第四十五話:海の入口
翌朝。寺田屋の食堂には、朝食の時間が始まったというのに、じっとりと肌にまとわりつくような重たい空気が漂っていた。
理由は言うまでもない。
昨夜、大真面目な顔で「海へ行く!」と唐突に宣言した男――坂本龍馬のせいである。
カイルは机の上に広げた商会の帳簿を前に、こめかみを押さえて完全に頭を抱え、ノイルはスープの皿を見つめたまま「今度は一体何を始めるんですか、あの人は……」と魂の抜けた声で項垂れている。
女将のリサにいたっては、朝から煙草を不機嫌そうに咥えたまま、トントン、トントンと一定の不穏なリズムでカウンターを指先で叩き続けていた。
そんなお通夜のような空気のど真ん中で、当の元凶だけが、妙にすっきりとした爽快な顔で大盛りの朝飯を豪快に口へと放り込んでいた。
「ぷはぁ! 喰うた喰うた!……おう、みんなあ、やっぱりまずは『ガラン』じゃき!」
「……は?」
カイル、ノイル、リサ、そして給仕をしていたイーサンとリンダの全員が、寸分の狂いもなく同時に顔を上げた。
龍馬は口元を手の甲で拭うと、昨夜一晩、寝ずに考えを整理したのだと得意げに胸を張った。
「海を知るにゃあな、まず『港』を知らにゃあならんがじゃ。船乗りが何を見て、海商がどうやってカネを動かしちゅうかも知らんまま、いきなり海へ飛び込んでも、ただ溺れて海の藻屑になるだけじゃきな。だから、まずはあの港町ガランへ向かうがよ」
龍馬は箸を突き出し、これまで見てきた異世界の各都市の輪郭をなぞるように語り始めた。
「わしはこの短い旅で、色んな街を見てきた。王都にあったんは、止まった流れと澱んだ金じゃ。アーデルハイトの軍港にあったんは、‘閉塞と情報’。そして昨日までおったレクセリアにあったんは、剥き出しの‘人と熱’じゃった。……じゃが、ガランの街はどれとも違う」
龍馬の瞳の奥に、かつて日本で世界の広さを知った時と同じ、深い知性の光が宿る。
「あの街ぁ、ただの港町じゃない。外の広い世界と、この内側の大地を繋ぐ、巨大な‘流れ’の起点――いわば『世界の入口』ながじゃ」
その言葉に、カイルとイーサンは静かに目を細めた。単なる思いつきの放浪ではない。龍馬はすでに、この世界の構造を本質的に捉えようとしていた。
「そういうわけじゃき、わしが留守にする間の商売の方針を、今ここでカチッと決めておくぜよ」
龍馬は突然、カイルの前に置かれた帳簿を引き寄せると、淀みない口調で今後の方針を指示し始めた。
「まず、ランセルがやってくれた『現地売り切り方式』の行商隊、これぁ規模を拡大する。ガルガドの毛皮、ガランの海産物、王都の流行品、アーデルハイトの細工、レクセリアの魔導具……この循環はええろう。これからはランセルを中心に、この行商隊を一つの大きな組織として運営してもらう」
「えっ、ランセルさん中心にって……じゃあ僕は?」
不安そうに尋ねるノイルに、龍馬はニヤリと笑って白い歯を見せた。
「ノイル、おまんも正式に外回りの主力として、ランセルと一緒に世界を回ってもらうきに。いつまでも寺田屋の奥で縮こまっちゅうタマじゃないろうが」
「な、何言ってるんですか! 僕はそんな――」
「外を回るんはな、ただモノが売れて金になるだけじゃないがじゃ」
龍馬はノイルの言葉を遮り、カイルの目を真っ直ぐに見据えた。
「各地を回れば、その土地の『情報』が、生きたままこっちへ転がり込んでくる。レンジが言いよった通り、これからの時代は情報を持つもんが勝つ。ガルガドと各都市を太いパイプで繋ぐこの流れぁ、何があっても絶対に続けにゃあならん」
カイルは驚きを隠せなかった。
目の前の男は、かつてガルガドへやってきた時の「ただの風変わりな男」では完全になくなっていた。
目先の利益を追う小商人ではなく、国と国、街と街の間に血を通わせる「流通そのもの」をデザインしようとする、巨大な商人の視点へと一段、上の領域へ進み始めている。
方針が決まり、カイルたちがそれぞれの準備のために席を立った後。
誰もいなくなった食堂で、リサが静かに煙草の煙を天井へと吹かした。灰皿を引き寄せ、不機嫌そうな声を龍馬へ投げかける。
「……で? 結局のところ、あれこれ偉そうな理屈を並べて、またあんた一人でフラフラと出ていくんだろ、龍さん」
龍馬は「ははは」と頭を掻きながら、悪びれずに笑った。
「おう。今度は陸じゃなくて、海じゃきな」
リサは深いため息を吐き、心底呆れたように肩をすくめた。だが、その目は決して龍馬を拒絶してはいない。リサは煙草を咥え直すと、フッと不敵な笑みを浮かべて見せた。
「だったら、徹底的に見てきな。世界中の海を全部ひっくり返すくらいにね。あんたが中途半端に縮こまってる姿なんて、一番つまらないし、見ててイライラするんだよ」
無骨だが、これ以上ないほどに力強い、彼女なりの激励だった。龍馬はその言葉の温かさに胸を打たれ、満面の笑みを浮かべる。
「やっぱり、おまんはまっことええ女じゃのう、リサ!」
「調子のいいこと言ってんじゃないよ、この馬鹿!」
照れ隠しとばかりに、リサの手から勢いよく投げつけられた木製の灰皿を、龍馬は「おっとっと!」と間一髪でキャッチし、そのまま笑いながら部屋を飛び出していった。
数日後。龍馬は再び、港町ガランへと続く街道を歩いていた。
今回の同行者は二人。一人は、龍馬の商人としての成長に無理やり巻き込まれる形となったノイル。そしてもう一人は――寺田屋の裏手でいつも黙々と雑用をこなしていた下男の青年『ルーク』であった。
「……うう、俺、海なんて大嫌いですよぉ……。あんな底の知れない水の塊、見ただけで呪われそうです……」
ルークは、いかにも真面目で気弱そうな、しかしどこにでもいる常識人の顔を涙目で歪ませ、荷物を背負いながらブツブツと愚痴をこぼしていた。
「僕だってそうだよ。なんでまた僕まで連れて行かれるんですか……。レクセリアから帰ってきたばかりなのに、休む暇もありゃしない」
ノイルもまた、終始情けない声を上げて歩調を緩める。
ルークは元々、寺田屋で館の掃除と衣類の管理ばかりをしていた大人しい青年だったのだが、龍馬の「男なら広い世界を見にゃあかん!」という強引な一言で、強制的にこの旅へ引っ張り出されたのだった。完全に龍馬の破天荒さに振り回されている二人の姿を見て、当の本人はむしろ愉快そうに笑っている。
「ははは! 何を弱気なことを言いゆうか。歩けば歩くだけ、足の裏が賢くなるがじゃき!」
龍馬は街道の先を見つめながら、行商の旅で得たその確信を、二人に語って聞かせるように言葉を続けた。
「ノイル、ルーク。モノっちゅうんはな、ただそこにあるだけじゃ価値は生まれん。それが‘本当に必要とされちゅう場所’へ流れた時に初めて、一番の輝きと価値を持つがじゃ。王都で誰も見向きもせんような余りモノが、別の遠い街へ持っていけば、命を救う宝物になる。……つまりな、この世界ぁ、まだ上手く『繋がっちょらん』がじゃ」
「世界が……繋がっていない?」
ノイルがハッとして龍馬の横顔を見る。
「おう。国境だの、種族の壁だの、利権だの、そんなくだらん澱みがいたる所にあって、カネもモノもせき止められちゅう。その堰を全部ぶち壊して、世界中に綺麗な水を流す。それが海っちゅう場所の役目だと、わしゃあ睨んじゅうがじゃ」
その言葉に、ノイルもルークも思わず言葉を失った。龍馬の視点は、もはや一個人の商売を遥かに超え、世界全体の循環そのものを変革しようとする領域に達していた。
夕方。赤く染まり始めた空の下、三人はついに港町ガランへと到着した。
だが、龍馬の目に映るガランの景色は、以前ここを訪れた時とは全く異なるものになっていた。
かつてはただの「魚臭い荒っぽい港町」としか見えなかったその場所が、今の龍馬の目には、全く別の構造物として見えていた。
威勢のいい声を張り上げながら、船から次々と物資を運び出す荷揚げの労働者たち。
世界中の海を渡り歩き、肌を黒く焼いた屈強な船員たち。
帳簿を片手に、現物とのチェックに忙しい海商たち。
倉庫に積み上げられた、見たこともない異国の香料や織物、鉱石の山。
そして、湾内に何隻も停泊している、巨大な異国の外国船と、それらがもたらす未知の『情報』の数々。
それらすべてが絡み合い、連動し、絶え間なく動き続けている。
龍馬の目には、このガランの港全体が、世界中のカネとモノを吸い上げては吐き出す、巨大な「可能性」そのものに見え始めていた。
三人が活気溢れる港の波止場を歩いていた、その時だった。
龍馬の鋭い目が、ドックに停泊している中型の商船の甲板で、部下たちに大声で指示を飛ばしている一人の大柄な男を捉えた。
潮風に晒された頑丈な顔、不敵な面構え。それは以前、龍馬がガランで『痛んだ生地(潮をかぶって廃棄される布地)』をまとめて買い取った相手、外国商船の船長その人であった。
船長もまた、波止場からこちらを見つめる強い視線に気づき、動きを止めた。眩しそうに目を細め、龍馬の姿を認めると、その野性味溢れる口元をニィと歪める。
「……おう。ありゃあ、あの時の陸の小生意気な商人じゃねぇか。こんなところで何をしやがる」
龍馬はニヤリと笑い、大股で甲板の手すりへと近づいていった。
「久しぶりじゃのう! ちくとおまんに聞きたい事があるがじゃ」
「あ? なんだ、改まって」
船長が腕を組み、怪訝そうな目で龍馬を見下ろす。
龍馬は言葉を飾ることなく、真っ直ぐにその本音をぶつけた。
「わしに――『この』海での商いを教えてくれんかのう」
「……何?」
船長は、呆気にとられたように龍馬の顔を見つめた。陸の商人が、突然何を言い出すのかと、その真意を測るように鋭い視線を突き刺す。
その背後では、夕日に照らされて黄金色に輝く、大陸西方からの超巨大な商船が、白い帆をゆっくりと畳みながら、地響きのような波音を立てて港へと滑り込んできていた。
足元を打つ激しい波音。
飛び交う荒々しい船乗りたちの怒鳴り声。
風を受けてギチギチと軋む、巨大な帆の音。
そして、世界の全ての命と富が、この広大な青へと繋がっているような――圧倒的な、目も眩むほどの『巨大な流れ』。
坂本龍馬はその圧倒的な光景を、魂を震わせながら見つめ、そして、静かに、しかし確信に満ちた笑みを浮かべた。
新たなる世界の幕開けを告げる潮風が、龍馬の髪を激しく揺らす。
「やっぱりわしゃあ……海が好きじゃ」




