第三話:合わんものは合わん
豪奢、という言葉では足りないほどだった。
天を衝くような白い石柱に、緻密な彫刻が施された大門。ガラン伯爵の城は、二つの月の光を浴びて、異世界の富と権威を象徴するようにそびえ立っていた。
「ほう、えらい立派な城じゃのう」
馬車から降り立った龍馬は、首を大きく反らせて屋敷を見上げた。
案内する兵士たちは、その無作法な立ち居振る舞いに眉をひそめるが、龍馬には萎縮という言葉がなかった。驚きはする。感心もする。しかし、それが自分の心を縛る理由にはならない。
彼はただ着物の裾を払い、ふらりと玄関へと歩み出した。
広大な食堂には、長いテーブルが設えられていた。
銀の食器が並び、見たこともない色彩の料理が皿を彩っている。背後には、微動だにせず控える使用人たち。
「うまいのう。こりゃあ、ええ」
龍馬は、差し出された肉料理を豪快に口へ運んだ。
作法もへったくれもなかった。手づかみこそしないが、出されたものを、ただ旨そうに食う。その姿には卑しさよりも、むしろ清々しさがあった。
エリスは、そんな龍馬を眩しそうに見つめていた。
だが上座に座る彼女の父、ガラン伯爵の目は鋭かった。彼は、娘を救ったこの男の底知れぬ「軽さ」に、得体の知れない違和感を抱いていた。
「さて、坂本殿と言ったか」
食事が終わる頃、伯爵が重々しく口を開いた。
「娘を救ってくれたこと、重ねて感謝する。礼として、望むだけの金貨と、望むならこの街での地位を用意しよう。我が軍の士官として迎え入れてもよい」
並の人間なら、椅子から転げ落ちて喜ぶ申し出だ。
だが、龍馬は口の端についたソースを指で拭うと、即座に答えた。
「いらん」
食堂の空気が、一瞬で凍りついた。
使用人たちの呼吸が止まる。伯爵の眉間に、深い皺が刻まれた。
「……何と言った?」
「金も地位も、いらんと言うたがじゃ。うまい飯を食わせてもろうた、礼ならそれだけで十分ぜよ」
伯爵は、龍馬の瞳を覗き込んだ。そこには、駆け引きも欲も微塵もない。
「……欲のない男だ。では、条件を変えよう。貴殿は剣の達人と聞いたぞ?どうだ、私の息子の剣の師に召し挙げよう。どうだ?」
それは、伯爵なりの最大級の譲歩であり、囲い込みだった。
しかし、龍馬は今度は少しだけ困ったように眉を下げた。
「すまんが断らせてもらうぜよ。……剣はな、『教えさせる』もんじゃないき」
「教えさせるものではない? 剣術とは磨き、伝えるものだろう」
「『磨く』んは己の為じゃ。『伝える』んは請うた者にじゃ。教えさせてやろう言うんは好かんぜよ」
「貴様、いい加減にしろ!」
控えていた騎士の一人が、たまらず声を荒らげた。
「伯爵閣下の慈悲を無下にするだけでなく、我が国の騎士道を愚弄するか! 身分を弁えろ、この流れ者が!」
男は腰の剣に手をかけた。食堂に、抜き身の殺気が満ちる。
龍馬は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。その動作には一点の澱みも、恐怖もない。
「ほう。身分ち言うか。ほいたら斬るか?」
軽く、笑いながら言った。
だが、その瞬間、屋敷中の空気が重く沈んだ。龍馬の背後に、巨大な龍の影が揺らめいたような錯覚。
激昂していた騎士が、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「……証明しろ、旅人よ」
伯爵が静かに言った。
「貴殿の価値観が、我が家の指南役より上であることを。ならば、不問に付そう」
月明かりの下の練武場。
対峙するのは、伯爵家最強と謳われる剣術師匠、バスカル。
バスカルは大剣を構え、龍馬は——やはり、刀を抜かなかった。
「抜かぬか、無礼者が」
「抜かんでも、勝負はつくき」
バスカルが吠え、風を切って突進した。
大剣が、龍馬の頭上から叩きつけられる。石畳が砕け、火花が散る。
だが、龍馬はそこにいない。
龍馬は、バスカルの懐に潜り込んでいた。刀の鞘を相手の脇腹に添え、わずかに力を込める。
「……っ!」
バスカルの体がいとも簡単に浮き、石畳を転がった。
力任せではない。相手の勢いを利用し、逃げ場を塞ぐ「合気」の理。
すぐさまバスカルも立ち上がれば、石畳を踏み弾いて縦横に剣を振るう。
大剣とは思えない程の剣閃に、龍馬は一度間合いを取る。
「いやいや。目にも止まらんちゃあ、よぉ言うたなぁ」
「ちょこまかと!」
一歩、踏み出した足は「どれ」と上げた龍馬の右腕に制止する。
右片手上段。
一刀の間合い。その域にバスカルが備えれば
「止まったのう」
「!」
バスカルの掲げた剣に真っ向から鞘ごと打ち据えれば、その重圧に片膝を付くに至った。
「剣はな、『教えてもらう』もんじゃ。……おまんらぁの言い様はちくと高いぜよ」
龍馬の声は、静かに練武場に響き渡った。
勝負はついた。
だが、龍馬の心は少しも晴れていなかった。
剣を収めるバスカルを見下ろす伯爵の冷ややかな目。屈辱に顔を歪める兵士たち。
そこにあるのは、強者が弱者を支配し、身分が全てを決定する、ガチガチに固まった古い社会の縮図だった。
龍馬は、この世界に漂う「臭い」を感じ取っていた。自分が捨ててきた幕末の土佐、いや、それよりもさらに閉鎖的で、冷酷な空気。
「……なんじゃかのう」
龍馬は独りごちた。
法があるのではない。身分があるだけだ。
「肌に合わんき」
龍馬は、引き止めるエリスの声を聞き流し、一礼もせずに屋敷の門をくぐった。
豪華な食事も、金の誘惑も、彼をこの場所に繋ぎ止めることはできなかった。
夜の街。
屋敷の喧騒が嘘のように、裏通りは湿った闇に包まれていた。
龍馬が露店で買った安酒を煽っていると、通りを歩く役人たちの会話が耳に入った。
「例の野盗ども、明日には市場へ流す。あのような屈強な連中は、鉱山での需要が高いからな」
「死ぬまで働かせれば、良い金になる」
龍馬は、酒を飲む手を止めた。
自分が捕らえ、奴隷落ちさせた男たちの末路。
それは、彼が思い描いていた「罪を償う」という形とは、どこか決定的に食い違っていた。
「……妙な国じゃのう。ま、どこも似たり寄ったりじゃがな」
龍馬は空を見上げた。
二つの月は、冷たく、ただ黙って彼を見下ろしている。
龍馬は残る僅かな酒を飲み干して、酒を買った露店の親父に笑顔を見せる。
「ときに親父。わしゃあ今夜の宿を探しとるんじゃが、安宿でもええき、どっか教えてくれんかのう」




