第四十九話:海の国
スパイス諸島を出港して五日目
スパイス諸島というあの奇妙な無人島を出港してから、さらに五日が過ぎた。
最初は一秒ごとに「帰りたい」と泣いていたけど、人間というのは恐ろしいもので、少しずつ「慣れ」というものが生まれてくるらしい。
もちろん、海が底知れなくて怖いという気持ちは変わらないけれど、胃袋が悲鳴を上げることはなくなったし、水平線を見つめても涙は出なくなった。
最近は、この船の中の決まった「生活の音」が身体に染みついてきている。
朝と夕方に響き渡る大きな鐘の音。真水がどれほど貴重かということ。だって一日の飲み水は小さなコップに数杯だけだ。
顎が外れそうになるほど硬いパンを、塩辛いスープでふやかして食べる知恵。
船員たちが下品な大声で笑い合う荒っぽい冗談。
夜中に交代で立つ不気味な夜番。
そして、一日中浴びる潮風のせいで、乾くと塩で白くベタベタになる服。
毎日、バケツを持って甲板をゴシゴシと掃除するのが俺の日課になった。
始めた頃は恐怖しかなかったこの船だけど、最近になって気づいたことがある。……なんだかんだで、この船の人たちは、そこまで悪い人ではないのかもしれない。
いつも黙りこくって太いロープを解いている、生木のように無口な古参の船員。彼は、俺が結び方を間違えると、無言で大きな手を重ねて正しい結び方を教えてくれた。
左目に大きな眼帯をつけた隻眼の料理番。見た目は完全に人殺しのそれなのに、俺が甲板掃除を頑張った日は、スープの底から肉の端切れを多めにすくい上げて、ニカッと笑って皿に盛ってくれる。
大蛇の胴体みたいな巨大な舵を、何本か指の欠けた片手だけで軽々と操る操舵手の背中。
彼らは陸の人間みたいに優しく言葉をかけてくれはしないけれど、この容赦のない海の上で生きるための、独特の温かさを持っている。
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そんなルークの観察を他所に、龍馬は、もはや完全に「船員側」の人間として甲板に君臨していた。
ルークが日誌に書いた通り、誰よりも大きな声を張り上げて綱を引き、誰よりも重い積荷を軽々と運び、マストの最上部まで猿のような速度で登って帆を操作していた。夜番の担当になれば、進んで冷たい夜風の吹く見張り台へと向かう。しかも、それら海の男としての技術のすべてを、異常なまでの早さで飲み込み、自分のものにしていった。
だが、龍馬が本当に船員たちを驚かせたのは、その身体能力だけではなかった。
「おい、おんしゃ。どこの海で一番死にかけたことがあるがじゃ?」
「なんで船乗りになったんぞね?」
「これまで回った港の中で、どこの国の酒が一番美味かったが?」
夜、手すりに背を預けながら、龍馬は代わる代わる船員たちの隣に座り込み、彼らの昔話を嬉々として聞きまくっていた。
普通の商人なら、船乗りから「どの航路が安全か」「どこでどんな商品が売れるか」という目先の『情報』を買い取ろうとするだろう。だが、龍馬が聞いているのは、その情報の中に生きてきた「人間」そのものの人生だった。
「旦那に話してるとよ、なんだか自分が大層な英雄にでもなったような気分になっちまうんだ」
指のない操舵手が、照れくさそうに笑いながらそう漏らしたように、龍馬は彼らの剥き出しの生き様に魂の底から敬意を払い、それを楽しんでいた。
だからこそ、頑なだった海の男たちも、こぞって龍馬に己のすべてを語りたがった。
ある静かな夜。月明かりだけが甲板を照らす中、龍馬は船長から差し出された強いラム酒の瓶を、交互に口へと運んでいた。
しばらく無言で海を見つめていた船長が、ふと、重々しい声で問いかけてきた。
「……なぁ、龍馬。お前、結局のところ何者なんだ?」
「ん? 何者、とはどういう意味じゃ?」
龍馬が首を傾げると、船長はラム酒の瓶をドカッと木箱に置いた。
「言葉通りだ。お前はただの『商人』にしちゃあ、金の匂いに執着がねぇ。かと言って、領土や権力を欲しがる『政治屋』のそれとも違う。命を捨てて未知の地を駆ける『冒険者』のようでもあるが、お前の目は常にその先にある仕組みを捉えてやがる。……お前は、一体何を目指して動いてる?」
その鋭い問いかけに、龍馬はしばらくの間、夜空に浮かぶ白い月を見つめて沈黙した。
やがて、羽織の襟をキュッと掴むと、いつもの屈託のない笑顔を船長に向けた。
「――ははは! まっことすまんが、それぁ、わしにもまだ分からんがじゃ」
「何?」
「わしゃあただ、この目で世界の形が見たいだけながよ。モノが流れ、人が動き、世界が一つに繋がった時、そこにどんな景色が広がるか。それを見極めるまでは……自分が商人か、政治屋か、あるいはただの大馬鹿野郎か、そんな肩書きぁどうでもええきに」
その答えを聞いた船長は、一瞬呆れたように天を仰いだが、やがてフフッと低く笑った。
「……どこまでも喰えねぇ男だ、お前は」
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出航から十日目
朝、見張り台からの「陸影多数!」という叫び声で目が覚めた。
急いで甲板に飛び出すと、遥か水平線の向こうに、モヤに霞んだ巨大な影がいくつもそびえ立っているのが見えた。最初は、どこか巨大な山脈のふもとにでも近づいたのかと思った。
だけど、船が前へ進み、モヤが晴れていくにつれて、自分の目が信じられなくなった。
山だと思ったその影のすべては――石と、鉄と、無数の木々で組み上げられた、信じられないほど巨大な『都市』そのものだったんだ。
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霧のカーテンが完全に引き払われたその先には、シルベニアの王都すら霞んでしまうほどの、圧倒的な海洋国家の姿があった。
それは、海そのものを都市の基盤として呑み込んだ、海上要塞都市。
湾内を埋め尽くしているのは、数え切れないほどの大小の交易船。空に向かって無数に突き出た帆柱は、まるで水面に生い茂る巨大な「森」のように視界を遮っている。街の外周を取り囲むのは、大砲の銃眼が並んだ頑強な海上城壁。都市の内部には縦横無尽に水路が走り、そこを小舟が忙しなく行き交っている。
さらに奥には、巨船を丸ごと収容して修理を行うための、巨大な乾ドックが幾つも建ち、要所要所には白昼堂々、青い光を放つ巨大な魔導灯が設置されていた。
港の水路からは、聞いたこともない複雑な外国語の響き、肌の色も服装も全く異なる異国人たちの活気、そして濃厚な潮風に混ざって、陸からは運ばれてこないような強烈な香辛料の匂いが押し寄せてくる。
「……ここぁ、‘開いちゅう’」
龍馬はその光景に完全に圧倒されながらも、感嘆の声を漏らした。
彼がかつて訪れた王都は、高くて頑丈な城壁で外敵を拒み、法で内側を縛った「閉じた国家」だった。
だが、この目の前にある海の都は違う。
世界中のあらゆるモノ、あらゆる人、あらゆる文化をそのまま受け入れ、常に外へと開かれている。
(海が……本当に、世界を繋ぎちゅうがじゃ……!)
龍馬の胸の中で、かつて日本で抱いた理想が、この異世界の圧倒的な現実によって完璧な「確信」へと昇華した瞬間だった。
しかし――その隣で、ルークは全く逆の恐怖に震えていた。
「……何なんですか、ここの人たち……」
ルークにとっては、この場所は「可能性」ではなく、ただの圧倒的な「異物感」の塊だった。
見たこともない肌の色の人間が、理解できない言葉で大声を出し、嗅いだこともない強烈な匂いの食べ物を貪っている。
文化も、常識も、匂いも、自分の知っているガルガドや王都とは何もかもが違いすぎる。
龍馬がその混沌の中に「世界の広さと未来」を見て目を輝かせている一方で、ルークはただただ、その世界の広さに圧倒され、怯えることしかできなかった。この二人の対比こそが、この旅の持つ二つの側面そのものだった。
船が、巨大な海上城壁の狭い水門へと滑り込んでいく。
港の喧騒がすぐ間近に迫る中、操舵士の横に立つ船長が、前を見据えたままボソッと呟いた。
「ようこそ、龍馬。ここが、あらゆる海流とカネが交わる場所――‘海洋国家ウィストリア’だ」
龍馬は、その言葉の響きを噛み締めるように、深く笑った。
「なるほどのう……。海洋国家、か。船長、こりゃあ……『デカい』のう。広さでもチカラでもない。懐がデカい国じゃあ」
どれほど強力な軍隊を持つ国家であっても、世界中の富と情報がリアルタイムで循環し続けるこの海のネットワークを、力づくで支配することなどできはしない。
龍馬は、この瞬間、刀や魔法の力をも凌駕する「海商」という存在の、真の恐ろしさと強さを、完全に理解したのだった。
ゴォォォン、ゴォォォンと、入港を歓迎するかのような巨大な鐘の音が、要塞の塔から響き渡る。
無数の船が波を立てて行き交い、何千人もの人間の怒号と歓声が、濃厚な潮風に乗って甲板を吹き抜けていく。
ルークが恐怖で龍馬の服の裾を掴む中、龍馬は、船首の最先端に立ち、限界までその目を輝かせて大海原の都を見据えていた。
その視線は、この巨大な港すら通り抜け、さらにその先にある、まだ見ぬ世界中へと向けられているようだった。
未知の熱気に満ちた風を胸いっぱいに吸い込み、最高に不敵な、そして最高に楽しそうな声を港へと響かせた。
「……世界は、まだまだ広いのう、ルーク!」
「広いってより怖いですよおお。龍馬さぁん!」




