第二十九話:旅立つ商い
夜明け前の交易都市ガルガドは、まだ深い静寂の中にあった。
石畳を一台の荷馬車が静かに、規則正しい車輪の音を響かせながらゆっくりと進んでいた。
荷台に積まれているのは、ずっしりとした重みを感じさせる灰色の毛皮の束だ。この世界の荒野に生息する魔狼の毛皮。海風が強く冷え込みの厳しい港湾都市ガランにおいては、常に安定した需要が見込める一級品だった。
「ほう……これが、わしらの最初の商いになるがか」
馬車の横を歩きながら、龍馬は感心したように荷台を見上げて唸った。
荷台の縄をきつく締め直していたランセルが、作業の手を止めずに小さく頷く。
「空荷で向かうよりは遥かに良いでしょう。ガラン領なら確実に捌けます。旅の始まりには、奇をてらったものよりも“確実に売れる物”を持っていくのが基本ですから」
その言葉に、龍馬はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「なるほどのう。商いにも“足場固め”があるっちゅう事か」
「最初から一攫千金を狙って大儲けを狙うより、“次も行ける”確実性を作る事の方が、行商人にとっては遥かに重要なのです」
長年、厳しい行商の世界を生き抜いてきたランセルの言葉には、確かな実感がこもっていた。
その横では、ノイルが白い息を吐きながら、馬の様子を熱心に観察していた。
「しかし、ええ馬じゃのう」
「はい。足腰が引き締まってるし、気性も落ち着いてます」
龍馬が栗毛の馬の首筋を優しく撫でると、馬は気持ち良さそうに低く鼻を鳴らした。
「へへっ。カワイイでしょう? 旦那――」
「ノイルさん」
言いかけたノイルの言葉を、ランセルが静かに遮った。
「え? あ、なんです、ランセルさん」
「その“旦那”という呼び方は、道中では控えましょう」
ランセルは、周囲の薄暗い路地に鋭い視線を走らせながら理由を告げた。
「その呼び方をしてしまうと、周囲に対して“誰がこの荷馬車の本当の主か”を明確に教えてしまうことになります」
「あ……」
「商人は、商品と同時に大金を運びます。つまり、常に悪党から狙われる存在です。どこで誰が聞き耳を立てているか分からない以上、余計な情報は一切出さない方が良い。旅の間、主従や責任者の所在を曖昧にしておくのは、商人の基本的な防犯対策なのです」
龍馬は「ほぉ」と深く感心したように目を細めた。
「もちろん、我々も交代で見張りには就きます。ですが念には念を、です」
「なるほどのう。そりゃ大事な知恵じゃ」
ノイルは慌てて頭を掻いた。
「じゃあ……これからは、龍馬さん、で?」
「そりゃあええのう。行商人としても御者としてもわしは素人じゃき。おまん等ぁわしの先生じゃ。気安ぅいこうや」
龍馬は快活に笑い、再び歩みを進めた。
やがて三人は、ガルガドの街の大門前に広がる石畳の広場へと辿り着いた。
そこには既に、出発を待つ数台の荷馬車と、十数人の行商人たちが集まっていた。彼らの周囲では、剣や槍を提げた冒険者たちが、眠たげな顔をこすりながら荷物の固定具合を確認している。
龍馬は不思議そうにあたりを見回した。
「ほう? 皆おんなじ方向に行くがか?」
「ええ」とランセルが答える。「ガラン方面へ向かう行商人で『商団』を組むんですよ」
「商団?」
「個人商人同士の寄り合い、いわば即席の共同体です。目的は一つ、護衛費用の節約ですね」
龍馬はなるほどと目を丸くした。
「護衛無しで都市間を移動するのは自殺行為です。野盗、狂暴な魔物、あるいは流れの犯罪者……街道に何が出るか分かりませんから。ですが、大商会のように専属の私兵や高級冒険者を丸抱えする財力は、我々のような個人商人にはありません。だから、同じ行先の者同士で資金を出し合い、複数の護衛をまとめて雇って共に動くのです」
ランセルは護衛の冒険者たちへ視線を向けながら、言葉を続けた。
「一人では雇えない腕利きの冒険者も、十人で金を出し合えば雇える。生き残るための知恵ですよ」
「なるほどのう。まっこと、商人の知恵には感心するぜよ」
しばらくして、出発の準備が整うのを待つ間、ランセルが改めて龍馬の前に立ち、真剣な顔で向き直った。
「龍馬さん。出発する前に、一つだけ確認しておきたい事があります」
「なんぜ、改まって」
「行商という商いには、大きく分けて二つの方向性があるのです」
龍馬は興味深そうに頷き、ランセルの言葉を促した。
「一つは、大きな都市や有力な商会を相手に、売買を繋いでいく商い。そしてもう一つは、行商人でなければ物資が行き届かないような、辺境の村落や小さな集落へ命がけで物を運ぶ行商です。……龍馬さんは、どちらを目指していますか?」
ランセルは、龍馬が「すべての弱き者を救う」というような、理想主義的な答えを返すのではないかと、ほんの少しの懸念を抱いていた。龍馬の器の大きさは聞いている。だが、商売において理想の肥大化は命取りになるからだ。
しかし、龍馬は少しだけ顎をさすって考えた後、即座に答えた。
「都市や商会を相手に繋ぐ方じゃな」
ランセルが静かにその理由を待つ。
「わし等の手は、まだそんなに長くないき」
龍馬は愛馬の背をポンと叩いた。
「今はまず、この世界の“流れ”を掴む方が先じゃ。国中の遠くの村全部を相手にするにゃ、わし等はまだ小さすぎるし、だいたいそいつぁ御上の仕事じゃ。わし等はわし等の流れを作って、わしら自身が強くならんといかんきな」
ランセルは深く息を吐き、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
その目に、確かな安堵と信頼の光が宿る。
坂本龍馬という男は、とてつもなく大きな夢を見る。だが同時に、自分たちの現実的な限界と、今踏むべき地盤を冷徹に見極める目を持っている。それがランセルには、何より心強かった。
「では――行きましょう」
ランセルが商団の集まりの方へと歩き出すと、数人の年配の行商人たちがこちらに気づき、声をかけてきた。
「おう、ランセルじゃないか! 今回は随分と若い顔ぶれを連れてるな」
「お前がまた行商に復帰したって聞いた時は驚いたぜ。そっちの連中が新しい相棒かい?」
ランセルは苦笑しながら、龍馬とノイルを紹介した。
「ええ。縁が有って一緒に行商をする事になりました。こちらは坂本龍馬さん。今回は初の行商ということで、私が案内役を務めております」
龍馬は気さくに片手を上げ、周囲の商人と護衛たちを見回した。
「坂本龍馬っちゅうもんじゃ。ランセルの言う通り、ガルガドで宿屋をやっちゅう。行商の経験はこれからじゃが、道中、足手まといにならんよう踏ん張るき、よろしく頼むぜよ!」
その瞬間だった。
商団の荷馬車の陰で剣の、手入れをしていた護衛役の冒険者の一人が、ガタリと音を立てて立ち上がり、目を見開いた。
「……宿屋? サカモト……って、おい、まさか」
その声につられるように、隣にいた別の冒険者も声を張り上げる。
「おい! 『テラダ屋』の主人か!?」
広場の空気が一瞬で引き締まり、周囲にいた冒険者たちが一斉にざわつき始めた。
「あそこか!?」
「マジかよ。なんでまた荷馬車なんかに?」
「あの常設依頼の!?」
龍馬は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに頭を掻いて豪快に笑った。
「おっ、おまんらぁ、わしの宿のことを知っちゅうがかよ。まぁ、そういう宿をやりゆう頼りない主じゃ」
冒険者の一人がニヤリと不敵に笑い、腰の剣を叩いた。
「ははは!今回の旅は面白くなりそうだな。おいお前ら、テラダ屋の旦那の馬車だ! 何があっても死守するぞ!」
「はっはっは! 美味い飯の仕込みはクインに教わっちゅうきな!皆に振る舞っちゃるき、楽しみにしちょけ」
広場にどっと温かい笑い声が広がった。
やがて、地平線の彼方から昇った朝日が、ゆっくりとガルガドの巨大な街門を黄金色に照らし始める。
「出発するぞー!」という商団の長の号令と共に、荷馬車が次々と軋みを上げ、列をなしてガルガドの大門を出て行った。




