第一話:寺田屋にて
慶応二年一月二十三日。京の夜は骨まで凍てつく。
伏見の船宿「寺田屋」。
その二階の一室で、坂本龍馬は湿った髪を無造作に掻き揚げ、肌着のまま胡坐をかいていた。先ほどまで浸かっていた風呂の余韻が、薄い着物越しに夜風と混じり合う。
開け放たれた窓の外には、淀川の暗い水面が音もなく横たわっている。
時代が動く。昨日から今日へ、そして未来に向かって――そんな急流の真ん中にいながら、龍馬の心は奇妙なほどに静まり返っていた。
「……ま、なるようになるろう」
龍馬は独りごちて、塗り剥げた盆の上の酒をぐいと煽った。
薩長が握手を交わした。新しい日本の形が、ぼんやりとだが、確かに見え始めてきた。志士たちが肩を怒らせて語る「大義」や「正義」といった言葉は、龍馬にとっては少しばかり窮屈すぎる。自分はただ、誰もが腹一杯に飯を食い、笑って海を渡れるような、そんな広い世界が見たいだけなのだ。
龍馬は空になった猪口を置き、夜空を見上げた。雲間に隠れた月が、不吉なほどに静かだった。
彼は歴史に名を残すというよりも、こうして夜風に吹かれているどこか掴みどころのない「人間」としての顔の方がよく似合っていた。
その静寂は、一階から響いた鋭い物音によって唐突に破られた。
女房のお登勢が上げる悲鳴。そして階段を駆け上がる、草鞋が床を噛む湿った足音。
「ほう、来たか」
龍馬は微塵も焦らなかった。むしろ、約束していた友人がようやく訪ねてきたかのような、淡々とした口ぶりだった。
襖が勢いよく弾け、部屋の空気が一変する。踏み込んできた数名の男たち。その手には、月光を吸って冷たく光る白刃が握られていた。
伏見奉行所の捕り方か、あるいは異を唱える刺客か。龍馬にとって、それはもはやどちらでもよかった。
龍馬は傍らの拳銃に手を伸ばしかけ、そして止めた。
逃げることも、戦うこともできたはずだ。だが、彼はその場に根を張ったように動かなかった。ただ、真っ直ぐに刺客の目を見た。そこにあるのは、時代のうねりに翻弄され、ただ目の前の敵を斬ることでしか明日を繋げない者たちの焦燥。
「……っ!」
一閃。
鋭い痛みが龍馬の胸を斜めに切り裂いた。
鮮血が畳を汚し、視界がゆっくりと傾いていく。刺客の顔が驚愕に歪んでいるのが見えた。なぜ抵抗しない、とでも言いたげな目。
「ああ……ここまでかの」
驚きはなかった。ただ、すとんと腑に落ちるような納得感。
龍馬は口の端を少しだけ上げ、満足げに目を閉じた。意識が深い闇へと沈んでいく中、最後に聞こえたのは、夜風が窓を叩く音だけだった。
次に目を開けた時、そこは寺田屋でも、地獄でもなかった。
果てのない虚無。上下の感覚すら曖昧な漆黒の空間に、揺らめく光の渦が満ちている。そしてその中心に、山のごとき巨躯が鎮座していた。
それは、古い絵巻物から抜け出したような「龍」だった。
硬質な鱗は銀河のように煌めき、黄金の眼が、ちっぽけな龍馬の存在を捉えていた。
「目覚めたか、異邦の魂よ」
声というよりは、世界そのものが震動するような音。
普通なら腰を抜かすか、神仏に祈りを捧げる場面だろう。だが、龍馬はよろよろと立ち上がると、後頭部をポリポリと掻いた。
「こりゃあ……さっぱり分からんのう。わしは斬られて死んだはずじゃが。あんた、本物の龍かね?」
龍は、この世界の「綻び」について静かに語り始めた。その「綻び」正すために強大な「存在力」が必要なのだという。
龍馬はそれを「へえ、ほうか」と適当に聞き流していたが、やがて一つ、気になったことを尋ねた。
「なあ、龍の旦那。あんたなら、わしが死んだ後のことが見えるんじゃろう? なら、教えてくれんか。……日本は、どうなる?」
龍はその長い髭を揺らし、深い黄金の瞳で龍馬を凝視した。
『聞きたいか。お前が命を賭して拓こうとした道の先を』
龍は、淡々と未来を映し出した。
龍馬が去った後、日本は瞬く間に生まれ変わる。刀を捨て、髪を切り、鉄の馬が大地を駆けた。
『だが、光が強ければ影も深い。お前の国はその代償に……一度全てを焼き尽くされることになる』
龍の声には、慈悲も嘲笑もなかった。ただの事実として、未来を告げた。
龍馬は黙って聞いていた。火の雨、焼け野原、数えきれないほどの死者。
『それでも、お前の国を肯定するか?』
龍馬はふっと笑った。それは、寺田屋で酒を飲んでいた時と同じ、軽やかでいて揺るぎない笑みだった。
「……戦争も起ころうし、人はぎゅうさん死ぬろう。難儀な時代になる。けんど、それでもええ。日本人はしぶといき、きっと転んでもただじゃ起きん」
龍馬は、自分が愛した日本の人々を思い出していた。お節介で、騒がしくて、けれど明日を信じて汗を流す名もなき民たち。
「一度燃えてものう、また種をまけばええ。日本人はしぶといぜよ。あんたが言う未来がどんなに惨めでも、わしの仲間や、その子供らは、きっと真っ直ぐに笑って歩いちょるはずじゃ。……ああ、ええ国になるろうよ。わしの目は節穴じゃないき」
根拠などない。だが、その言葉には理屈を超えた「人間への信頼」が宿っていた。
龍は、その魂の輝きを確かめるように長い沈黙のあと、低く笑った。
『気に入った。お前のその魂、この世界の礎とするに相応しい』
龍は、龍馬を異世界へ誘う代償として、一つの「力」を授けると提案した。
『望むがいい。一国を滅ぼす魔力か、万軍を薙ぎ払う剣技か。あるいは、死すら超越する不老の体か』
龍馬は腕組みをして、うーんと唸った。魔力、剣技、不老不死。どれもこれも、今の自分には重たすぎる。そんなものを持っていれば、また誰かに狙われ、また「英雄」として担ぎ上げられてしまう。
「そんなもんは、いらん。それより、龍の旦那。一つ、頼みがあるがじゃ」
『言ってみよ』
「温かくて、中身に少し塩気が効いた……握り飯を一つ、貰えんかのう」
龍は一瞬、呆気に取られたように目をしばたかせた。
『……何だと? 授けようとしているのは、神に等しき力だぞ。それを、米の塊と引き換えるというのか』
「腹が減ってはなんとやらじゃ。見たこともない世界へ行くがに、空腹いのはいかんぜよ。それにのう……握り飯を食うと、力が湧いてくる。それが一番の術っちゅうもんじゃないかね?」
龍馬は屈託なく笑った。
龍はしばらくの間、龍馬を観察していたが、やがて大気を震わせて笑い始めた。
『くくく。なるほど。お前の様な魂にはそれも似合いか。面白い。真に強い者とは、己の腹の満たし方を知る者よ。持っていけ、坂本龍馬。その握り飯は、決してお前を裏切らぬだろう』
不意に、周囲の空間が激しく脈打ち始めた。
龍の姿が光の中に溶けていき、龍馬の体もまた、何処かへと吸い込まれていく。
「ほいたら、行ってくるぜよ。あとのことは、残った奴らに任せちょけばええ」
龍馬は軽く手を振った。別れの挨拶も、異世界への抱負も、驚くほどあっさりとしていた。
激しい光の濁流。落ちているのか、昇っているのかも分からない浮遊感。
そして、重力が戻ってきた。
ドサリ、と柔らかな草の上に尻餅をつく。
目を開ければ、そこには見たこともないほど巨大な、青白い月が二つ、夜空に浮かんでいた。
鼻をくすぐるのは、焦げたような匂いと、嗅いだことのない獣の咆哮。
「……いたた。こりゃあ、また随分と遠くへ来たもんじゃ」
龍馬は立ち上がり、懐を探った。そこには、約束通り竹の皮に包まれた、まだ熱を帯びている「握り飯」があった。
一口頬張る。絶妙な塩加減と、米の甘みが体中に染み渡る。
少し離れた場所から、金属のぶつかり合う音と、悲鳴が聞こえてきた。
剣を構えた数人の若者たちが、同じく剣を構えた数人に囲まれ、必死に剣を振るっている。
「……騒がしいのう。ここは、どこじゃ?」




