第三十六話:閉ざされた港へ
朝の澄んだ光が、王都商業ギルドが管轄する巨大倉庫区画の石床に、うっすらと長い影を落としていた。見上げるほどの高さを誇る木製の棚が幾重にも整然と並び、世界中から集められた物資の匂いが混ざり合って、独特の熱気を孕んだ空気が満ちている。龍馬たちは、次の目的地である公爵領へ向けた商品の仕入れの真っ最中だった。
しかし、次々にパレットへ運び込まれていく品目を確認していた龍馬は、すぐにその首を傾げた。あらかじめ手渡された買い付けリストと、実際に目の前に積み上がっていく荷との間に、奇妙な違和感を覚えたからだ。
異国の希少な花から抽出された官能的な香りの香水や、金銀の細キセルを思わせる精巧な細工が施された美しい装飾品。
王都の社交界で今まさに流行の最先端にあるという贅を尽くした衣服たち。
さらには、火を灯さずとも手元を暖める魔石を組み込んだ小型の魔道具、光を浴びて万華鏡のように妖しく輝く色鮮やかなガラス工芸、細かな彫金が施され貴金属をふんだんに用いた装身具などなど。
いわゆる嗜好品や贅沢品の類ばかりが倉庫の床を埋めていく。
「のう、ランセル。ちくと聞くが、肉の干物や香辛料、あるいは塩や穀物といったもんは買わんがか? 次に向かうがは、大きな港町じゃろう?」
龍馬は懐に両手を突っ込んだまま、帳簿に素早く羽ペンを走らせているランセルを覗き込んだ。ランセルは視線を帳簿に向けたまま淡々と答える。
「ええ、向かう先は『アーデルハイト公爵領』の首都です。あそこはこの国最大の軍事都市――言わば、鉄壁の城塞都市なんですよ」
「軍隊の街かよ」
「はい。王国海軍の本拠地であり、大陸全土に睨みを利かせる巨大な軍港です。街全体が分厚い二重の外壁で覆われており、安全保障上の理由から、事前の許可のない他国の船は入港すら許されません。徹底した軍需優先の体制が敷かれており、驚くべきことに、兵や民が生きるための食料や基礎物資は、ほぼすべて自領内の農村と豊かな水産業で賄えるようになっています。つまり、完全な食料自給体制が完成しているのです」
ランセルはそこでペンを止め、初めて龍馬に真剣な目を向けた。
「だからこそ、彼らが求めているのは食料ではありません。あの閉ざされた堅牢な都において、何よりも不足しているのは――“外の空気”なのです。王都の流行、異国の贅沢。そういった、張り詰めた軍人や住人たちの心を潤すための嗜好品こそが、最も高値で取引されるのですよ」
「……閉じた港、かや」
龍馬の目が僅かに険しさを帯びて細められた。
海がある。巨大な港がある。それなのに、他国の船を拒み、身内だけで物資を回し、内側に閉じこもっている。
世界と繋がるためであるはずの海を、自ら塞いでいるその在り方に、言語化できない重い違和感が鎌首をもたげた。
翌日、王都の巨大な東門を潜り、彼らは出発した。だが、街道に出てすぐ、ノイルは周囲を見回してその圧倒的な物々しさに声を震わせた。
「おいおいおい……なんですかこの人数。ランセルさん、商売に行くんですよね? これじゃまるで、これから戦争でも始まるみたいですよ!」
今回の商隊は、これまでの旅とは文字通り規模が違っていた。引き締まった肉体と歴戦の傷跡を持つ多数の護衛冒険者をはじめ、お揃いの重装甲に身を包んだ統率の取れた傭兵団、側面を強固な鉄板で補強された頑強な武装馬車の列、そして背中に長弓を背負い、魔力を込めた矢筒を持つ魔道具弓兵たち。
商隊というよりは、一つの小規模な軍隊が移動しているかのような威圧感である。荷馬車の車輪が軋む音さえも、どこか軍靴の足音に似ていた。
「驚くのも無理はありませんね」
並走する馬車の御者台から、ランセルが周囲の林を警戒しながら声を潜める。
「王都とアーデルハイト公爵領を結ぶこの街道は、間違いなく王国最大級の物流路です。ですが、それゆえに問題もある。……この先、街道は広大な『大森林』の縁を掠めるように通っているのです。そこは強力な魔物の巣窟であると同時に、法の目の届かない地帯。国境を越えて暗躍する野盗、生きた人間を拐う奴隷狩り、密輸団。それらが、この豊かな街道を通る獲物を狙って、常に目を光らせています。流通量が多い場所には、必ずそれを食い物にする『悪食』も集まる」
「私達よのうな商人の群れはとくに、ですか」
「この重武装は、目的地にたどり着くための最低限の投資なのですよ」
龍馬は、揺れる馬車の荷台に腰掛け、大森林から吹き付けてくる湿った風を肌に受けながら、静かに周囲の暗い木々を見つめていた。
「流れが大きくなれば、それに群がって私腹を肥やそうとする不届きもんも、当然増えるっちゅうことか……。まっこと、世の理じゃのう」
数日後、商隊は、大森林の深い霧が這い出してくる不気味な山道へと差し掛かっていた。視界は十歩先も見えないほどに白く染まり、周囲の木々は幽霊のように不気味にうごめいている。街道には、耳が痛くなるほどの不穏な静けさが満ちていた。
その時、荷台にいた龍馬の耳が、微かな音を捉えた。龍馬はすっと立ち上がり、御者台のランセルに向けて短く、しかし拒絶を許さないトーンで告げた。
「……ランセル、止めろ」
「え? 龍馬さん、急にどうし――」
ランセルが言いかけるより早く、龍馬の合図を受けた護衛の冒険者たちが足を止めた。連鎖的に、重武装商隊全体がガタガタと音を立てて停止する。静寂が戻った霧の奥から、今度ははっきりと聞こえてきた。ひび割れた、苦痛と絶望に満ちた、人間の悲鳴。それも、一つや二つではない。
「おい、なんだ!? 前方に敵か!?」
前線にいた重装の護衛隊長が、大剣を引き抜きながら駆け戻ってきた。しかし、霧の方向を睨みつけた後、彼は冷淡に吐き捨てた。
「……ちっ、街道の外か。放っておけ。進むぞ」
「おい、待ちや」
龍馬が馬車から飛び降り、隊長の前に立ちはだかった。
「すぐそこで人が襲われゆうがぞ。見捨てるんか?」
「当たり前だ」と、龍馬を睨み返す。
「俺たちの任務は、お前達商人と物資を無事に公爵領へ届けることだ。任務外の揉め事に首を突っ込んで、本隊の護衛に穴を空けるわけにはいかない。霧の出た森の中へ深入りするのは自殺行為だ。それに――」
そう言って視線を森に送る。
「あの手の悲鳴は間違いなく『奴隷狩り』の仕業。奴らは命がけで獲物を狩っているプロだ、戦えばこちらもタダでは済まん。リスクが大きすぎる……見捨てるのが、商隊としての『合理的』な判断だ」
「……一つ聞くがじゃが」と、龍馬は静かに隊長を見据えた。「その、奴隷狩りっちゅうのは、この国の法律で認められちゅうがか?」
「馬鹿を言うな、違法奴隷狩りに決まってるだろう。……だが、証拠も無ければ、役人もいない森の中じゃあ、よくあることだ。諦めろ」
隊長が背を向けようとした、その瞬間。龍馬は何も言わず、自らの荷台から愛刀を手に取り、静かに地面へと降り立った。
「ちょっ、龍馬さん!?」と、ノイルが慌てて叫び、その袖を掴もうとする。ランセルも目を見開いた。「どこへ行くんです、龍馬さん! 隊長の言う通り、ここは我慢を――」
「なぁに、ちぃと、散歩に行くだけじゃ」
龍馬は振り返りもせず、片手を軽く振った。その足取りは軽い。彼の肩のあたりで、姿を隠した皇帝龍がクククと低く笑った。
『くはは! また始まったな、不届き者が。楽しませてくれる』
霧の立ち込める森の奥では、薄汚れた革鎧を纏った十数人の違法奴隷狩り集団が、数人の旅人を地面に組み伏せ、太い縄で縛り上げている最中だった。
捕らえられているのは、行商の途中で襲われたであろう哀れな平民たち。その中に、ひときわ異彩を放つ、見事な銀髪の少女がいた。少女は怯えきっていたが、その佇まいにはどこか人間離れした雰囲気が漂っている。
現場に満ちていたのは、圧倒的な暴力と、それに屈した者たちの怯えと諦めの空気だった。
「ひゃはは! 今回は上玉が揃ったぜ! これを公爵領の裏市場へ流せば、今月は遊んで暮らせる――」
「いやぁ、今月から必死に扱き使われるかも知れんちゃ」
突如として霧の奥から響いた場違いな声に、奴隷狩りたちの動きが止まった。振り返った彼らの目に映ったのは、外套を羽織り、懐に手を突っ込んだまま、のんびりと歩いてくる軽装の男――龍馬の姿だった。
護衛も連れず、ただ一人。
「……あ? なんだテメェ」と、頭領らしき顔に大きな傷のある男が、不快そうに声を荒らげる。「おいおい、道からはぐれたマヌケな旅人か? ひゃはは、わざわざ自分から奴隷になりに来たか、あるいは死にに来たか!」
「マヌケか。そりゃあわしか?おんしゃらか?前におうた連中も、おまんらぁも、そこを間違うがよ」
龍馬が懐から手を抜いた。その瞬間、彼の纏う空気が、陽気な商人から、底の知れない深淵へと一変した。
「なんぼ言うても学ばんきぃの!」
「野郎ども、殺せ!」
頭領の合図とともに、三人の奴隷狩りが一斉に飛び出す。手には鋭く研ぎ澄まされた短剣と斧。だが――次の瞬間、彼らの視界から龍馬の姿が消えた。
「がっ!?」
先頭の男が声を上げた時には、すでに龍馬は男の懐に潜り込んでいた。抜刀すらしていない。鞘に収まったままの愛刀の柄が、男の顎を下から正確に打ち抜く。ガツン、と鈍い音が響き、男は白目を剥いて崩れ落ちた。
間髪入れず、残る二人が左右から武器を振り下ろす。龍馬は紙一重でそれをかわすと、すれ違いざまに、繰り出された斧の木柄を、鞘の先端でピンポイントに叩き折った。武器を破壊された男が唖然とする間も無く、龍馬の容赦のない足払いがその足首を捉える。凄まじい勢いで地面に叩きつけられた男は、息を詰まらせて気絶した。
「な、なんだあいつは!? 魔法か!?」
あわてて残りの連中が武器を構え直すが、龍馬の動きは文字通り次元が違っていた。重要なのは、これほどの速度と威力を誇りながら、一人も殺していないということだった。
一瞬で間合いを潰し、武器だけを正確に叩き折る。関節を極めて骨を折ることなく瞬時に無力化し、強烈に地面へ叩き伏せる。首筋を的確に捉えて気絶させ、完全に、しかし命を奪うことなく制圧していく。それは、凄惨な人斬りの身のこなしでありながら、明確な不殺の意志に縛られた、矛盾の武だった。
あまりの騒ぎに、心配して森の奥へ追ってきた商隊の護衛冒険者たちや隊長が、草むらを分けて現場にたどり着いた時――彼らが見たのは、異様な光景だった。
「……おい、嘘だろ……」
隊長の手から、大剣が滑り落ちそうになる。わずか数十秒の間に、十数人の凶悪な奴隷狩り集団が、一人残らず地面に転がり、悶絶するか気絶していたのだ。立っているのは、刀を一度も抜くことなく、静かに鞘を肩に担いだ龍馬ただ一人。
皇帝龍が、龍馬の脳内で満足げに鳴いた。
『ほう。しばらく刀を握らぬかと思うたが、少しは身体の鈍りが取れたようだな』
龍馬は、最後に残った奴隷狩りの頭領の胸ぐらを掴み上げ、地面へと容赦なく叩き伏せた。臨戦態勢のまま硬直する護衛冒険者たちの視線を背中に浴びながら、龍馬は怯えきった頭領の目を正面から見据え、静かに、しかし地響きのような声で言い放った。
「おまん等のお株を取ってすまんが、おまん等がわしの今日の商いじゃきに」
奴隷狩りたちは護衛の冒険者たちによって手際よく縛り上げられ、捕らえられていた人々は次々と解放されていった。龍馬は、縄を切られた人々が涙を流して感謝するのを「ええって、ええって」と照れくさそうに手を振ってあしらっていたが、ふと、木陰でうずくまったまま動かない、あの銀髪の少女の前に歩み寄った。
間近で見ると、少女の美貌は異様なほどだった。透き通るような白磁の肌に、エメラルドのように深い輝きを湛えた瞳。少女は怯えたように、深く被っていたフードをさらに引っ張ろうとしたが、その拍子に、頭を覆っていた布がするりと後ろへ滑り落ちた。
夕暮れの木漏れ日を浴びて輝く、見事な銀の髪。そして、その髪の間から覗いていたのは、天に向かってすっと伸びた、人間よりも明らかに長い――耳だった。
人間離れした美しさを持つ種族、エルフの少女が、そこに現れたのだ。
龍馬は、数秒間、完全に固まった。
「…………」
あまりにも熱烈な熱を孕んだ視線。
少女は、この圧倒的な強さを持つ男が、自分を新たな獲物として冷酷に値踏みしているのではないかと恐怖し、不安そうに身体を縮めて後ずさる。周囲の冒険者たちも、エルフという希少な種族の登場に、一気に緊張の糸を張り詰めた。
誰もが固唾を飲んで龍馬の次の行動を待つ中、龍馬は突如、勢いよく彼女の顔を指差して、大声で叫んだ。
「おまん!! 耳長いのう!!」
一瞬、森全体の時間が止まった。風の音さえ消え失せ、あまりの言葉の締まりの無さに、その場にいた全員のズッコケる気配が霧を震わせた。
「おい、そこかよ!?」と、隊長が派手にズッコケて頭を抱えた。「エルフだよ、エルフ! もっと他に言うことあるだろ、この台無し男!」
「……龍馬さん」と、ランセルは深々とおでこを押さえ、天を見上げて重いため息をつく。「あなたという人は……」
懐の中では、皇帝龍が腹を抱えて笑っていた。
『くはははは! 傑作なり! 貴様は本当に天才だな!』
指を差された当の銀髪の少女は、完全に呆気にとられて、美しい目を丸くしたまま、ぽかんと口を開けていた。恐怖も、絶望も、諦めも、龍馬のあまりにも間抜けで真っ直ぐな一言の前に、綺麗さっぱり消し飛んでしまっていた。
少女は龍馬の顔と、自分の長い耳を交互に見つめ――やがて、我慢しきれなくなったように、その小さな口元を綻ばせ、クスリと、初めて小さく笑った。




