第三十二話:海の匂い
港湾都市ガランの夜は、それまで滞在していた内陸の交易都市ガルガドとは、まるで違っていた。
遠くの酒場からは、荒くれ者の船乗りたちが浴びる酒の匂いと、地鳴りのような怒鳴り声、そして下品な笑い声。港町特有の、荒々しくも生命力に満ちた、どこか危険な空気が街全体を重く包み込んでいた。
だが――。
「……か、硬っ……」
薄暗い部屋の片隅で、ノイルが寝返りを打ちながら顔をしかめた。
三人が今夜の宿として転がり込んだのは、港近くにある一泊銀貨数枚の安宿だった。
四畳半ほどの狭い部屋。隣の部屋の話し声が筒抜けになるほどの薄い壁。湿気をたっぷりと吸ってずっしりと重い藁布団。潮風に晒され続けた柱や床は一歩歩くたびにギィギィと甲高く軋み、建付けの悪い窓の隙間からは、容赦なく冷たい海風が吹き込んでくる。
「寺田屋の寝床に慣れたら、こりゃあ少々堪えるのう」
「ですよねぇ……。あのふかふかの布団と、美味い飯が恋しいですよ、まったく」
ノイルは心底疲れた顔で枕を叩き、恨めしそうにランセルを見た。
「なぁランセルさん。このガランってのは伯爵様が治める大都市なんだろ? なのに、何でこの街には、テラダ屋みたいな『まともな宿』が一軒もねぇんだよ」
その言葉に、部屋の隅で静かに明日の帳簿と荷物の整理をしていたランセルが、ペンを止めて首を振った。
「『テラダ屋』みたいな宿は王都にも無いんですけどね。だいたい、上等な宿が作られないのには、それなりの理由があるのです」
「なんでじゃ?」
龍馬が、がさりと身を起こし、興味深そうにランセルを促す。
「ガルガドとこのガランでは、そもそも集まる客層が根本から違います」
ランセルは視線を窓の外、遠くに見える領主館の灯りへと向けた。
「この街を訪れる貴族や使節は、その大半がガラン伯爵家に直接招かれた客です。つまり、彼らは全員、あの豪華な領主館の客間に泊まる。また、有数の豪商も他国の大商人も、直接この街を訪れる事はありません。用があれば使いを送るだけです」
「ここでは大っきな取引は無い言うことか」
「その通りです。そして、それ以外の商人の多くは、我々のような行商人、あるいは命懸けで海を渡ってきた船乗りたちです。彼らは、宿に余計な金を使いません。海が荒れれば数日足止めを食らう。その間、ただ身体を休める寝床と、雨風をしのぐ屋根。それだけあれば十分だと考える。だから、宿の主人たちもそれ以上の設備投資をしないのです」
ノイルが自分の下に敷かれたペったんこの藁布団を叩き、露骨に顔をしかめる。
「でもよぉ……これが『十分』か? 疲れが取れるどころか、身体中が痛えよ」
「それでも雨風は凌げます。我々行商人にはありがたいんですよ、これでも」
ランセルの理路整然とした説明を聞きながら、龍馬はしばらく顎をさすって黙り込んでいた。だが、やがてフフッと小さく、不敵な笑みを漏らした。
「……龍馬さん?」
ランセルが不審そうに眉をひそめる。
「いや」
龍馬はニヤリと笑ったまま、再びゴロリと布団へ寝転がった。
「まだ、この街には“足りん”っちゅう事じゃろ」
翌朝。
ガランの市場は、夜明けの鐘が鳴り響くと同時に、凄まじい熱気に包まれていた。
「おい! そっちの生長を早く運べ!」
「こっちの競りは終わったぞ! 早く引け!」
飛び交う粗野な怒号。威勢のいい競り声。むっと立ち上る魚介の匂い。空を舞う無数の海藻や魚を狙う海鳥の喧しい鳴き声。
港から引き揚げられた大量の海産物が、次々と大八車に載せられ、加工場や市場へと運び込まれていく。
「ほぉぉぉ……!」
龍馬は目を輝かせ、人混みの中で立ち止まった。
「こりゃあ凄いのう! 土佐の鰹の競りにも負けん活気じゃ!」
「龍馬さん、感心して立ち止まると荷運びの邪魔になりますよ! 前を見て歩いてください!」
ランセルが苦笑しながら、龍馬の着物の袖を引っ張る。
三人は、ガルガドへの帰路、そしてその先の旅を見据えて、日持ちのする干物、魚の燻製、塩漬けの樽、乾燥海藻などを次々と買い付けていった。
龍馬は、購入した干物を荷馬車の木箱に詰め込む作業を手伝いながら、ふと首を傾げた。
「じゃがランセル、こんだけ大量の魚をぎゅうぎゅうに積んだら、王都に着くまでもたんじゃろ? 陸路の旅は日数がかかるぜよ」
ランセルが買いだした生魚を不思議に思う。
「ふふ、そのための準備は怠りませんよ」
ランセルが荷物の中から取り出したのは、淡い青色の幾何学的な紋様が細かく織り込まれた、不思議な手触りの厚手の布だった。
「この布で魚を包むのです。これには『鮮度維持』の魔術式が組み込まれておりましてね。内部の温度変化と湿気をある程度一定に抑えてくれる、行商人御用達の魔道具ですよ」
「ほぉぉぉ……!」
龍馬は感心したように、その布の紋様を何度も指先で撫でた。
「毎度毎度、この世界の魔道具っちゅうモンはまっことに便利で、面白い」
「……それほど珍しい物でも無いのですがね? 行商人なら、多少無理をしてでも一枚は持っているものです」
ランセルは不思議そうに肩を竦めた。
「龍馬さんは、時折、我々にとっての当たり前の物に変な感心をしますね
「ん~。わしゃ、知らんことばかりじゃきな」
龍馬は市場の喧騒を見回しながら豪快に笑う。
「じゃが、それが楽しいがよ。知らんことを知り、見んこと無いもんを見る。これ以上の贅沢があるかえ」
ランセルは呆れたように、しかしどこか嬉しそうに少しだけ吹き出した。
「……まぁ、深くは聞きませんがね」
「ははは、そうしてくれ!」
昼過ぎ。
昨日、港の揉め事で外国人船長から二束三文で買い叩いた、海水被害を受けた織物。それを、ガランの専用乾燥設備を持つ工房に預け、潮抜きと乾燥を依頼していたソレを受け取りに来たのだ。
「なるほど、確かに意外と損傷は少ないですね」
ランセルが、職人が広げた布地を指で弾き、品質を確認する。
「まぁ、元が上質な絹織物だし、潮に濡れた程度じゃろうからな。これなら十分に売り物になるぜ」
ノイルもほっとしたように胸を撫で下ろした。
「ただ潮に濡れただけでゴミにするなど、まっこと勿体ない」
「それを黙って売られる事の方が怖いですからね」
「ま、そのおかげで良え物が手に入ったきの」
龍馬は仕上がった美しい異国の布を一枚、満足そうに自分の肩に掛けながら笑った。
その時、ランセルが、ふと龍馬の着ている独特な着流しへ視線を向けた。
「……そう言えば、龍馬さん」
「ん?」
「その、龍馬さんの衣装。昨日からその異国の織物を見ていて思ったのですが……どこか、遠い東方由来の衣服に似ていますね」
「ほう?」
ランセルは顎に手を当て、龍馬の胸元や帯の結び目を観察する。
「西方諸国の仕立てとも違いますし、我がシルベニア王国の伝統的な様式とも違う。独特の構造ですが、以前、東方の海洋国家から来たという旅商人が着ていたのを思い出し堪してね。龍馬さんは、もしやその東方の……」
龍馬は一瞬だけ、窓の外の遠い空、自分がかつて駆け抜けた、日本の、土佐の、そして京の空を思い描くように見上げ――そして、すぐにいつもの屈託のない笑顔に戻って笑った。
「ははは!」
その笑い声は、どこか遠くを懐かしむような、深い哀愁を孕んでいた。
「まぁ、そんなことはええろうさ」
龍馬は軽く肩を竦め、肩の布を荷箱へと片付けた。
「過去がどうあれ、どこから来ようが、わしは、わしじゃき。今のわしを見てくれれば、それでええがよ」
ランセルは少しだけ目を細め、龍馬の横顔を見つめたが、それ以上は何も聞かなかった。
翌朝。
夜明け前の薄暗い空気の中、商団の荷馬車は再び街道へと並び始めていた。
次なる目的地は、この国の心臓部――王都。
荷馬車へ積荷のロープをがっちりと固定しながら、ノイルがふうと白い息を吐き出して呟いた。
「まったく慌ただしいですね。もっと海を楽しみたかったですけどね」
「何を言うちょる。わしらの行商はこれからじゃろう。またなんぼでも来ることになるがよ!気張るぞ、ノイル!」
龍馬はそう言ってノイルの背中をパシコーンと叩くと、ふと足を止め、ゆっくりと振り返った。
そこには、朝日に照らされ始めた港湾都市ガランの全景が広がっていた。
朝の光を浴びて輝く白い石造りの街並み。港に整然と、しかしガチガチの規則に縛られて並ぶ無数の木造帆船とガレー船。そして、その向こう側に、どこまでも、どこまでも果てなく広がる青い海。
この世界の海は、まだあまりにも狭く、不自由で、リスクという名の鎖に繋がれている。
だが、だからこそ。
龍馬は、静かに、だが確信に満ちた笑みを浮かべた。
「また来るきなぁ」
吹き抜けた強い潮風が、龍馬の黒髪を激しく揺らす。
その瞳には、世界の誰もが「不可能だ」と諦めている、リスクを、国境を、そして文化の壁すらも飛び越えて、縦横無尽に船が行き交う“未来の新しい港”の景色が、確かに映っていた。
「龍馬さん! 出発しますよ!」
前方の馬車からランセルの呼ぶ声が響く。
龍馬は大きく手を振り、力強い足取りで馬車へと駆け出した。
「おう! 次は王都じゃ!」




