第三十八話:夢を繋ぐ街道
アーデルハイト公爵領の首都へ到着してから、数日が瞬く間に過ぎていた。
龍馬たちは、王都から運び込んできた荷を売却するため、この領内でも最大級と謳われる御用商人の大商会へと足を運んでいた。
そこは王都の商業ギルドのような華やかな喧騒とは異なり、どこか城塞都市特有の重厚で静かな空気が張り詰めている場所だった。
商会の支配人は、目の前に運び込まれた荷を一つずつ丁寧に、かつ老練な手付きで確認しながら何度も満足そうに頷いた。
王都で仕入れた最高級の品々――
異国製の香油。
細緻な彫刻が施された装飾細工。
肌触りの良い極上の絹布。
そして貴金属を惜しみなく用いた加工品にいたるまで、どれも非の打ち所のない上等なものばかりだった。
支配人が静かに提示した買取価格の数字を見て、横から覗き込んでいたノイルが思わず小さく口笛を吹く。
「へえ……王都の最高値ほどじゃないけど、やっぱすげぇ高値で売れるんだな」
しかし、その取引の様子を後ろで見ていた龍馬は、腕を組んだまま不思議そうに首を傾げていた。
「じゃがランセル、やっぱり食いもんや香辛料といった品は、ここでは取引されとらんかったのう。これだけ大きな港があるんじゃき、海の向こうの珍しい食材なんかは飛ぶように売れそうなもんじゃが」
横で売却の受領書を確認していたランセルが、ため息を混じえて答える。
「龍馬さん、アーデルハイト公爵領は確かに巨大な港を持っていますが、あそこは商売のための港ではありません。海軍の中枢たる軍港なのです。食料や調味料、鉄資源にいたるまで、生存に不可欠な物資は可能な限りこの広大な領内で自給自足しています。万が一の際、補給線を他国や外の商人に依存するわけにはいかないのですよ」
「ほいでも、それだけ立派な港があるなら、外の国の品も少しは入るがじゃろ?」
「合法的な手続きを経れば、最低限のものは陸路で入ります。ただし、港そのものは完全に閉じられているのです。他国籍の船は一切の入港が禁止されている。どれほど海が広がっていようと、ここでの交易はすべて、陸路を経由するしかないのです」
「……閉じた港、か」
龍馬は小さく、ぽつりと呟いた。
窓の向こうに見える海は、どこまでも青く世界へと繋がっている。それなのに、この堅牢な街だけは、まるで外の世界を拒絶するように頑なに門を閉ざし、内側の豊かさだけで満足している。その圧倒的な歪さが、龍馬の胸の奥へ、妙な引っ掛かりを残していた。
その思考に耽っていた時だった。
「――本日は、ありがとうございました」
商会の奥にある別室の重厚な扉が開き、そこから聞こえてきた聞き覚えのある声に、龍馬は我に返って振り返った。
現れたのは、あの硬質な濃紺の軍用外套を羽織った青年――レンジだった。レンジは龍馬たちの姿を認めると、一瞬だけ驚いたように目を丸くし、それからすぐに観念したような苦笑を漏らした。
「……お前、本当に商人だったのだな」
「なんじゃ?そう言うちょったろうが」
「ははは、すまない。大森林で捕らえた奴隷狩りを尋問したのだがな、どいつもこいつも『たった一人の男に一瞬で全滅させられた』と喚くものだから、てっきりどこかの国が放った凄腕の商隊護衛の類かと思っていたのだ」
「まぁ、あんならも油断しとったきな。わしゃあ刀を抜いてもおらんし、そんな大層なもんじゃないぜよ」
「謙遜するな。あの手練れの集団を不殺で制圧するなど、並の衛兵でも不可能だ」
レンジは小さく笑ったあと、ふと悪戯を思いついたような少年らしい目をきらめかせ、龍馬を真っ直ぐに見据えた。
「それから……例のエルフの少女を、その場で逃がしたそうだな」
「おう。わしらには売る理由もないきな。ただそれだけじゃ」
その一切の衒いのない返答に、レンジは深く、静かに頷いた。
「気に入った……龍馬、少し付き合え。面白いものを見せてやる」
レンジに案内され、商会を後にした龍馬たちがたどり着いたのは、公爵領都市の外れに位置する広大な軍用訓練施設だった。
高い木柵に囲まれた赤土のグラウンドへ一歩足を踏み入れた瞬間、龍馬たちの肌を激しい熱気が打った。
そこで行われていたのは、レンジの私兵団に所属する獣人たちによる、息を呑むほど苛烈な戦闘訓練だった。
凄まじい風切り音とともに、狼の耳を持つ獣人が目にも留まらぬ速度で駆け抜け、一瞬で仮想敵の背後を取る。
その隣では、丸太のような腕を持つ熊の獣人が、雄叫びとともに分厚い鉄盾ごと巨大な木人を粉々に叩き潰していた。
さらに奥では、しなやかな虎の尾を持つ女戦士が、鋭い双剣を陽炎のように閃かせながら、先輩騎士たちの猛攻をことごとく弾き返している。
飛び交う野太い怒号、飛び散る汗、そして本物の戦場さながらに響き渡る鉄と鉄のぶつかる鈍い音。
そこには、王都の華やかさとは根底から異なる、命そのものが爆ぜるような熱量があった。
「ほぉぉ……」
龍馬は感嘆の息を漏らし、その光景に釘付けになっていた。
「まっこと獣人っちゅうのは、凄い種族じゃのう。動きが速い、一撃一撃が重い。……ありゃあ手強いぜよ。あの奴隷狩りの中に、もし一人でもあんな獣人が混ざっとったら、わしの結果も違ったものになっとったろうのう」
その率直かつ的確な感想を聞き、レンジの口元が愉快そうに歪んだ。
「ただ見ただけで、彼らの本質と脅威度をそこまで見抜くか」
レンジはそう言うと、近くの武器棚から手頃な木剣を一本掴み取り、躊躇いなく龍馬へと放り投げた。風を切って飛んできたそれを、龍馬は懐から手を抜いて片手で易々と受け止める。
「龍馬。せっかくの機会だ。私と一手、やらんか?」
龍馬は受け取った木剣の重さを確かめるように何度か振り、ニヤリと不敵に笑った。
「望む所じゃ。おまんの剣、ちくと興味があったきな」
二人が訓練場の中央へと進み出ると、周囲で汗を流していた獣人の戦士たちが、ざわめきながら瞬く間に大きな円陣を作った。
レンジが細剣の構えをベースにした、隙のない鋭い上段の構えを取る。対する龍馬は、相変わらずどこか全身の力を抜いた独特の脱力した姿勢のまま、木剣を右肩へ気怠げに担ぐようにして構えた。
その構えのなさに、獣人たちから「おいおい、大丈夫かよあの人間」と囁き声が漏れる。
しかし、次の瞬間だった。
地を爆発させるような踏み込みとともに、二人の距離が一瞬でゼロになる。
激突した木剣同士が、乾いた凄まじい轟音を訓練場へ響かせた。
レンジの剣は速く、そして軍人らしい冷徹な重さがあった。だが、龍馬はその鋭い打ち込みを、紙一重の身のこなしでいなし、流れるような軌道でレンジの隙を突く鋭い返し刀を叩き込んでいく。
「ははっ!おまん、まっことやるのう!」
「お前こそ、その妙な構えからどうしてこれほどの剣が出る!」
獣人たちが驚愕に目を見張る中、レンジはさらに一歩深く踏み込み、その全身から周囲の空気を歪ませるほどの、圧倒的な剣気を放ち始めた。
「……商人の範疇は超えたぞ龍馬。ここで引けば、怪我をせずに済むが?」
向けられた凄まじい威圧感に対して、龍馬の口元がさらに獰猛に吊り上がった。
「――そりゃあ、引けんなぁ!」
龍馬の身体からも、幕末の戦場を生き抜いた凄絶な気が立ち上る。二人が互いの必殺の一撃を放つべく、同時に地面を強く踏み込んだ、まさにその瞬間だった。
カツン。
あまりにも軽やかで、場違いなほど小さな音が響いた。
気付けば、二人が渾身の力を込めて振り下ろしたはずの木剣は、いつの間にか二人の間に割り込んでいた、小柄な犬の獣人の老人によって完全に止められていた。
老人は右手に年季の入った徳利を、左手には並々と酒の注がれたお猪口を持ったままであり、その徳利の底とお猪口の縁だけで、二人の凶悪な剣を完全に封じ込めていたのだ。
「昼間から騒がしいものよ。砂埃が酒に入って敵わんわい」
ガラガラとしたしわがれた声が響く。レンジは即座に木剣を下げ、その場に直立して深く頭を下げた。
「……老師」
「師匠か?」
龍馬が目を丸くして木剣を引くと、老人は不味そうに酒を呷りながら、じろりと龍馬の全身を下から上へと値踏みするように見た。
「なんじゃ。ちぃと変わった御仁だのう。力がまるで馴染んでおらん。それなのに、随分と小器用に使っとる。……お主、一体どんな生まれよ」
龍馬は一瞬だけ言葉に詰まり、沈黙した。己が異世界からやってきた存在であることを見抜かれたのかと警戒したが、老人はすぐに興味を失ったように「ふん」と鼻を鳴らした。
「……まぁ、ええわい」
老人はそう言い残すと、訓練場の端にある木箱へとよろよろと歩いていって腰掛け、また美味そうに酒を飲み始めた。
その圧倒的なまでの強さと、そこからの凄まじい脱力感のギャップに、龍馬は思わず呆気にとられたあと、豪快に笑ってしまった。
その後、その老人の実力に完全に魅了された龍馬は、無謀にも老師へと直接の稽古を願い出た。
――そして、見事に、完膚なきまでに叩きのめされた。
「ぐはっ!!」
赤土の地面へ派手に転がり、泥だらけになって悶絶する龍馬を見て、周囲で見守っていた獣人たちが一斉に腹を抱えて爆笑し始めた。
「ははは! 弱っ! なんだよあの人間!」
「さっきまでのレンジ様と張り合ってた勢いはどこへ行ったんだよ、龍馬ぁ!」
「うるさいわい! おまんら、いっぺんあのジジィの前に立ってみろや!」
龍馬は顔を真っ赤にしながらも、どこか悔しそうに、そして嬉しそうに笑っていた。
レンジは龍馬に近付き「どうだった?」と笑いかける。
「まっこと凄い御仁じゃっ! 確かにそこに姿が見えちゅうのに、わしの剣がどうしても届かん! 間合いが狂うがじゃ。こりゃあ、本物の化け物なぜよ……!」
レンジが笑いながら龍馬に手を貸し、地面から引き起こす。
「ははは、無理もない。老師は若かりし頃、この領内に現れた成竜を一太刀で両断したとも言われている伝説の剣士だからな。私も、かすり傷一つ付けられんさ」
「ほう! あのバカでかいトカゲを一太刀かよ! まっこと、世界は広いきな……!」
その日の夜、レンジの私兵団がたむろする食堂の二階は、地を揺るがすような大宴会の会場へと化していた。
大樽から注がれる強い酒が次々と飛び交い、豪快な笑い声が木造の建物を震わせる。龍馬は獣人たちに囲まれながら、すでに何杯目かも分からないジョッキを片手に、身振り手振りを交えて熱っぽく語り散らしていた。
ガランの地で見た、地平線の彼方まで続く荒れ狂う大海の美しさ。
王都の大神殿を埋め尽くす、あの何万もの巡礼者たちが作り出す人間の圧倒的な熱気。
空に浮かぶという、おとぎ話のような美しい浮遊島の景色。
そして、喰っちゃね寝をするだけの不遜で口の悪い皇帝龍との奇妙な旅の顛末。
獣人たちは酒の勢いも手伝って、時に大爆笑し、時に真剣な目で聞き入り、時折「そんなデカい龍がいるわけねぇだろ!」とツッコミを入れながらも、気付けば全員が、龍馬の紡ぐ物語の虜になっていた。
龍馬は、外の世界を語る時、本当に子供のように楽しそうな目を隠そうとしないのだ。その姿は、閉ざされた軍事都市で生きる獣人たちにとって、見たこともないほど眩しいものだった。
夜も更け、宴の喧騒が静まり返り、戦士たちが次々と床へ就き引き上げた後。
食堂の隅のテーブルには、レンジと龍馬の二人だけが残り、静かに酒を酌み交わしていた。
ランプの灯りが、二人の顔を静かに照らし出す。
「……レンジよ。この街は、ちくと息苦しいのう」
龍馬が、酒杯を見つめながらぽつりと漏らした。
「おまんが言う通り、防衛のために街を閉じる理由はよく分かる。じゃがな……閉じるだけじゃ、人間、なんも見えんよううになるろうが。淀んで、いつか腐っちまうぜよ」
しばらくの間、レンジは沈黙を守り、静かに強い酒を喉へと煽った。
やがて、レンジはグラスをトントンと指先で叩きながら、重い口を開いた。
「……龍馬。お前は“レクセリア”という街を知っているか」
「レクセリア? ああ、ランセルがいつだったか言うちょうたな。なんでも、この大陸で一番賑やかな場所じゃと」
「そうだ。歓楽都市レクセリア。世界中からあらゆる娯楽と刺激、そして欲望を求め、昼夜を問わず人が集まる眠らない街だ」
レンジの瞳の奥に、昼間の剣気とは異なる、熱い情熱の火が灯り始める。
「そしてな、あそこは我が王国内において唯一、入国審査と関税が完全に撤廃された『完全解放都市』でもあるのだ」
「ほう! そりゃまた、とんでもなく豪気な街じゃのう!」
「俺は――そのレクセリアへ向けて、この公爵領から一本の巨大な『街道』を通そうと思っている」
「街道じゃと?」
「そうだ」と、レンジは熱を込めて身を乗り出した。
「このアーデルハイトは閉じる。軍事都市として、防衛上そうせざるを得ない。だが、レクセリアには世界中のすべてがある。そしてそこには、これからの時代を動かす本物の“情報”が満ちているんだ」
「情報、かよ」
「そうだ龍馬! 情報だ!」
レンジは拳を机に叩きつけるようにして言葉を続けた。
「これからの世は、武力や食料の量ではない、情報がすべてを制する! 誰よりも速く、誰よりも多く、確かな情報を手にした者が、他のすべてに先んじるのだ。私はそのために、路が欲しい」
龍馬の目が見開かれた。その胸の奥で、何かが激しく震え始める。
「レンジおまん……そりゃあ、ええ。まっこと、ええ答えじゃ!」
「すでに公爵の許可は取り付けてある。これまでのような、馬車が一台通るのがやっとの細い山道ではない。何百もの軍馬も兵も、そして商人の群れもが一気に駆け抜ける大街道を、私はこの手で作ってみせる!」
その瞬間。
龍馬の脳裏で、かつて王都の検問所で見たあの動かない物流の“淀み”と、目の前の青年が語る熱い言葉が、一本の太い線となって鮮烈に繋がった。
「……街道じゃ。そうか、街道ながじゃ!」
「ん? 急にどうした」
龍馬は勢いよく立ち上がった。その目は、まるでまだ誰も見たことのない新しい新世界の夜明けを目撃したかのように、爛々と輝いていた。
「レンジ! レクセリアだけじゃないがぜよ! 王都も! ガランの海も! ガヤルドの商業街も! このアーデルハイトも! なんもかんも全部、一本の街道で結んでしまうがよ!」
レンジは予想もしなかった壮大な言葉に、思わず目を見開いた。
「全部を……この国の主要都市をすべて、繋ぐというのか?」
「おう!モノも!人も!金も!情報も!どこにも淀ませることなく、この国中をぐるぐると全部流し続けるがじゃ!」
レンジは一瞬呆然としたが、やがてその馬鹿げた、しかしあまりにも痛快な構想のスケールに、腹を抱えて大声で笑い出した。
「ははは! 環状……か! 龍馬、お前……この国を一周する“環状の街道”を作るつもりか! ははは!それは良いな!」
「おおさ! 笑わば笑え!」
龍馬は少年のように拳を強く握り締め、不敵に胸を張った。
「この坂本龍馬、いつか必ずこの国に“環状大街道”を通してみせるがよ!」
レンジは涙を拭いながら、なおも愉快そうに笑い続ける。
「ははは! 最高に馬鹿げている! だがいいな、気に入った! 夢ってやつは、他人に馬鹿だと笑われるくらい大きい方が丁度いい!」
龍馬もまた、釣られるように豪快な笑い声を食堂の天井へと響かせた。
「おまんも噛め!環状大街道じゃ!わし等はこの夢を掴むんじゃ!」
「夢じゃないぞ龍馬!未来だ!俺達が掴むのはこの国の未来だ!」
深夜。二人の男が交わした、途方もない約束と熱い笑い声が、頑なに扉を閉ざした軍事都市の静まり返った夜空へと、どこまでも高く、どこまでも遠く響き渡っていた。




