第四十七話:水平線の向こうへ
翌朝のガラン港は、文字通りひっくり返ったような騒がしさに包まれていた。
港の主役である大型商船は、今まさに出航準備の真っ最中。
甲板の上では何十人もの船員たちがせわしなく動き回り、太いロープを引き、白く巨大な帆を少しずつ広げていく。岸壁には天候を睨みつける航海士たちの鋭い怒鳴り声が響き、出航の刻限を告げる重々しい鐘の音が港全体に鳴り響いていた。
空を舞うカモメの群れ、そして波止場を激しく叩く白波の音。
そこは、一秒の猶予も許されない“出航の朝”の熱気そのものだった。
「……龍馬さん。お願いですから、本当に諦めましょう」
そんな喧騒の片隅で、ノイルが今にも泣き出しそうな、完全に疲れ切った顔で昨夜からの説得を続けていた。その隣では、下男のルークも青ざめた顔で激しく首を振っている。
「そうですよぉ! 俺、絶対に嫌ですからね!? 海なんて呪われてますし、あんな恐ろしい船乗りたちと一緒に暮らすなんて、一秒だって耐えられませんからね!?」
いつもなら、二人の泣き言に「ははは!」と豪快に笑い飛ばすはずの龍馬だったが、今朝の彼は妙に静かだった。
ただじっと、港の様子を見つめている。
忙しなく動く船員たちを目で追い、風の向きを肌で感じ、波の音に耳を澄ませている。その横顔には、これまでの「考える商人」の姿はなかった。ただひたすらに、目の前の未知へ飛び込もうとする“剥き出しの衝動”だけが、その瞳の奥で静かに、しかし狂気的なまでにギラギラと燃え盛っていた。
その異様な静けさに、ノイルは逆に背筋が凍るような不安を覚え、言葉を詰まらせた。
(……まずい。この人は、本当に、本気でいく気だ……!)
「――おい。まだ居やがったのか、陸の馬鹿が」
不意に、頭上から地響きのような声が降ってきた。
見上げれば、甲板の手すりから身を乗り出した船長が、呆れたように龍馬を見下ろしていた。
龍馬は、そこでようやくいつもの不敵な笑みを浮かべた。
「おう、船長! あいにく、ちくと諦めが悪い性分でのう!」
しかし、船長の顔に冗談に付き合う気配は微塵もなかった。その目は本気だった。
「いい加減にしろ。さっさとガルガドへ帰れ。昨日も言ったはずだ。海ってのは、お前みたいな陸の奴らが『憧れ』や『物珍しさ』で首を突っ込んでいい場所じゃねぇんだよ」
龍馬は何も言わず、その警告を真っ直ぐに受け止め、黙って船長の言葉を聞いていた。
やがて、出航の鐘がひと際大きく鳴り響く。船長は龍馬へ背を向ける直前、最後にポツリと、重みのある声を残した。
「お前には陸の商売があるだろ。お前は陸でデカくなれ。……海ってのはな、俺たちみたいな、他に行き場のない大馬鹿野郎どもの領域なんだよ」
その言葉に、龍馬は拒絶されたというのに、少しだけ嬉しそうに笑った。
(やっぱり、まっこと、ええ男じゃ)
ゴゴゴゴゴ……と、巨大な船体が地鳴りのような音を立てて動き始めた。
繋がれていた太いロープが次々と解放され、風を孕んだ白い帆が大きく膨らむ。巨大商船は、波止場からゆっくりと、しかし確実に離れ始めていく。岸壁との距離が少しづつ開いていく。
「さぁ、龍馬さん、船が出ちゃいましたよ。もう諦めて宿に――」
ノイルがホッとしたように振り返った、その瞬間だった。
ドンッ! と、龍馬が自分の背負っていた荷物を、ノイルの胸元へ強引に押し付けた。
「ノイル!リサやカイルたちに、うまく言っちょいとくれ!!」
「へ?」
ノイルが目を見開いた、次の刹那。
――坂本龍馬は、全力で疾走していた。
ターゲットは、すでに数メートル先まで離れ、速度を上げ始めている商船の船尾。
「なっ、ちょっと!? 龍馬さん!?」
港中の人間が、何事かと一斉に視線を注ぐ。
龍馬は防波堤の最先端、ギリギリの床をその強靭な足で踏み抜くと、迷うことなく、海へ向かって跳んだ。
「――龍馬さぁぁぁぁぁん!」
ノイルの魂の絶叫がガラン港に響き渡る。
完全に宙を舞う龍馬。眼下に広がるのは、落ちればひとたび渦巻く極寒の海水。だが、龍馬の目に恐怖など万に一つもなかった。
船体からずり落ちそうになっていた一本の太いロープ。龍馬は空中でもがくように手を伸ばし、そのロープへ文字通り死に物狂いで飛びついた。
「ぬんぐぅっ!!」
凄まじい衝撃が両腕を襲うが、龍馬はそのまま驚異的な身体能力でロープをよじ登り、船体の縁を乗り越えて、甲板の上へとダイナミックに転がり込んだ。
「な、なんだぁぁぁ!?」
「余所者が飛び乗ってきたぞ!?」
騒然となる船員たち。その騒ぎを聞きつけ、奥から飛び出してきた船長は、甲板でへらへらと笑いながら立ち上がる龍馬の姿を見た瞬間、本気で頭を抱えて絶叫した。
「あのクソ陸野郎ォォォ!! しょうがねぇぇぇ!!」
抜刀しかけた船員たちに完全に囲まれながらも、龍馬は服についた塩水を払い、最高に楽しそうな、輝くような笑顔で天を見上げた。
「ははは!! 荒波がどうした、絶望がどうした! いくぜよ、海ぃぃぃ!!」
その時だった。
勝利の雄叫びを上げていた龍馬は、自分の足元、積み上げられた木箱の隙間から、妙な「ガタガタ」という震えが伝わってくることに気づいた。
「ん? なんじゃあ?」
龍馬が不審に思い、積荷の陰に被せられていた汚い毛布をバサッとめくる。
「……ひっ! 呪われる! 海の魔物に喰われるぅぅ!」
そこに丸くなってガタガタと震えていたのは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした下男のルークだった。
龍馬は、流石に予想外すぎて大きく目を丸くした。
「……おまん、なんでこんな所におるがじゃ!? 陸に置いてきたはずじゃろうが!」
ルークは龍馬の顔を見るなり、その衣服にしがみついて大泣きした。
「ち、違うんですよぉぉ!! 出発前、女将さんに言われたんですよぉ!『あの馬鹿は絶対に何かしでかすから、お前が荷に隠れてでも船に乗り込んで見張っとけ』ってぇぇ!! だから朝一番に隠れてたのに、本当に船が出ちゃうなんて思わないじゃないですかぁぁ!!」
「がはははは!! さすがはリサじゃ! わしのやることが完全に読まれちょったか!」
すべてを察した龍馬は、あまりの可笑しさに腹を抱えて大爆笑した。
「龍馬さん、お願いですから今からでも海に飛び降りて戻りましょう! まだ港がすぐそこに見えます! 泳げば間に合いますってぇぇ!!」
ルークが必死の形相で懇願する。
だが、龍馬はルークの肩をがっしりと抱き込み、力強く引き寄せた。そして、目の前に広がる、どこまでも青く、どこまでも果てしない水平線の先を、その人差し指で堂々と指差した。
「なぁにを寝ぼけたことを言うちゅうがじゃ、ルーク!」
その顔は、まるで新しい玩具を見つけた少年のように、純粋な輝きに満ちていた。
「――お楽しみは、これからじゃろうが!」
吹き抜ける強烈な潮風が、二人の身体を打つ。船長が命を懸けて守る白い帆が、今や完全に風を捉え、船はもの凄い速度で大海原へと突き進んでいく。
「いくぜ! 世界が、わし等を待っちゅうぜよ!!」
「なんで『わし等』なんですかぁぁぁぁぁ!!」
ルークの絶望の絶叫が、広大な海へと吸い込まれていく。
背後では、港町ガランの景色がみるみるうちに小さくなっていく。
波止場の先端で、呆然と立ち尽くしたまま、手にした龍馬の荷物を見つめているノイル。
そして甲板の上で、未だに信じられないものを見る目で頭を抱え続けている船長。
「……チッ。とんでもねぇ疫病神のコンビを拾っちまったな、糞が」
船長は吐き捨てるように呟いたが――その無骨な口元は、どうしようもなく楽しそうに、少しだけ笑っていた。
目の前に広がるのは、圧倒的な巨万の海。
どこまでも、どこまでも続く、遮るもののない水平線。
坂本龍馬、海に還る――
「見てみぃルーーーク!これが海じゃああああ!」
「帰りましょうよーー!龍馬さーーーーん!」
――二人の叫びを乗せたまま、白帆の船は、果てなき水平線へと消えていく。




