第四話:居場所を作る男
貴族の屋敷を辞した坂本龍馬が、露店の親父に教えられて辿り着いたのは、街の端のさらに端、陽の光すら届くのを忘れたかのような路地裏だった。
そこにある宿は、建物というより崩れかかった木材の塊に近い。
「ほう、こりゃあ……。また一段と、風通しのええ宿じゃのう」
龍馬は、入り口の扉が外れかかっているのを見て、感心したように呟いた。
一歩踏み込めば、むせ返るような汗と安酒、そして古い油の匂いが鼻を突く。ギシリ、と床板が悲鳴を上げ、天井の隙間からは二つの月が交互に顔を覗かせていた。
大部屋に放り込まれると、そこには十数人の男たちが泥のように転がっていた。
泥にまみれた日雇いの人足、主を失って放り出された元奴隷、片足のない老兵。剥き出しの「底」がそこにあった。
部屋の隅では、血気盛んな若者が、酔っ払いの胸倉を掴んで揺さぶっている。
「賑やかでええ宿じゃ。独り寝よりは寂しくなくてええのう」
龍馬は、男たちの刺すような視線を柳のように受け流し、空いている床にどっかりと腰を下ろした。
背中を丸め、膝を抱える住人たち。龍馬は彼らを眺めるでもなく、懐から取り出した安酒を一口煽った。喉を焼くような安物だが、この場所には、あの豪華な夕餐よりもずっと馴染む感覚があった。
深夜。
静寂を切り裂いたのは、鋭い打撃音だった。
「盗んだな、このガキが!」
怒声と共に、小柄な少年が突き飛ばされ、汚れた床を転がった。
少年の手から、カビの生えた黒パンの端切れがこぼれ落ちる。それを盗みと断じたのは、腕っぷしの良さそうな屈強な男だった。男は少年の首を掴み上げると、容赦なく拳を振り上げる。
「……待て、待て」
龍馬は、横になったままひょいと片手を上げた。
その声には、怒りも正義感もなかった。ただ耳に入り易い、平坦な響き。
「誰が盗んだだの、誰が悪かだの、そんな話をする気はない。けんど、おんしゃあ。そいつを今ここで殴り殺して、何の得があるがか?」
「あぁ? 何だ貴様……。余所者は黙ってろ!」
「おまんがそいつを壊したら、明日からの働き手が一人減る。床が汚れれば、宿主も黙っちゃおらんだろう。掃除代に修理代、おんしゃの宿代まで上がるがは目に見えちゅう。……そんな損な真似はせん方がええ」
男の拳が、空中で止まった。
龍馬の言葉には、善悪の基準がない。ただ「損か得か」という一点のみが突き刺さる。それが、明日をも知れぬこの場所では、何よりも重い言葉として響いた。
男は鼻を鳴らし、少年を乱暴に放り出すと、自分の場所へ戻っていった。
少年は、腫れ上がった顔でパンを拾い上げ、また暗がりに蹲る。
龍馬はそれ以上、少年に声をかけることはしなかった。男を改心させたわけでもない。ただ、今この瞬間の暴力が「損だから」止まっただけだ。
明日になれば、また別の場所で同じことが起こる。世界は何一つ変わっていない。その救いようのない停滞を、龍馬はただ静かに見つめていた。
眠れぬ夜。
龍馬は、隣にいた痩せ細った男に安酒を回し、言葉を拾い集めた。
男が語るこの街の現実は、龍馬が昨日まで抱いていた感覚を、少しずつ、だが確実に削り取っていった。
奴隷市場の実態。それは、罪を犯した者が「償う」ための場所ではなかった。一度その循環に組み込まれれば、死ぬまで搾取され、使い捨てられるだけの装置だ。
この宿の住人たちも、一日働いて得られるのは、次の日の宿代と、硬いパン一個分の賃金。そこには貯蓄も、向上も、ましてや希望などという言葉は存在しない。
「……なるほど。こりゃあ、ちぃと話が違うのう」
龍馬は独りごちた。
この場所で見る「奴隷」という言葉の裏側は、道理ではなく、ただの腐敗だった。
「……気に入らんのう」
龍馬は、野党を売って手に入れた数少ない銀貨を一枚取り出し、指先で弄んだ。
目の前を怯えた顔の宿主が通りかかる。借金で首が回らず、有力者にこのボロ宿を奪われるのも時間の問題だという。
「おい、宿主」
「ひ、はい……。なんです、何か不手際でも?」
龍馬は、その銀貨を宿主の手にそっと握らせた。
「これは、貸しじゃ。今のうちに壁の穴でも塞いでおけ。……この宿、ちぃと弄れば、もっと金が動くようになるぜよ」
宿主は、呆気に取られたように龍馬を見た。
一枚の銀貨では、何も解決しない。壁の穴が塞がったところで、明日借金が消えるわけでもない。宿主も、周囲の住人も、龍馬を「おめでたい余所者」を見るような目で眺めていた。
誰一人、龍馬に感謝などしていない。ただ、「便利な変な男が、一枚の銀貨を捨てた」というだけの出来事として、部屋の闇に溶けていった。
朝。
街が喧騒を帯び始める頃、龍馬は安宿のガタつく扉をくぐった。
朝焼けに染まるスラムは、昨夜の湿った空気を隠すように活気に溢れている。
龍馬は、寂しくなった懐をポンと叩くと、大きく伸びをした。
貴族の屋敷は、自分には合わなかった。
だが、この停滞し、腐りかけた街の底もまた、彼にはひどく居心地が悪い。
龍馬の脳裏に、かつて日本で過ごした池田屋の懐かしい風景が思い浮かぶ。
朝日は容赦なく、龍馬を現実へと引き戻す。
「……さて。金の匂いがしてきたのう」




