第三十七話:閉ざされた港の男
王都の賑やかな東門を背にしてから、早いもので数日が経過していた。
馬車の車輪が刻む一定の調べとともに、街道はその表情を変え始めていた。果てしなく続いていた豊かな商業圏の田園風景はいつしか影を潜め、行き交う民間の行商人や旅人の姿も目に見えて減っていく。
代わりに街道を占めるようになったのは、重厚な鉄板で補強された軍用馬車や、抜き身の槍を掲げて甲冑を軋ませる、鋭い眼光の巡回兵たちだった。
道沿いにぽつりぽつりと点在する宿場町もどこか静まり返っており、王都で夜通し響いていたような喧騒はどこにもない。
人々は余計な会話を慎み、ただ黙々と自らの役目を果たしている。
「見えてきましたよ、龍馬さん。あれがアーデルハイト公爵領です」
御者台の横に座るランセルが、前方を指し示した。
現れたその姿は、あまりにも巨大だった。
鈍い灰色の城壁。その頂には無数の見張り塔が立ち並び、風を切って翻る黒と真紅の軍旗が、まるで侵入者を威嚇する猛獣の鬣のように激しく揺れている。それはまさに、外敵を絶対に寄せ付けないという国家の意志を体現した、鉄壁の要塞だった。
さらに視線をその城壁の向こうへと這わせると、遥か遠方の海沿いに、無数の帆柱が見えた。
「……港か」
龍馬は馬車の荷台から身を乗り出し、眩しそうに目を細めた。
だが彼の目は、その壮観な景色の中に潜む奇妙な歪さを一瞬で見抜いていた。それらのマストに掲げられているのは、どれもまったく同じ旗――シルベニア王国軍の軍旗ばかりだったのだ。
「他国の船が、一隻もおらんのう」
ぽつりと漏らした龍馬の呟きに、隣のランセルがどこか硬い苦笑を返した。
「当然です。あそこは商業のための港ではなく、純然たる『軍港』ですからね」
「閉じちゅう、いう話じゃったの」
「ええ。この国の海軍戦力の中枢そのものです。港湾設備、配備された艦隊の規模、そして極秘裏に進められる造船能力――そのすべてが国家機密の塊なんですよ。どこの馬の骨とも知れない外国の商船が入港することなど、許すはずがありません」
「……なるほどのう」
龍馬はそれ以上言葉を重ねず、再び遠い港へと視線を戻した。
海は広い。どこまでも青く、世界の果てまで境界なく繋がっている。それなのに、あの港だけが、まるで世界の流れを拒絶するように頑なに扉を閉じている。その圧倒的な歪さと閉塞感に、龍馬は胸の奥で妙な引っ掛かりを覚えた。
やがて商隊は、公爵領都市へと繋がる大門の前へと到着した。
王都の門にあったような、歴史を誇る豪奢な彫刻や装飾はここには一切ない。代わりにあったのは、一切の無駄を削ぎ落とした機能美と、寄せる者を圧倒する強固な威圧感だけだった。
大門の前では、抜き身の得物を持った武装憲兵たちが並び、入城する者たちに対して厳重極まる検問を行っている。商隊の商人たちは慣れた様子で商業ギルド証を提示し、手際よく荷を開けて中身を確認させていた。
その厳格な手続きの最中、龍馬たちは道中の大森林で捕らえた、あの奴隷狩りの一団を憲兵たちへと引き渡すことにした。
頑丈な縄で数芋繋ぎにされ、地面を引きずられていく男たちを見た憲兵の一人が、下卑た笑みを浮かべて鼻で笑った。
「ほぉ。こりゃまた景気の良い獲物だな。この武装、大森林を根城にしているタチの悪い奴らだろ。よくぞまあ、商人の身上でこれだけの連中を仕留めたもんだ」
「街道で、商人とエルフを攫っちょったきな」
龍馬が何気なく言うと、引き継ぎの書類を書いていた憲兵が「あぁ?」と不機嫌そうに眉を跳ね上げた。
「商人はともかく……エルフぅ?」
「なんじゃ」
「おい、そのエルフはどうした? まさか、逃がしたのか?」
「逃がしたきに連れて来とらん。元いた森へ帰したぜよ」
龍馬が当然のように答えると、周囲にいた憲兵たちが一斉に顔を見合わせ、それから耐えかねたように爆笑を漏らし始めた。
「はっ! 勿体ねぇことをしやがったなぁ、おい! 命がけで奴隷狩りから奪い返しておいて、ただで逃がしただと?」
「これだからおめでたい王都の商人は困る。いいか、若くて上質なエルフなんざ、裏の市場へ流せばそれだけで一財産だぞ? 王都の裏社会じゃあ、それこそ金貨が湯水のように飛ぶんだ」
「じゃが違法だろうが」
龍馬の声が、ふっと低くなった。
だが、憲兵は悪びれる様子もなく、大袈裟に肩を竦めてみせる。
「違法? ハッ、相手はエルフだろ?異種族をどう扱おうが、知ったことじゃねぇよ」
「…………」
ピタリと、場の喧騒が止んだ。
公爵領の大門前に流れる空気が、一瞬にして凍りつく。龍馬の目が獲物を捉える猛禽のように鋭く細くなった――その、まさに一触即発の瞬間だった。
「――貴様、その言葉、もう一度言ってみろ」
背後から響いた、凍てつく刃のような鋭い声が、大門前の空間を両断した。
その場の空気が完全に一変する。先ほどまで下卑た笑いを浮かべていた憲兵たちの顔から一瞬で血の気が引き、弾かれたように振り返ると、慌てて直立不動の姿勢を正した。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
年齢は二十代の半ばほど。身に纏った濃紺の軍用外套の上からでも容易に分かる、鍛え上げられた強靭な体躯。その腰には、数々の実戦を潜り抜けてきたことを物語る、実戦用の小慣れた細剣が静かに収まっている。
だが、それ以上に目を引いたのは、青年の背後に控える武装集団の姿だった。
頭頂部から尖った耳を覗かせる屈強な狼耳の男、しなやかな肢体から虎の尾を覗かせる女戦士、そして岩のように巨大な塊にしか見えない熊の獣人と思しき大男。どいつも一様に、一目で常人を遥かにつのぐ歴戦の気配を濃厚に纏っていた。
通常、人間の軍隊では忌避されがちな獣人たちを、これほど完全に統率しているという事実だけで、この青年の異質さが際立っている。
青年は、冷え切った視線で憲兵たちを無慈悲に見下ろした。
「異種族であれば、我が国の法を踏みにじっても良いと言うのか? その言葉、アーデルハイト公爵家の名の下に、この私が聞き捨てるとでも思ったか」
「れ、レンジ様……!」
憲兵のリーダー格が、ガチガチと奥歯を鳴らしながら名前を呼んだ。
「貴様、それは明白な不敬だぞ」
レンジと呼ばれた青年の声音は静かだった。しかし、そこに込められた怒気は、皮膚を裂くほどの鋭利さを持っていた。
「シルベニア王国法は、この王国に属し、この大地を生きるすべての民へ平等に適用される。貴様ら現場の憲兵の、浅薄な都合と偏見で捻じ曲げて良いものではない。法を侮る者は、国家を侮る者と同義だ」
「し、しかしながら……!我が国の登録市民でもないただの亜人など……」
「黙れ」
低く、地を這うような一言。それだけで、憲兵はまるで喉を刃で突かれたかのように、完全に口を閉ざして震え上がった。
レンジは深く溜息を吐き、吐き捨てるように縄で縛られた奴隷狩りたちを一瞥する。
「この者たちを全員、地下牢へ拘束しろ。単なる行きずりの犯行とは思えん。背後関係、および公爵領内の裏市場との繋がりも徹底的に洗え。抵抗する者は容赦するな」
「はっ! 直ちに!」
憲兵たちが慌てて動き出し、奴隷狩りたちを乱暴に引き立てていく。
その一連の光景を、龍馬は懐に手を突っ込んだまま、微動だにせずじっと見つめていた。
(――面白い男じゃ)
龍馬の胸の内に最初に浮かんだ感想は、純粋な驚きと感心だった。
国を重んじ、法を厳格に重んじている。一見すれば冷酷な軍人のようでありながら、しかしその根底では、現場の腐敗や弱者への理不尽な暴力を決して許さない。
理想だけで空論を語るわけでもなく、現実の利権に塗れて妥協するわけでもない。その、綱渡りのような絶妙な立ち位置を自らの力で維持しているその男に、龍馬は強烈に興味を惹かれていた。
一方で、憲兵たちへの指示を終えたレンジもまた、ゆっくりとその鋭い視線を龍馬へと向けていた。
大森林において、単独でこれほどの規模の奴隷狩り集団を無力化してみせた、謎の行商人。しかも、莫大な利益を生むはずのエルフの身柄を、一銭の得にもならないというのにその場で解放している。どう考えても、ただの欲深い商人であるはずがなかった。
レンジの鷹のように鋭い目が、龍馬の独特な立ち姿、そしてその奥に潜む油断のない重心の置き方を、静かに観察していく。
やがて、レンジはゆっくりと歩み寄り、龍馬の正面で足を止めた。
「……お前が、たった一人で奴隷狩りを止めたという商人か」
低い、芯の通った声だった。
龍馬は怯む風もなく、むしろ楽しそうにニヤリと笑ってみせた。
「おう。なぁに、ちくと成り行きじゃったがの」
レンジは数秒の間、何も言わずに龍馬の目をじっと見つめ返した。その瞳の奥に宿る、決して何者にも縛られない魂を見定めようとするかのように。
レンジは、ほんの僅かにだけ、その硬い口元を緩めた。
「変わった男だな」
その言葉に、龍馬もまた、親しみを込めて肩を竦めてみせる。
「おまんもじゃ」
龍馬とレンジ。これが二人の麒麟児の出会いだった。




