第三十九話:閉ざされた海、開かれぬ空
翌朝。
アーデルハイト公爵領の空は、雲ひとつない鋼色の青に染まっていた。
昨夜の大宴会の余韻など微塵も感じさせないほど早くから、獣人たちの訓練場からは地を震わせる怒号と、鋭い鉄のぶつかる音が響き渡っていた。
龍馬は宿舎の裏手で、木桶に汲んだ冷水を頭から豪快に被った。
「――ふぅ、生き返るちや」
びしょ濡れの髪を無造作に掻き揚げながら、龍馬はその訓練場の熱気をどこか名残惜しそうに眺めていた。彼らの純粋な強さと、どこか無骨な温かさが肌に馴染み始めていたからだ。
「もう出るのか、龍馬」
背後から掛けられた声に振り返ると、そこには既に隙のない軍服へと着替え終えたレンジが立っていた。
昨夜の食堂で見せた、夢を語る陽気な青年の顔はそこにはない。腰に細剣を帯び、背筋を正した彼は、公爵領の治安を預かる軍人としての鋭く冷徹な表情に戻っていた。
「おう。長居しちょっても商売にならんきな。次はここからさらに南、大陸一賑やかちゅう歓楽都市を目指すぜよ。……レクセリア、やったか」
「ああ。あそこはこの国の中でも最たる異質だ。良くも悪くも、既存の法や常識が通用しない。……お前なら、きっと気に入るだろうさ」
レンジの言葉に、龍馬はニヤリと不敵に笑ってみせた。
「おまんが言うがなら、ちくと楽しみになってきたぜよ」
レンジはふっと小さく口元を緩めたあと、周囲を一度見回し、誰もいないことを確認してから懐から一枚の簡易地図を取り出した。近くの作業机に広げられたその羊皮紙には、アーデルハイト、王都、ガラン、ガヤルド、そしてレクセリアの文字が並び、それらを繋ぐ予定線が、鮮烈な赤いインクで幾筋も描き込まれていた。
「これは……」
「俺が現在、極秘裏に進めている街道計画の全容だ。まだ公にはしていない」
レンジの細い指が、この公爵領から南へと伸びる一本の赤線を静かになぞる。
「まずはレクセリアまでの最短路を確保する。険しい山道を削り、強固な橋を架け、兵站と物流を完全に安定化させる。それが第一歩だ」
「ほう……。まっこと、本気で路を拓くつもりながじゃな」
「この国は閉じすぎているのだ、龍馬」
レンジの目が、冷たい熱を帯びる。
「王都は王都で、中央に富と権力を溜め込み過ぎている。対して、地方の領地はそれぞれの都合で孤立している。だから国全体の流れが悪くなり、至る所で淀みが生じる」
龍馬の脳裏に、王都の裏路地で感じたあの重苦しい空気や、大門前の憲兵たちの腐敗が過った。
「おう。わしもこの国を歩きながら、まっことそう思うちょった。どこかが詰まっちゅうがじゃ」
レンジはそこで一瞬だけ言葉を切り、広げた地図をじっと見つめた。そして、絞り出すように静かに言った。
「……だが、それでも。どんなに歪で淀んでいようと、私はこのシルベニア王国を守らなければならないのだ」
その声音に含まれた、逃れられない宿命のような重みに、龍馬は何も言わずにただ黙って頷いた。
出立の直前、レンジは「最後に見せたいものがある」と言い、龍馬たちを軍港が一望できる断崖の上の高台へと案内した。
眼下に広がっていたのは、圧倒的な「暴力の結晶」だった。
波間に浮かぶのは、重厚な鉄板と無数のバリスタで武装された、灰色の巨大な軍艦群。岸壁には規則正しく巨大な見張り台が並び、その間を、蟻の群れのように一糸乱れぬ動きで物資を運ぶ兵士たちが埋め尽くしている。さらに見上げれば、甲高い鳴き声とともに、湾岸を鋭い眼光で巡回する飛竜の群れが空を舞っていた。
そこには、王都の華やかさとも、ガランの自由な活気とも違う、“戦うためだけ”に研ぎ澄まされた都市の冷徹な姿があった。
「すげぇのう……」
龍馬は手すりに手をかけ、その光景に素直な感嘆の声を漏らした。
だが同時に、彼の胸の奥には、昨日から感じていたあの奇妙な息苦しさが、より一層強くのしかかっていた。
海は、どこまでも広く、どこまでも青い。遮るものなど何もなく、世界のあらゆる国へと繋がっているはずだ。
なのに、この強大な力を持つ街は、その無限の海へ背を向け、ただ外敵を防ぐためだけに、自らの手で扉を閉ざし、空を睨みつけている。
龍馬は潮風に吹かれながら、ぽつりと呟いた。
「おまん…………ほんまはこの海を渡って、外の世界へ出たいがやろ」
レンジの背中が、ピクリと僅かに揺れた。彼は視線を海へ向けたまま、表情を変えずに問い返す。
「……なぜそう思う」
「おまんの目じゃ。昨日から街道だの情報だと熱っぽく語りよるが、結局のところ『外の世界を見たい』っちゅう強い渇望からきちょる。わしには、そう見えて仕方がないがじゃ」
レンジは長い沈黙に身を委ねた。波の音と、飛竜の鳴き声だけが二人の間を通り抜けていく。
やがて、遠くの水平線を見つめたまま、レンジは自嘲気味に、しかし驚くほど弱く静かに笑った。
「……出たいさ。当たり前だろう」
その告白は、彼の纏う軍服の重さとは裏腹に、一人の青年としての本音だった。
「この海の向こうに何があるのかを見てみたい。どんな国があり、どんな民が生きているのかをこの目で知りたい。世界中の人間と出逢い、語り合ってみたい。……それが叶うなら、どんなに素晴らしいか」
龍馬は何も言わず、ただレンジの横顔を見つめ、その言葉を静かに受け止めた。
「だが、私はこのシルベニアの、アーデルハイトの人間だ」
レンジの声が、再び硬く、冷たい鉄の響きを取り戻していく。
「この閉ざされた軍港は、王国の最大の砦であり、命綱だ。ここを開放すれば、敵国の工作員も入り込み、内側から崩壊するだろう。そうなれば、国防は一瞬で瓦解する」
「……」
「分かってる。閉じれば流れが止まり、淀む。だが、それでも守らねばならない民がいる。守らねばならない大義があるんだ、龍馬」
龍馬は何も返さなかった。ただ、目の前に広がる広い海を見た。
どこまでも自由そうで、どこまでも遠い、閉ざされた海を。
昼頃、公爵領の南大門の前で、龍馬たちは南の歓楽都市へと向かう大型の商隊へと合流した。
その商隊の顔ぶれを見ただけで、これまでの旅とは明らかに空気が異なることが分かった。
きらびやかな衣装を纏った旅芸人の一座、妖艶な笑みを浮かべる踊り子たち、見たこともない風変わりな楽器を背負った楽団、そして彼らを護衛する、どこか不敵で荒っぽい気配を隠そうともしない傭兵たち。
これまで通ってきた軍事都市の堅物な人々とは対極にある、どこか浮ついた、しかし圧倒的なエネルギーを持つ人種が数多く混ざり合っていた。
「本当に同じ国なのですか、ここは……」
荷馬車の御者台に腰掛けたノイルが、周囲の賑やかさに圧倒されながら呆れたように笑った。
出発の鐘が鳴り響く中、レンジがゆっくりと歩み寄り、龍馬の手へ小さな革袋を押し付けた。ずっしりとした重みとともに、金属が擦れ合う高い音がする。中を覗くと、アーデルハイト公爵領の内部でしか流通していない、美しく精緻な刻印が施された特殊な銀貨が数枚入っていた。
「レクセリアは欲望の街だ。何が起こるか分からんし、普通の貨幣が通用しない裏の取引も多い。これを持っていけ」
「ほう。こりゃあ、えらい太っ腹じゃのう。ありがたく使わせてもらうぜよ」
「勘違いするな、ただの『貸し』だ。私が街道を完成させ、お前が本当に国中を繋いだその時、利子を付けてきっちり返してもらうからな」
龍馬は一瞬目を丸くしたあと、天を仰いで豪快に笑った。
「ははは! 構わん、構わん! その時にゃあ、度肝を抜くほどの利子付きで、倍にして返しちゃるき!」
レンジもまた、普段の厳格さを忘れ、珍しく声を上げて少年の一点に還ったように笑った。
「龍馬さん! 置いてかれますよ!」
ランセルが声を張り上げ、商隊の馬車がゆっくりと動き出す。
龍馬は動き出した荷馬車の上へと飛び乗り、大きく腕を振って、見送る青年の姿をその目に焼き付けようとした。
「レンジ――! 次におまんと会う時ゃあ、わしももっとデカい、世界をひっくり返すような話を持ってくるきな! 楽しみに待っとれ!」
レンジは誇り高く腕を組み、その不敵な口元を綺麗に吊り上げて叫び返した。
「望むところだ、龍馬! 俺もすぐにこの路を伸ばしてみせる! お前には負けんぞ!」
南へと緩やかに下っていく、華やかなレクセリアへの街道。
そして、険しい山肌に残り、海を睨み続ける冷徹な軍港。
二人の若き傑物は、それぞれの信念を胸に、全く別々の道を歩み始めていた。
互いの夢を認め合い、いつかその路が繋がることを信じて。
「次はどがいな街が待っちゅうがよ!」




