第四十四話:帰る場所
レクセリアでのあの大騒動から、早いもので十日ほどの月日が流れていた。
ガタゴトと小気味よい音を立てて進む龍馬たちの荷馬車は、見慣れた、そして久方ぶりとなる交易都市ガルガドの街道へと戻ってきていた。
レクセリアのあの洗練された美しい石造りの街並みではなく、肌をなでるのは、どこか乾燥した荒野の風。街特有の、鼻を刺すような獣脂と武具の鉄の匂い。遠くからは、いかにも粗野な冒険者たちが互いに怒鳴り合う声が響いてくる。
それは、レクセリアのあの極彩色に彩られた華やかな喧騒とは、まさに正反対の、どこまでも無骨で荒っぽい空気だった。
だが、龍馬はその景色を視界に収めた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じ、どこか嬉しそうに破顔した。
「おう……帰ってきたのう!」
交易都市ガルガド。
龍馬がこの異世界に落とされ、初めて自分の足を止めて生きると決めた街。そして、彼らの大切な拠点である『寺田屋』がある場所だった。
龍馬たちの帰還を最初に見つけたのは、寺田屋の前で泥だらけになって遊んでいた子供たちだった。
一台の馬車が近づいてくるのに気づき、御者台のランセルとノイル、そして荷台で大きく手を振る男の姿を認めた瞬間、子供たちの顔が一斉に輝いた。
「あ! 龍馬さんだーー!!」
「本当に帰ってきた!!」
「龍馬さん、お土産は!? 美味いもん買ってきてくれた!?」
元気よく駆け寄ってくる子供たちの声に、龍馬は荷台から豪快に地面へと飛び降りた。
「おうおう! ちくと見ん間に随分と元気になっちゅうのう!土産ならランセルの荷台に――って、おい、最後のそれがおまんらの本音じゃろうが!」
龍馬が子供たちの頭を順番にガシガシと撫で回し、笑い声を上げていた、次の瞬間だった。
「――遅いんだよ、この馬鹿龍馬!!」
キィン、と風を切る鋭い音と共に、建物の中から勢いよく飛んできた一本の空き瓶が、龍馬の額へと見事な精度で直撃した。
「いっだぁ!?」
ガツンと鈍い音が響き、龍馬はその場にのけぞって額を押さえた。
寺田屋の入り口を見れば、仁王立ちで腕を組み、青筋を立ててこちらを睨みつけているリサの姿があった。呆れ果てたような、しかしどこか安堵の混ざった複雑な表情で、リサは一歩一歩こちらへ歩み寄ってくる。
「どこまで行ってたんだい、あんたは! ちょっと行商に出るって言ったきり音沙汰なし、便り一つ寄越さないなんて、ほんっとに何考えてんだか!」
「ははは! 痛てて……。まぁまぁリサ、まっことすまんかった。じゃがこうして、みんな無事に帰ってきたきに!」
龍馬が赤くなった額をさすりながらへらへらと笑うと、リサはさらに眉間のシワを深くした。
「あんたの言う『無事』って言葉が、この世で一番信用ならないんだよ!」
その横では、ようやく馬車を止めたランセルが、すべてを諦めたような疲れ切った顔で深々とため息を吐いていた。その隣で、ノイルは抜け殻のようになった真っ白な顔のまま、「本当に、本当に途中で何度も死ぬかと思いました……」と、がっくりと肩を落として項垂れていた。
その日の夜、寺田屋の食堂では、龍馬たちの帰還を祝う臨時の大宴会が盛大に開かれていた。
どこから聞きつけたのか、馴染みの冒険者たちが次々と集まってはエールを煽り、子供たちは我先にと龍馬の周囲を取り囲んで離れようとしない。
「龍さん!? 王都ってどんなところだったんだよ!?」
「エルフの美人は本当にいたの!?」
「アーデルハイトで本物の飛竜を見たって本当!?」
好奇心に目を輝かせる子供たちに囲まれ、龍馬は大きな木ジョッキを片手に、いつになく上機嫌で各地の旅の話を語り始めた。
天空を突き刺すようにそびえ立つ、王都の巨大な大神殿。
鉄と硝煙の匂いが立ち込める、アーデルハイトの屈強な軍港。
大地を揺るがすような、獣人たちの凄まじい模擬訓練。
そして、つい昨日までいたレクセリアの、水面に浮かぶ華やかな水上劇場や、美しい旋律を奏でながら流れるゴンドラ――昼も夜も関係なく、人間の熱狂が止まることのない歓楽都市の有様。
龍馬の口から紡がれる壮大な異世界の見聞録に、子供たちだけでなく、周囲の耳の肥えた冒険者たちまでもが息を呑み、静かに聞き入っていた。
「すげぇ……。そんな場所が本当にあるのかよ」
「行ってみたいなぁ、俺も大きくなったら……」
ぽつりと漏らした子供の言葉に、龍馬はニヤリと不敵に笑い、手にした酒杯を高く掲げた。
「あるきに決まっちゅうじゃろうが! 世界は広いぜよ、おまんらが思っちゅうよりも、ずっと、ずっとな!」
そして、豪快に笑い飛ばす。
「いつかおまんらも、わしが全員まとめて馬車に乗せて、連れてっちゃるきに!」
「「「うおおおっ!! 頼むぞ、龍さん!!」」」
子供たちが一斉に歓声を上げ、食堂の熱気は最高潮に達した。
だが、そんな騒ぎの輪から少し離れたカウンターの端で、リサは一本の煙草に火を点け、紫煙の向こうから静かに龍馬を見つめていた。
笑い方や土佐弁の調子は、旅に出る前と何も変わっていない。だが、その瞳の奥にある輝き――世界そのものをその目に焼き付けてきた男の『眼差し』に、龍馬は明らかに変化していた。
誰よりも近くで彼を見てきたリサは、敏感に感じ取っていた。
宴が終わり、すっかり静まり返った深夜の寺田屋。
奥の個室には、龍馬、リサ、そしてニッポン商会の番頭であるカイルと、老執事のイーサンが静かに集まっていた。龍馬の表情からは先ほどまでの酔いは完全に消え、真剣な面持ちで今回の旅の『裏の報告』を始めていた。
王都の停滞、アーデルハイトの軍事力、そして――。
「……レンジさんですか」
龍馬からレンジの掲げる理想と現状を聞いた瞬間、カイルの切れ長の目が一変し、鋭い光を放った。
「軍港の整備だけでなく、都市間を跨ぐ街道計画。しかも、武力ではなく『情報』を何よりも重視している、と……」
「おう。まっこと面白い男じゃった」
龍馬は腕を組み、レンジの冷徹な顔を思い浮かべる。
「あいつはあいつなりに、国を、世界を守ろうとしちゅう。じゃが同時に、外の新しい世界を猛烈に見たがっちゅう男でもあった」
一方、リサはレクセリアの報告における、ある名前に強く食いついた。
「へえ……あのガーグファミリーが、レクセリアの裏社会にまで根を張ってかい。連中も、ずいぶんとデカくなったもんだねぇ」
「表の華やかなお祭りと、裏のドロドロした闇が、全部ごちゃ混ぜになって綺麗に回っちょったぜよ。じゃが、不思議と嫌な感じはせんかったのう。あそこにはあそこの、自由を守るための強い『筋』が通っちょった」
そこまで一通り話を聞き終えたところで、それまで静かに全員のお茶を淹れていたイーサンが、物腰柔らかく、しかし核心を突くように静かに問いかけた。
「……それで、龍馬様。此度の旅を経て、貴方様のその瑞々しい眼識に、何か新しい『答え』は見付かりましたかな?」
その瞬間。
龍馬はふっと言葉を止め、口を噤んだ。
部屋の中に、沈黙が落ちる。龍馬の視線はゆっくりと動き、個室の窓の向こう、夜闇に包まれたガルガドの遥か彼方――この大陸の果てにあるはずの、広大な『海』の方角へと向けられていた。
「……海じゃ」
低く、地を這うような重みを持ったその一言に、リサもカイルも一瞬だけ目を丸くした。
龍馬は再び腕を組み、何かを突き詰めるような難しい顔で言葉を紡ぐ。
「王都も、アーデルハイトの軍港も……どこか流れが悪いがじゃ。国という殻に閉じこもって、中で澱んじゅう。じゃが、海は違う。海ぁ、どこの国のもんでもない、世界中の全部の場所と繋がっちゅう」
脳裏を過るのは、レンジが言い放った『情報が世界を制する』という言葉。
そしてレクセリアの狂熱、そこへ流れ着いていた他国の珍しい魔導具、港へと集まる圧倒的な人とカネの流れ――。
これまでバラバラだった点と点が、龍馬の頭の中で、一本の太い線として繋がり始めていた。
「あの『ガランの街』もそうじゃ。ただの宿を経営しちゅうだけじゃあ、あの街の本質は絶対に回らん気がするがじゃ」
リサが煙草の煙をふぅと吐き出しながら、苦笑交じりに言う。
「確かにね。あんたから聞いた限りじゃ、あの街の宿屋なんて、大して儲からなさそうだもの」
「そこなんぜ、リサ!」
龍馬はパッと顔を上げ、頭をガシガシと掻きながら唸る。
「わしも、まだその先の景色が全部見えちゅうわけじゃない。じゃが……あのガランの街に必要なのは、ただの“宿”じゃあない。もっと別の、大きな『流れ』を起こすための場所の気がするんじゃ」
カイルが不審そうに眉をひそめた。
「……つまり、どういうことです?」
その瞬間、龍馬は弾かれたように勢いよく立ち上がった!
その瞳には、かつて日本で激動の時代を駆け抜けていた時と同じ、圧倒的な熱量が灯っていた。
「見えんのなら、知るっちゅうとこから始めにゃあかん!」
「……は?」
カイルが呆気に取られた声を出す。
「海じゃ!」
龍馬は自身の両拳をバチンと目の前で叩き合わせ、少年のように目を輝かせた。
「わしゃあ、海に出るぜよ!!」
部屋の中が、今度こそ完全に凍りついた。
「……は?」
「ちょ、ちょっと龍さん!?」
リサが慌てて立ち上がり、ランセルやノイルの疲弊した顔を指差す。
「あんた、今帰ってきたばっかりだろうが! 旅の片付けもテラダ屋の今後の相談もこれからだってのに、何が悲しくて今すぐ海に行くんだい!」
だが、一度火がついた坂本龍馬の衝動は、誰にも止められなかった。
「あのガランの街に新しい大きな水を流すにゃあ、まず、世界を繋ぐ『海』そのものを知らにゃあ絶対にいかん! 海を股にかける海商が何を考えちゅうか! 命懸けの船乗りたちが水平線の向こうに何を見ちゅうか! それを、このわしの目で直接見てくるがじゃ!そういうわけじゃき、ちくと海を見てくる!」
「待てぇ、この大馬鹿龍馬ぁぁぁ!!」
リサの地を這うような怒鳴り声が寺田屋の中に響き渡る。
やがて、イーサンが何事もなかったかのように、静かにお茶をズズッと啜る。
「……ふむ。これはまた、とんでもない嵐になりそうですな」
今、世界を繋ぐ広大な青き舞台へ向けて、新たな時代の“大きな流れ”が――坂本龍馬、未知なる海へ。




