第四十二話:夜の欲望
夕暮れの茜色がゆっくりと深い帳に溶けていくにつれ、レクセリアはその輪郭を劇的に塗り替え、完全に“夜の顔”へと変貌し始めていた。
街中の建物や街灯に仕込まれた魔導灯が一斉に点火され、怪しくも美しい極彩色の光が石畳を照らし出す。大通りを満たしていた爽やかな昼の音楽は、地を這うような重低音と、妖艶に跳ねる異国のリズムへと様変わりしていた。空気は心なしか重くなり、香油と酒、そして美味な夜食の香りが濃く漂う。
通りに立つ客引きたちの声は一段と艶を帯び、昼間の健全な観光客に代わって、きらびやかな夜会服に身を包んだ貴族や、怪しげな外套を纏った裏社会の住人、一攫千金を狙うギャンブラーたちが街を埋め尽くしていく。
龍馬はその劇的な光景を眺めながら、感嘆の息を漏らした。
「……昼とは、まっこと別の街になりよる」
その言葉に、隣を歩くベルノが不敵に口元を吊り上げる。
「だから『眠らない街』って呼ばれるんだよ。昼の光が消えてからが、このレクセリアの本番だ」
ベルノがまず一行を案内したのは、夜の運河区画だった。
昼間は優雅なゴンドラが行き交っていた清らかな水路は、今や赤や紫の灯籠の光に染まり、妖艶な光の回廊と化している。
水面を埋め尽くすのは、煌々と明かりを灯した巨大な「酒場船」の群れだった。船上からは、酒杯を掲げる人々の歓声と、エキゾチックな水上演奏が絶え間なく響いてくる。
行き交う人々の中には、素性を隠すための華麗な仮面をつけた客も多く、高級料理店のテラス席からは香ばしい肉の焼ける匂いが立ち上っていた。
路地を埋める夜市には、昼間には見られなかった妖しい光を放つ宝石や、出所不明の珍品が並んでいる。
ここにあるのは、人間の持つ剥き出しの「欲望」だった。
しかし「悪」としては映らない。生きる喜びを爆発させるような「人間の熱量」そのものとして街全体を脈動させている。
「ははは!皆好き勝手に生きちゅうのう!」
龍馬は嫌悪感を示すどころか、むしろ嬉しそうに腹を抱えて笑った。
その反応を見たベルノが、意外そうに煙管の吸い口を外して横目を見る。
「……普通はもう少し嫌な顔をするんだがな」
「なんでじゃ。わしには、皆が命を真面目に生きちゅうようにしか見えんがのう」
龍馬は真剣な目で、楽しそうに笑い合う仮面の男女や、大声を張り上げる商人たちを見つめた。
「美味いもんが食いたい、面白いもんが見たい、綺麗になりたい、大金を稼ぎたい……。どれもこれも、人間が生きちゅうからこそ湧く力じゃ」
欲望そのものを肯定し、人間の生命力として受け入れる龍馬の器の大きさに、ベルノは一瞬だけ目を丸くしたあと、フッと口元を緩めた。
ベルノはさらに彼らを、観光客が決して足を踏み入れない、街のさらに奥深くへと引き込んでいった。
華やかな灯りが届かない薄暗い路地。そこは、レクセリアの裏社会が顔を覗かせる「裏市場」だった。
並んでいる露店は、どれもこれも怪しげな影に覆われている。
他国から盗み出されたと思われる非合法の美術品、服用すれば一時的に魔力を激増させるという禁制の危険薬、呪術師が仕込んだ禍々しい呪具、そして王国の法を潜り抜けて運び込まれた密輸品――。
「……っ、龍馬さん、ここ、ヤバいよ。引き返そう」
ノイルが怯えたように龍馬の袖を引っ張り、周囲の目の死んだ男たちを警戒する。ランセルもまた、いつでも逃げ出せる様に、鋭い視線を周囲に走らせていた。
だが、龍馬の視線は違う。
彼は怯えることも、蔑むこともなく、ただ静かにその光景を「裏側」として見つめていた。
「……表がこれだけ眩しいゆう事は、そんだけ裏も濃いいゆうことじゃな」
龍馬がぽつりと呟く。
「あ?」
「モノもカネも、綺麗事だけであれだけの規模は動かんき。表がデカければデカいほど、裏もまた、同じだけ深く、そして激しく循環するがじゃ」
その言葉を聞いたベルノは、煙管の煙を低く吐き出しながら、声を殺して少しだけ笑った。
「……そりゃ清濁併せ呑むって奴だぜ?お前、やっぱり『旅館の主人』にしとくにゃ惜しいな」
裏市場を抜けた先、ベルノは街で最も高い位置にある高級酒場の半個室へと彼らを案内した。
開け放たれた窓からは、眼下に広がるレクセリアの極彩色の夜景が一望できる。運河を流れる光の帯が、まるで地上の天の川のようだった。
運ばれてきた上質な地酒を煽りながら、ベルノがふと、煙管を弄びつつ静かに語り始めた。
それは、軍人であるレンジが語った大義とは全く別方向の、裏社会を生きる男の「現実論」だった。
「いいか、龍馬。綺麗事だけでこの規模の街は回らねぇ。どんなに法律を厳しくしようが、人間の内側から湧き出る欲望ってやつは止められねぇんだ。無理に押さえつければ、いつか王都みたいに歪んだ形になる」
ベルノは窓の外の光の海を見つめる。
「だが、だからといって欲望の赴くままにさせりゃあ、人は一瞬で潰れる。街は一晩で崩壊だ。だからこそ、誰かが‘汚れ役’をやらなきゃならねぇ。光を維持するために、闇を管理する奴が必要なんだよ」
普通の人間なら反論したくなるような裏社会の論理。しかし、龍馬はただ静かに自分の杯を見つめ、それからニヤリと笑って返す。
「まぁのう。世の中ぁ白か黒かだけじゃ回らんきな」
「それよ。浮く奴が居るんなら沈む奴も居るってだけの話よ」
「それを無理にどちらか一方だけにしようとするから、おかしな歪みが生まれるがじゃ。おまんの言う汚れ役ってやつが、この街の絶妙な『枷』になっちゅうわけじゃな」
ベルノは「つくづく、可愛げのない男だ」と呆れたように笑い、龍馬の杯にドボドボと酒を注いだ。
夜が更けるにつれ、酒も進み、個室の空気は少しずつ緩んでいった。
ベルノがふと、酔いで少しだけ目元を和らげながら問いかけてくる。
「……なぁ、龍馬。ぶっちゃけた話、お前、このレクセリアが結構好きだろ」
龍馬は迷わず、豪快に笑って答えた。
「おう、大好きじゃのう! ここにいると、まっこと胸がすっとするき!」
「へえ、どこがだ?」
「皆が、自分の足で立って、自分の命を『生きちゅう』からじゃ。誰かの顔色を窺うんじゃなく、自分の欲望に正直に、一瞬一瞬を燃やしちゅう」
龍馬の言葉には、一切の偽りがなかった。この街の混沌とした生命力そのものに、彼は深く惹かれていた。
「……そうだな」
ベルノはそう言うと、一瞬だけ、いつもの不敵な笑みを消し、完全な真顔になって水平線の闇を見つめた。
「ここは自由だ。だからこそ人間が集まる。世界中から、善人も悪党も、行くあてのないはみ出し者も、全部な」
ベルノの指先が、細剣の柄を静かになぞる。
「だがな、龍馬。『自由』ってやつは、この世で最も脆いもんだ。誰もが自分の好き勝手をやれば、たちまち弱肉強食の地獄になる。だからこそ、裏からこの自由の『枠組み』を絶対に守らなきゃならねぇんだよ」
それは、法に背を向け、闇に生きる裏社会の人間としての、絶対的な矜持だった。龍馬は何も言わず、自らの杯をベルノの杯へと静かにぶつけた。ちんと、澄んだ音が夜風に響く。
酒場を出たあと、ベルノは「夜の締めくくりだ」と言い、一行をレクセリア最大規模を誇る、夜の‘本物の劇場’へと連れて行った。
中に入った瞬間、龍馬たちはその圧倒的なスケールに言葉を失った。
数千人の観客で超満員となったすり鉢状の客席。中央の広大な舞台では、見たこともない異国の巨大な楽器を持った楽団が、大地を揺らすような壮大な旋律を奏でている。
さらに驚くべきは、最新の魔導具を駆使した演出だった。
舞台上に本物の炎や水流が走り、光の粒子が生き物のように空中を舞い、観客の目の前で神話の戦いがリアルに再現されていく。
観客たちは総立ちになり、地鳴りのような歓声と拍手を送り、劇場全体が一種の狂熱に包まれていた。
龍馬は、その圧倒的な光景に完全に圧倒され、言葉も忘れて舞台を見つめ続けていた。
終演後。
劇場の外、心地よい夜風が吹く通路で、龍馬は夜空を見上げながら、しみじみと呟いた。
「……凄まじいのう。ただ『人を楽しませる』。それだけのために、これほどの力と金を注ぎ込むんか」
そこへ、背後から歩み寄ってきたベルノが、いつものように不敵に笑う。
「言ったろ? レクセリアじゃ、それが莫大なカネになるからだ。カネが動くから、奴らも命を懸ける」
だが、龍馬はゆっくりと首を振った。
「……違うのう」
「あ? 何が違んだよ」
龍馬は振り返り、満面の笑みをベルノに向けた。
「カネのためだけじゃ、あそこまでの熱は生まれんき。ここぁ、人が『楽しい』という感情を、本気で、命懸けで作っちゅうがじゃ。観る側も、作る側も、本気で楽しもうとしちゅうからこそ、あんなに人の心を震わせる力が生まれるがじゃきな」
その言葉に、ベルノは言葉を失い、少しの間だけ黙り込んだ。
それは単なる経済の仕組みや裏社会の管理を超えた、人間の「心」の本質だ。
悪友の言葉が、ベルノの胸の奥に深く突き刺さっていた。
帰り道、夜のレクセリアの通りには、未だ遠くから楽しげな笑い声が響き、運河の水面には魔導灯の美しい光がゆらゆらと反射していた。
ベルノは再び煙管を咥え、煙を夜空へ逃がしながらニヤリと笑った。
「……いいか、龍馬。今日の観光はまだ、『お上品な前座』だ。明日は最後に、この街の最高峰の、とびきりデカい‘遊び’を教えてやるよ」
龍馬はその言葉に、これ以上ないほど不敵に、そして楽しげに笑い返す。
「ほう!そりゃあ、まっこと楽しみじゃ!」
「フン、期待してな。まぁ、無理にとは言わねぇがな」
なんとは無しに察した龍馬は、豪快に笑い飛ばした。
「ははは!!おまん、このわしを誰じゃと思っちゅうがよ!」
夜の熱狂が最高潮を迎える中、龍馬たちの前に、さらなる巨大な「勝負」の予感が近づいていた。
「この坂本龍馬!売られた喧嘩は倍返しじゃ!」




