮風に晒されて随分と傷み、ページの端々は少しふやけている。リサは煙草を咥えたまま、そこに躍る文字を追うと、やがて耐えかねたように鼻で笑った。
「……何これ。字、汚ったないねぇ。まるでおたまじゃくしみたいだよ」
その背後。背中合わせで木ジョッキを片手に持った坂本龍馬が、懐かしそうに目を細めて豪快に笑った。
「ははは! まっことすまんのう! あいつぁ昔から、勉強するんが何より嫌いやったきのう。じゃが必死にペンを握って書いたがじゃ」
リサは苦笑しながら、再びその『航海日誌』へと視線を落とした。文字の掠れや歪みから、当時の船の揺れと、書いた青年の絶望がまざまざと伝わってくるようだった。
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出航初日
本当に乗ってしまった。
どうしてこんなことになったんだろう。朝、女将さんに言われた通りに積荷に隠れていたところまでは良かった。でも、気づいた時にはもう船は港を出ていて、引き返せないところまで来ていた。
とにかく、海が怖い。底が真っ青で、どこまで深いのかもわからない水の塊の上にいるなんて、考えただけで頭がおかしくなりそうだ。ガルガドに帰りたい。テラダ屋の裏手で、洗濯していた頃に戻りたい。
こんな恐ろしい状況なのに、龍馬さんだけは「うおー! 海じゃ! 広いぜよ!」とか言って、信じられないくらい元気に甲板を走り回っている。
船長は相変わらず熊みたいに大きくて一言も喋らないし、船員たちも全員、目が血走っていて凶器みたいなナイフを腰にぶら下げている。誰も彼もが怖すぎる。
船底のジメジメした部屋で、この日誌を書いている間も涙が止まらない。
なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
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「あはは! 最初のページからこれかい!」
リサはたまらず声を上げて笑った。背後の龍馬も「まっこと、ルークには悪いことをしたきに」とへらへらと笑いながら酒を煽っている。
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二日目
死ぬ。本当に死ぬ。
地獄のような船酔いが襲ってきた。上も下も前も後ろも、世界中がぐわんぐわんと揺れていて、お腹の中のものが全部ひっくり返りそうだ。もう胃袋の中には何も残っていないのに、吐き気が止まらない。ベッドから一歩も動けない。いっそひと思いに海に飛び込んで楽になりたい。
なのに、龍馬さんは信じられないことに、隣で普通に味の濃い塩漬け肉と硬い黒パンをバカスカ食っている。あの人の胃袋はどうなっているんだ。
しかも龍馬さんは、俺が死にかけている間に、いつの間にか船員たちの中に完全に混ざっていた。
さっき窓からチラッと見えたんだけど、「おんしゃら、引き方が甘いぜよ! もっと腰を落とさにゃあ!」とか大声を出しながら、裸一貫で船員たちと一緒に太い綱を全力で引いていた。
最初は「邪魔すんな陸の素人が」って怒鳴っていた荒くれ者たちが、龍馬さんの異常な怪力と、あの人懐っこい笑顔のせいで、少しずつ「おい、龍馬! こっち手貸せ!」と呼び始めていた。
なんなんだ、あの人は。恐怖の塊みたいな海の男たちを、たった二日で手懐け始めてる。
四日目
船酔いは少しだけマシになった。だけど、今度は別の恐ろしさが分かってきた。
甲板に出て周りを見渡しても、本当に「海しかない」んだ。
上を見ても空と雲。下を見ても青い波。遮るものが何もなくて、自分たちが世界のどこにいるのか、どっちに進んでいるのかも全くわからない。まるで世界中からポツンと置いて行かれて、忘れ去られてしまったような気分になる。ただただ、自然の大きさに圧倒されて、自分が虫ケラみたいに思えてきて泣きそうになった。
その日の夜、甲板で夜風に当たっていたら、龍馬さんが隣にやってきた。
龍馬さんは、降るような満天の星空と漆黒の海を見つめながら、ぽつりと静かに呟いた。
「海ぁ、まるで“国境”が無いんじゃのう、ルーク」
いつになく真面目な声だった。
「どこまで行っても、ただの広い水じゃ。国も、王様も、利権を貪る偉い奴らも、この大海原ににゃあ一本の線すら引くことはできんがじゃ。まっこと……自由な場所ぜよ」
龍馬さんのその言葉を聞いた時、不思議と、あれだけ怖かった海の景色が、少しだけ綺麗に見えた。
嵐の日
前言撤回。やっぱり海は最悪だし、龍馬さんは本物の化け物だ。
午後から突然、空が真っ黒になって大嵐が来た。
家の屋根よりも高い波が次から次へと船を襲って、船体がギチギチと悲鳴を上げて傾く。生きた心地がしなかった。
船長が血相を変えて「帆を畳め! 死にたくなけりゃロープを縛り付けろ!」って怒鳴り散らして、船の上は戦場みたいになっていた。俺は近くの柱に、ただ泣き叫びながらしがみつくことしかできなかった。
途中で、もの凄く巨大な波が甲板を丸ごと洗い流した。
その衝撃で、龍馬さんが積荷の木箱と一緒に派手に吹き飛ばされて、床の上をゴロゴロと何メートルも転がっていった。頭を強く打って、そのまま海に落ちて死んだと思った。
なのに、龍馬さんは頭から滝のように海水をぶっかけられたまま、仰向けになって、天を仰いで大爆笑していたんだ。
「ははははは!! これじゃ! これが海よ! まっこと凄まじい力じゃのう、堪らんぜよ!!」
嵐の中で、龍馬さんの笑い声だけが響いてた。
必死にロープを掴んでいた船員たちが、全員、本気でドン引きした目で龍馬さんを見ていた。あの人は、恐怖っていう感情が頭から抜け落ちているんだと思う。
スパイス諸島到着
嵐が去った翌朝、俺は信じられないものを目撃した。
朝から深い、真っ白な霧が海を包み込んでいた。その霧が、日の光を浴びてサーッと嘘みたいに晴れていった向こう側から、突然、巨大な島が現れたんだ。
だけど、ただの島じゃない。そこには、半分崩れかけた真っ白な石造りの都市が広がっていた。
海の中に沈みかけた巨大な白い塔。かつて多くの船が行き交っていたであろう、広大な石造りの軍港の跡。島全体を縦横無尽に網の目のように走る、古代の水路。そして、一番高い山の上には、天を突き刺すような崩れた神殿が見えた。何百年も前に滅び去ったという、伝説の海洋国家の、色褪せた古い旗が風に寂しく揺れていた。
船長や船員たちは「ただの補給基地だ。お宝も残ってねぇよ」と言って、補給を終えたら、さっさと素通りしようとしていた。
だけど、龍馬さんだけは違った。甲板の手すりに身を乗り出して、完全にその島に目を奪われていた。
龍馬さんは、他の人たちが「古い遺跡」として見捨てている島を、全く違う目で見つめていたんだ。
「ルーク、見ぃ。あの海流のぶつかり方……。それにあの港の構造ぁ、外からの荒波と風を完全に防げるようになっちゅう。ここに補給用の倉庫を作って、外の国と内陸を繋ぐ航路の中継地点にするっちゅうんは、よぉく考えられちょる」
龍馬さんはブツブツと何事かを呟きながら、島の地図を恐ろしい勢いで頭の中に叩き込んでいるようだった。そして、最後にこう言った。
「……ここは、世界の喉元じゃ」
難しいことは俺にはわからない。だけど、龍馬さんのその言葉を聞いた瞬間、背筋にゾクッと鳥肌が立つような、恐ろしい予感がした。
龍馬さんは、遠ざかっていく島を見つめながら、ずっとニヤニヤと不敵に笑っていた。
間違いない。あの人は、あの島を使って、また何かとんでもない新しいことを始める気だ。
俺には、嫌な予感しかしない。早く、一刻も早くガルガドに帰りたい。
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パタン、と小気味よい音を立てて、リサは航海日誌を閉じた。
咥えていた煙草の灰をトントンと灰皿に落とすと、呆れ果てたような、しかしどこか誇らしげな笑みを浮かべて表紙に落ちた涙を拭う。
「ほんっとに……ルークには同情するよ。あんたみたいな疫病神に引っ張り回されて、命が……いくつあっても足りやしないねぇ」
龍馬は手元に残った酒をぐいと飲み干すと、悪びれる様子もなく、天井を見上げてニカッと笑った。
「ははは! じゃが、まっこと面白くて、新しい風に満ちた旅じゃったきに。海を渡る航路、そしてあの世界の喉元……痺れたぜよ」
龍馬の滲んだ視界には、あの眩しい大海原を掻き分けて進んだ光景がありありと思い浮かんでは消えて行った。
「やれやれ。男って奴は幾つになっても馬鹿だからねぇ……」
「……そうじゃのう。馬鹿ばっかりじゃ」




