第二話:騒がしい世界
二つの月が照らす草原は、ひどく騒がしかった。
金属がぶつかり合う鈍い音、地に伏した者の呻き、そして男たちの怒号。それは夜風に乗って、少し離れた岩陰にまで流れてくる。
坂本龍馬、最後の一口となった握り飯を飲み込んだ。
喉を通る米の重みと、かすかな塩気。龍馬はそれをゆっくりと味わい、ふう、と長く息を吐いた。
「……さて」
視線の先では、装飾の施された一台の馬車を囲み、十数人の男たちが白刃を振るっていた。守る側の若い兵士たちは、もはや数えるほどしか残っていない。
襲っている側は、獣の皮を纏った野盗の群れだ。その顔には獲物を追い詰めた獣特有の、下卑た悦楽が浮かんでいる。
龍馬は、腰に差した一振りの刀を軽く撫でた。
寺田屋で自分を貫いた痛みはもうない。代わりに、龍が授けてくれたという「ただの鉄の塊」が、確かな重みを持って腰に馴染んでいる。龍馬はそれを抜きもせず、鞘に収めたままの姿で殺し合いの渦中へと歩み出した。
龍馬が戦場の外縁に達した時、ようやく一人の野盗がその存在に気づき顔を向けた。
「……あ? なんだ貴様は」
「あぁ、なんじゃ」
龍馬の声は、驚くほど平坦だった。怒りも、正義感も、昂ぶりもない。まるで、道端で知人に挨拶でもするかのような、間の抜けた響き。
「……こういう場合、おんしゃらが『悪もん』っちゅうことでええがか?」
「死にたいのか、余所者!」
野盗の刃が、龍馬の喉元へ向かって一直線に突き出された。
龍馬は動かない。刃が皮膚を裂く寸前、わずかに首を傾けた。
切っ先が空を切る。その一瞬の隙を、龍馬は見逃さなかった。
抜き放つことのない鞘の先が、野盗の鳩尾を正確に突く。
「がはっ」と短い悲鳴を上げ、男が崩れ落ちた。
「殺すのは好きじゃないき。……おんしゃらも、これくらいで引いちょけ」
だが、その言葉が火に油を注いだ。
野盗たちが一斉に標的を龍馬へと変え、包囲の網を縮めてくる。
そこからは、戦いというよりは、奇妙な舞踏のようだった。
龍馬は、決して速いわけではなかった。
大きく身を翻すわけでも、派手な剣技を繰り出すわけでもない。ただ、相手が踏み込んでくる瞬間に半歩だけ横へずれ、重心を失った男の背を鞘で叩く。あるいは、振り下ろされた斧の柄を、刀の柄頭で軽く弾く。
無駄な動きが、一つもない。
十人近い野盗に囲まれながら、龍馬は一度も刀を抜く必要を感じていなかった。
彼が見ているのは刃の動きではない。男たちの視線の揺らぎ、肩の重心、そして地面を踏みしめる足裏の力加減。幕末という混沌の中で、幾多の修羅場を「生き残ること」だけで切り抜けてきた男の、骨の髄まで染み付いた処世の術。
野盗の一人が、じり、と後ずさった。
「……化物め」
野盗の一人が、恐怖に顔を引きつらせて呟いた。
自分たちの暴力が、まるで水面に投げられた石のように、龍馬という「点」に触れた瞬間に吸い込まれ、無効化されていく。
龍馬は、最後の一人の手首を鞘で軽く叩き、獲物を落とさせたところで、ふっと息を整えた。
「場が掴めんき。怪我をせんうちに、さっさと片付けんと」
龍馬は、野党たちが持っていたと思われる麻縄を手に取ると、地面にのたうち回る野盗たちを、手際よく縛り上げ始めた。
龍馬にとっても不思議だった。これは、あの龍の土産か?と。
いつもより身体が動く。
思考と動作にズレが無い。
なにより、この世界に対する違和感が、自分には無かった。
「……まぁ、ええろうか」
「あんた……何者だ?」
「うん?」
助けられた側の若い兵士が、折れた剣を杖代わりに立ち上がり、震える声で問いかけた。
龍馬は野盗の腕を締め上げながら、肩越しに少しだけ笑った。
「ただの通りすがりじゃ。名乗るほどの者でもないき」
「なぜ、殺さない? これだけの賊だ、息の根を止めるのが普通だろう。あんたの腕なら、赤子の手をひねるようなものだったはずだ」
龍馬は、最後の一人の結び目を確認して立ち上がると、不思議そうな顔で兵士を見た。
「殺すのは好きじゃないき。……それに、こいつらを殺しても一文にもならんじゃろ。それよりものう」
龍馬は、芋虫のように並んだ野盗たちを指差した。
「こいつら、近くの街へ連れて行って奴隷として売ってしまえばええ。この馬車も、ちぃとガタがきちょるようじゃ。修理代の足しにはなろうよ」
兵士たちが、二つの月を見上げたまま絶句した。
命の恩人の口から出たのは、正義の言葉でも、騎士の誇りでもない。あまりにも即物的で、乾いた「合理性」だった。
「……奴隷に、売るだと?」
「悪さしたもんは、それなりの目にあうが筋じゃろ。死んで逃げられるより、一生誰かのために汗を流して償う方が、世の中のためじゃ。」
龍馬は悪びれる様子もなく、夜風に吹かれていた。
その時、馬車の扉が静かに開いた。
中から一人の少女が顔を覗かせる。月光を吸ったような白銀の髪と、気品のある瞳。彼女は、地面に転がる野盗たちと、その中央に立つ「奇妙な男」をじっと見つめていた。
「お待ちください」
透き通るような声が、夜の草原に響く。
「私はこの地の領主の娘、エリスと申します。非礼を承知で申し上げます……どうか、私と共に屋敷へ。命の恩人に、相応の礼を尽くさせてください」
兵士たちが色めき立つ。それはこの世界の住人なら誰もが手放しで喜ぶ誘いだった。
だが、龍馬は後頭部をポリポリと掻き、困ったように眉を下げた。
「……礼のう。気持ちは嬉しいが、わしはそういう堅苦しい場所は苦手なんじゃ。お嬢さんも、無事ならそれでええ」
「ですが……」
「それよりものう、お嬢さん」
龍馬は、空になった竹の皮を懐から取り出し、少しだけ情けない顔で笑った。
「屋敷の礼よりも、この近くに美味い飯屋はないか教えてくれんかの。握り飯一つじゃ、ちぃと腹が持たんでのう」
少女は、目を丸くして立ち尽くした。
己の家柄も、感謝の言葉も、さらりと流された。目の前の男が見ているのは、権威でも名誉でもなく、ただ「空腹」というあまりにも個人的な真実だけだった。
「……ふふっ」
不意に、少女の口から小さな笑みが漏れた。
彼女が今まで見てきた、自分を売り込もうとする野心家たちとは、決定的に何かが違う。
「承知いたしました。では、我が家の料理番に、この国で一番の料理を用意させましょう。……それならば、お付き合いいただけますか?」
「……ほう。この国で一番か。そりゃあ、楽しみじゃの」
龍馬は、刀の柄をポンと叩くと、ようやく満足げに頷いた。
夜明けは近い。
二つの月が沈みかけ、草原の向こうから新しい太陽の兆しが見え始める。
坂本龍馬。
その新しい旅路は、正義のためでも世界を救うためでもなく、ただ「美味い飯」を求めるという、極めて彼らしい一歩から始まった。
「さて!では参ろうか!」




