第三十話:海の都ガラン
交易都市ガルガドを出発した商団は、緩やかな丘陵地帯を縫うように延びる街道を、ひたすら南へと下っていた。
前後に目を向ければ、同じく港湾都市ガランを目指す行商人たちの馬車が長い列を連ね、その周囲を、剣や槍を携えた護衛の冒険者たちが鋭い視線で警戒しながら歩いている。
初めての本格的な行商の旅。荷台に腰掛ける坂本龍馬の顔に、不安の色は微塵もなかった。
「ほぉ……ほうほう」
「なんでも珍しそうに見ますね、龍馬さん」
荷台の前方で手綱を握るランセルが、前を向いたまま、少し呆れたように、しかし温かみのある声で笑った。
「当たり前じゃろ。ランセル、わしゃあ今、“世界”の上を走りゆうがぜよ」
龍馬は大きく息を吸い込み、どこまでも続く街道の先へと視線を向けた。
その言葉を聞いたランセルは、少しだけ目を細めた。
やはり、この男は不思議だ、とランセルは思う。
普通の商人は、旅に出れば「この荷がいくらで売れるか」「どれだけの利益が出るか」という数字ばかりを気にするものだ。だが、坂本龍馬という男が見ているのは、その先にある“人の流れ”であり、“世界そのもの”の広がりだった。
「そういえば」
龍馬は荷台の隅に寄りかかり、思い出したように口を開いた。
「ベルノから、色々とおもろい話を聞いたがよ」
「ベルノ……あのガーグファミリーの幹部ですか?」
ランセルが怪訝そうに眉をひそめる。裏社会の大物と酒を酌み交わすなど、普通の人なら生きた心地がしないはずだが、龍馬にとっては「面白い飲み仲間」の一人に過ぎないらしい。
「おう。あいつぁ、まっこと広い世界を知っちゅう。例えば、最北の国家『ノルディア連邦』じゃあ、年中解けん雪の中で、特別な酒を造りゆうらしいのう」
「雪酒ですね。寒冷な気候を活かした銘酒で、王都の貴族にもファンが多い、非常に高価なものです」
「それだけじゃないぜよ。南の砂漠国家『サルハザード』にゃあ、とんでもなく芳醇で、心臓が跳ねるような香辛料があるとか」
「あちらの希少な香辛料は、文字通り『金と同じ重さ』で取引される物すらあります」
「それに、海の向こうの『ヴァルディス諸島』では、光の当たり方で七色に色を変える、極彩色の美しい布があるっちゅう話じゃ」
ランセルは驚きを隠せず、思わず龍馬を振り返った。
「……随分と、深いところまで詳しく聞きましたね。行商人でもそこまで正確に把握している者は少ないですよ」
「何、酒を酌み交わしながらじゃ。あいつも楽しそうに話しよったき」
龍馬はからりと笑い、どこまでも高い青空を見上げた。
「わしゃあ、まだこの国の事もろくに知らん。じゃが――」
その瞳が、遥か彼方の地平線を見つめる。
「世界は、まっこと広いのう」
その言葉を聞いたランセルは、しばらく黙り込んだ。龍馬の瞳の奥にある、底知れない器の大きさに、胸を打たれたのだ。
彼は深く息を吐くと、荷台の奥へと手を伸ばした。
「…………では、せっかくですから、お見せしましょうか」
「ん? なんじゃ?」
「世界、ですよ」
ランセルが取り出したのは、何重にも厳重に保管され、丁寧に丸められた古い羊皮紙だった。それを卓の代わりに荷台の上で広げた瞬間、龍馬は思わず息を呑んだ。
「おお……!」
そこに描かれていたのは、圧倒的なスケールで描かれた『地図』だった。
自分たちがいる王国、隣接する帝国、最北のノルディア連邦、広大な南方国家サルハザード、点在する海洋国家群、そして人間を寄せ付けぬエルフの大森林――。そのすべてを囲うように、見たこともないほど広大な大海原が描かれている。
「これが……この世界かよ……!」
龍馬の声が、微かに震えていた。これほど具体的な「世界の形」を見たのは初めてだった。
「もっとも、完全な世界地図など、この世に存在しませんがね」
「そうながか?」
「ええ。国ごとに都合の良いように書き換えられますし、測量技術も異なります。何より、魔物が巣食う未踏領域があまりにも多い。これは、西方大陸系の商人たちが命がけで繋いだ情報をまとめた地図です。比較的正確だと言われています」
「西方大陸……」
「世界はもっと広いんですよ、龍馬さん。我々が今向かっているガランすら、この地図のほんの小さな一点に過ぎません」
龍馬は言葉を失い、ただじっと地図を見つめていた。それは、彼にとって単なる地理の縮図ではなく、これから自分が切り拓くべき“宝の地図”そのものだった。
その夜。商団は街道脇の小高い丘に馬車を止め、円陣を組んで野営を行っていた。
中央でパチパチと音を立てて焚火の火が揺れ、夜の闇を照らしている。周囲では、交代制の見張りの冒険者たちが、武器を手に静かに巡回していた。
龍馬が静かに火の番をしていると、気配もなくランセルが隣へと腰を下ろした。
「龍馬さん」
「なんぜ、ランセル」
「少し、手を出してください」
ランセルは懐から、手のひらに収まるほどの小さな革袋を取り出した。一見すると、旅人が財貨を入れるような、どこにでもある革袋だ。だが、ランセルの表情は、かつてないほど真剣だった。
「……この袋に、あなたの血を、一滴垂らしてください」
「なんじゃ? 急に物騒な真似を言うのう」
「魔道具です」
ランセルの短い言葉に、龍馬の眉がピクリと動いた。
「刃物で切っても破れない。火に投げ込んでも燃えない。そして何より――『魔力と血で登録した本人』にしか、決して開けることができない袋です」
「ほぉ、そりゃあ大層な優れものじゃ」
「行商人にとって、命の次に大事な物です。我々は大金や、極秘の契約書を持ち歩きますからね。だからこそ、腕のある商人は皆、この手の魔道具に金を惜しまない。……実は、この袋には既に私の血が登録されています。ですので、龍馬さん、あなたにも登録していただきたい」
龍馬は深く頷き、小刀に手を伸ばした。だが、ランセルが次に紡いだ言葉に、動きを止める。
「そして――この袋に登録するのは、私と龍馬さん、あなただけです」
「……ノイルはどうするが? あいつも、わしらの大事な仲間じゃろう」
「登録しません」
ランセルの声は、冷徹なまでに強かった。焚火の赤い光が、彼の横顔を鋭く照らし出す。
「……龍馬さん。行商人から、その全財産を奪うのは、実はとても簡単なことなんです」
ランセルは声を潜め、地の底に響くようなトーンで言った。
「登録された魔道具が開かないなら、開けられる『本人ごと攫えばいい』。あるいは、手足を一本ずつ切り落としながら、開けるように脅せばいい」
龍馬の表情から、いつもの緩さが消えた。
「つまり、この袋の鍵を持っているというだけで、命を狙われる対象になるのです。……私は、その覚悟をとうに決めています。そして龍馬さん、あなたにも、これからその覚悟を背負ってもらう。ですが――」
ランセルは焚火の炎を見つめ、静かに、だが断固とした口調で言った。
「ノイルさんにまで、その命のリスクを強制するべきではありません」
重い沈黙が、二人の間に落ちた。薪が爆ぜる音だけが響く。
やがて、龍馬は深く息を吐き、静かに、しかし力強く頷いた。
「……わかった。おんしの言う通りじゃ」
その声には、宿屋の主人から「商人の頭」へと変わる明確な覚悟が宿っていた。
「この袋の重みは、わしとおんし、二人で背負う」
龍馬は小刀の刃先で己の指先を浅く切り、赤い血を一滴、革袋の口へと落とした。
じわり、と血が染み込んだ瞬間、淡い魔力の光が袋の口紐を走り、スッと消えた。
それを見つめながら、龍馬は胸に刻み込んでいた。商いとは、夢やロマンだけで進めるものではない。常に隣り合わせの死と、命懸けの覚悟を抱えて進むものなのだと。
翌日。
太陽が天高く昇り、昼前になった頃だった。
商団の先頭を歩き、周囲を警戒していた冒険者の一人が、突然、狂喜に満ちた大声を張り上げた。
「見えたぞーー!!」
その声を合図に、疲れの見え始めていた商団の空気が一気に沸き立った。
龍馬は荷台の上から勢いよく立ち上がって、前方の視界が開けた丘の先を凝視した。
そして――龍馬は、完全に息を呑んだ。
遥か彼方、視界のすべてを埋め尽くすように広がっていたのは、陽光を反射してキラキラと眩しく輝く、圧倒的な「青」だった。
どこまでも、どこまでも続く、遮るもののない大海原。
その手前の湾岸には、白い石造りの建物がびっしりと密集する、ガルガドをも凌ぐ巨大な港町が広がっていた。
港には、天を突くような無数のマストを持った帆船がひしめき合い、職人たちの作業場からは幾筋もの煙が立ち上っている。遠目からでも分かる、人々の飛び交う怒号と活気。
潮の香りをたっぷりと含んだ強い風が、龍馬の頬を強く打つ。
「おお……」
ノイルが馬の手綱を握ったまま、呆然と口を開けて呟いた。
「海……これが海かあ。いったいどこまで続いてるんだ……」
龍馬は、その壮大な光景を見つめながら、じわじわと込み上げる熱い感情を抑えきれず、ゆっくりと、深く笑った。
「帰って来たぜよ、海の都」
その瞳には、かつてないほどの興奮と、世界を相手にする期待の炎が激しく燃え盛っていた。
「前はただの旅人じゃったが……今度は商人じゃ!よろしゅう頼むぜよ!」




