第二十八話:流れを運ぶ者
商業ギルド・ガルガド支店の朝は早い。大気にはまだ夜の冷気が残り、石畳の道にはうっすらと朝靄が立ち込めている。
開店の鐘が鳴り響くと同時、重厚なオークの扉が、勢いよく内側へと弾け飛んだ。
「行商をするんに許可はいるんかのう!」
割れんばかりの声と共に飛び込んできたのは、独特の着流しをはためかせた男――坂本龍馬だった。寝癖のついた癖毛を豪快に揺らし、懐に手を突っ込んだまま受付カウンターへと大股で歩み寄る。
カウンターの奥で書類をめくっていた受付嬢は、その声を聞いた瞬間に手を止め、露骨に顔を引きつらせた。
「……また貴方ですか、坂本さん」
「なんぜぇ、その“また来た”みたいな顔は」
龍馬は悪びれる様子もなく、白い歯を見せて笑った。
「実際そうでしょう。今度は何を始めるんです? 宿屋の次は、道具屋の規定でも引っかき回すおつもりですか」
「人聞きが悪いちや。わしゃあ至って真っ当な相談をしに来たがよ」
龍馬はドン、と胸を張った。
「行商じゃ!」
「…………は? 宿屋の大家はどうしたんです」
「大家をしながら行商するがよ。何か不都合でもあるかのう?」
「意味が分かりません」
受付嬢は両手で頭を抱えた。この男の行動力には、ガルガドの冷徹な商業論理がまるで通用しない。
だが、頭を痛めながらも彼女は事務の手を抜かなかった。ため息混じりに、羊皮紙の分厚い台帳を開く。
「……いいですか。この大陸で許可なく都市間を移動して商売を行えば、密輸組織と同等に扱われます。ですが、我が商業ギルドに正式登録された商人になれば、各領地を跨ぐ際の入領税が大幅に軽減、あるいは免除される特権が与えられます」
「ほうほう、それは有り難い。王都なんかはどうじゃ?」
「王都も同様でし。完全免除とはいきませんが、それでも本来の半額以下という、大幅な優遇が受けられます。この資格がなければ、街道を行き来するだけで路銀が消え失せますよ」
受付嬢は、羽ペンをトントンと机に叩きつけながら条件を告げた。
「登録料は、個人なら年間で銀貨十枚です」
「ほう、一人につき銀貨十枚か。なかなかの値じゃな」
一食を銅貨5枚そこらで済ませる市井の感覚からすれば、決して安い投資ではない。
「ええ。ですが、もし複数の人間を率いるのであれば『屋号登録』をお勧めします。これなら所属する商会員全員に権利を適用できますから。その場合の登録料は銀貨三十枚。ギルドカードは同時に三枚発行されます」
「三十枚かぁ……」
龍馬は顎をさすりながら、懐の財布(がま口)の重さを頭の中で計算する。
「ただし」
受付嬢の目が、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
「商業ギルドは大陸各国に承認されている正式な機関です。もし発行されたカードを貸し借りしたり、偽造を行ったりすれば、それはギルドへの裏切りではなく『国家犯罪』として処理されます。奴隷落ちか、最悪の場合は絞首刑です。絶対に妙な気は起こさないでくださいね?」
「なんじゃ。わしゃそこまで落ちぶれちゃおらんぜよ。法を潜るより、法の上を大股で歩く方が愉快き」
龍馬は不敵に笑うと、差し出された書類の屋号欄に、迷いのない筆致で力強く文字を書き込んだ。
墨の代わりに異世界のインクで染まったその名は――。
『ニッポン商会』
受付嬢がまじまじとその文字を見つめ、目を瞬かせた。
「……変わった名前ですね。普通はご自身の姓か、この土地にちなんだ名を付けられますのに」
龍馬は少しだけ視線を遠くへ向け、どこか懐かしそうに目を細めた。
「これがええがよ。わしにゃあ、この名が一番しっくり来るき。異国を巡るなら、背負う看板はデカい方が面白いろう?」
ギルドを後にした龍馬は、元下男のノイルと共に、街の北側にある広大な馬市場へと足を運んでいた。
四方を木柵で囲まれた市場には、独特の藁と馬糞の匂いが立ち込め、何十頭もの馬がいななきを上げている。
「旦那、荷馬車を引かせるなら、あっちの区画です」
ノイルが短い顎で指し示した。彼はかつて貴族の家で馬屋の世話係をしていた経験がある。その足取りは、いつになく確かだった。
「ほぅ……おまん、まっこと馬が好きながじゃのう」
龍馬が感心したように呟く。普段はおどおどしているノイルだが、馬の前に立つと目つきが変わった。
「こいつらは、ちゃんと世話をした分だけ返してくれますから。……人間みたいに、裏切ったり、急に身分で叩き落としたりしません」
ノイルは淡々と語りながら、一頭の栗毛の馬に近づき、その足首や歯並びを触っていく。
馬の足運び、目の輝き、そして背中から臀部にかけての筋肉の付き方。素人の龍馬にはどれも同じ「馬」にしか見えないが、ノイルの指先は、その馬がどれほどの重荷に耐えられるかを瞬時に見極めていた。
軍用や乗馬に耐えうる並の馬は一頭につき金貨10枚。それを2頭、さらに頑丈な荷馬車を揃えるとなれば、それだけで一般人の年収を軽く超える大金が動く。ノイルの目利きは、ニッポン商会の全財産を預かっているに等しかった。
「よし、こいつらならガラン伯爵領までの荒れ道も耐えられます。旦那、良い買い物ができましたよ」
「頼もしいちや、ノイル。おまんが居れば、わしの足も何倍にもなるのう」
龍馬はノイルの肩を叩き、満足げに頷いた。しかし、行商の足が揃ったところで、龍馬はふと思いついたように言った。
「よし、次は奴隷商ん所へ行くぞ」
「……嫌な予感しか起きませんね、それは」
後ろから付いてきていたカイルが、即座に顔をしかめた。
「元行商人を探すがよ! 荷を運ぶルートや、各地の相場に明るい奴が一人おらんと、わしらみたいな新参はすぐに干からびてしまうき」
「おすすめしません」
カイルはきっぱりと首を振った。
「なんでじゃ?」
「借金奴隷にまで落ちた行商人というのは、つまるところ“商売に失敗した者”です」
「一回くらい失敗もするじゃろ。わしも昔は色々やらかしたきに」
「商いに博打を混ぜる人間は、環境が変わってもまた同じ失敗を繰り返します」
「むぅ」
龍馬は頭を掻いたが、カイルの引き締まった表情を見て、それ以上は言わなかった。カイルは現実をよく知っている。
だが、カイルは少しの間、顎に手を当てて考え込んだ後、静かに声を落とした。
「……ですが、一人だけ紹介したい男がおりますが……会ってみますか」
「そんな奴隷がおるがよ」
「奴隷には落ちていませんが、かつてガルガドで最も優秀と言われた元行商人がいます」
案内されたのは、港湾の近くにある大規模な石造りの神殿の建設現場だった。
ぎらぎらとした太陽の下、埃にまみれて巨大な石材を担ぎ上げる男たちがひしめき合っている。その中に、一人だけ妙に異質なオーラを放つ男がいた。
背中に対をなすほどの重い石を背負いながらも、一歩踏み出すごとに周囲の状況を鋭く観察している。
「ありゃあ……ただの肉体労働者の視点じゃないのう」
龍馬の目が細くなる。
「元行商人です。名はランセル」
カイルが静かに答えた。
「なんでそんな男が、こんな現場仕事なんぞしちゅうがだ? 行商の方がよほど実入りが良いろうに」
「……行商に“出られない”んです」
カイルのトーンが沈んだ。
「ランセルさんの奥さんは以前、流行り病を患いました。命は奇跡的に繋ぎ止めましたが、その治療のためにかかった薬代が、今も家計を蝕み続けています。さらに、まだ幼い娘さんもいる。行商に出れば、数週間は確実に街を離れることになる。……残された病身の妻と幼い子がどうなるか、彼には分かっているんです。だから、実入りが少なくても、毎日家に帰れるこの現場仕事を選ぶしかなかった」
カイルは一息つき、神殿の影を見つめた。
「以前、私のいた商会でも彼を復帰させる話はありました。ですが、彼は首を振った。“家族を捨てることになる”と」
現場の休憩の鐘が鳴り、男が汗を拭いながらこちらへ歩いてきた。
「お久しぶりです、ランセルさん」
カイルの呼びかけに、男――ランセルは足を止めた。泥と汗に汚れた顔の中で、鋭い眼光だけが生きていた。
「……カイルさん? 貴方、奴隷に落ちたと聞いていましたが……」
「色々ありましてね。今は、こちらの旦那の元で働いています」
ランセルはカイルの言葉を聞き、隣に立つ、異国の奇妙な衣服を着た男をじろりと睨み据えた。
「誰です?」
「坂本龍馬じゃ。ここで新しく商いをしちゅう」
「……商人?」
「行商を始める。おまん、わしと一緒に外へ出んか? おまんの力が要るがじゃ」
ランセルは、龍馬の目を真っ向から見返した。そして、一秒の迷いもなく即答した。
「無理です」
その声には、鉄のような拒絶の響きがあった。
「家族を置いて、この街を出る気はない。どれほど金を積まれても断る。まだ仕事が残っているんでこれで」
ランセルはそれだけ言うと、再び石材の山へと戻っていった。
龍馬はそれ以上、食い下がらなかった。
「ほうか」
ぽつりとそれだけ言って、踵を返す。
帰り道、カイルは肩を落とし、済まないというように俯いた。
「すみません、旦那様。やはり無理でしたね……」
だが、龍馬はからりとした声で笑った。
「何を言うちゅう。まだ終わっちゃおらんぜよ」
「……え?」
「あんな目をしちゅう男が、魂まで死んじょる訳がないき。奥方を想う真っ直ぐな目じゃ。あれは、機会を待っちゅう男の目ぜよ」
その夜。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったガルガドの裏通り。龍馬は一人、ベルノが営む娼館の奥へと足を運んでいた。
「おう。今度は宿屋の大家から、商人になるらしいじゃねぇか」
部屋の主であるベルノが、卓上のデキャンタから琥珀色の強い酒を、龍馬の杯へと無造作に注いだ。
「まぁのう。世の中、動いてみんと何が当たるか分からんき」
「やめとけ」
ベルノは飲み干したグラスを置き、冷ややかな目を龍馬に向けた。
「なんでじゃ?」
「交易なんざ、面倒事の塊だ。お前みたいな甘い理想を持った奴が首を突っ込む場所じゃねぇ」
龍馬はそっとベルノのグラスに酒を注ぐ。
「荷を運べば街道に盗賊が湧く。運良く儲かれば、今度は甘い汁を吸おうと汚え貴族どもが噛んでくる。国境を跨げば、そこからは政治の戦争だ。そのうちな……“誰を儲けさせるか、誰を飢えさせるか”で、簡単に人が死ぬ」
龍馬は何も言わず、酒をぐいと飲み干した。喉を焼くような刺激が心地よい。
ベルノは薄く笑い、机の上にいくつかのコインを並べた。
「いいか、龍馬。商売ってのはな、“足りねぇ”を意図的に作る奴が一番儲かる仕組みになってんのさ」
ベルノの指が、コインを一つずつ弾く。
「酒場、賭博、娼館、そして麻薬。人間から理性を奪い、飢えさせ、もっと欲しいと渇望させる。足りないからこそ、奴らは全財産を投げ出す。裏社会を仕切るってのは、その『渇き』を操ることだ」
それは、不条理な格差と奴隷制がはびこるこの世界で、のし上がってきた男の、血の滲むような実感だった。
だが、龍馬は杯を机に置くと、ふっと悪戯っぽく笑った。
「そんなん、つまらんき」
「……あ?」
ベルノの眉が跳ね上がる。
「わしゃ、あっちで”余っちゅうもの”を、こっちの“足りない”へ運んで埋める。そういう商いをしゆるがよ」
ベルノはグラス越しに龍馬を見詰め、目を細めた。
「甘ぇな。お前がどれだけ荷を運ぼうが、人は満たされれば、さらに別のものを欲しがるぞ。人間の欲には底がねえんだよ」
龍馬は声を上げて笑った。
「ほいたら、また運べばええ! 欲しがるものが尽きんのなら商いは回り続けるがよ!そりゃあ好都合じゃ!」
数秒の沈黙が、部屋を支配した。
ベルノは呆れたように龍馬の顔を見つめていたが、やがて耐えきれず、腹を抱えて吹き出した。
「ははっ……! ははははは! お前、ほんっと面白ぇな、龍馬。お前はとんだ大馬鹿野郎だ」
龍馬もまた、釣られて笑う。
「おまんもじゃ、ベルノ。おまんの注ぐ酒と話す肴、いつもまっこと旨いき」
立場も、生きる世界も、思想も全く違う。だが、だからこそ、互いの胸の内を隠さずに交わす酒は、格別に旨かった。
ベルノは笑いを収めると、ガラス窓の外、夜の闇に沈む都市の灯りを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……流れなくなった水は澱む」
「ほう」
「街も、人も、国もだ。澱んだ水は、いずれ中から腐っていく。この街もな、もうずっと留まったままだ」
龍馬は静かに杯を置いた。その瞳の奥に、かつて激動の幕末を駆け抜け、新しい日本の夜明けを見据えていた男の、絶対の志が宿る。
「じゃから、わしが流すがよ」
翌日。
ランセルは、カイルを通じて『寺田屋』へと呼び出されていた。
「旦那様、ランセルさんをお連れしました」
カイルに案内され、宿屋の最奥並ぶ扉の一つを開けた瞬間、ランセルは息を呑み、その場に絶句した。
そこは、彼が普段見ている薄暗い日雇い労働者のドミトリーとは、完全に次元の異なる空間だった。
窓からは豊かな陽光が差し込み、部屋全体が清潔に保たれている。何より、部屋の空気に微かに混じるのは、どこか深く心を落ち着かせる清冽な木の香り――『木製の風呂桶』の香りだった。龍馬がこの宿を建て替えた際、従業員用の部屋の一部に拘ってあしらったものだ。
その柔らかな寝台の上で、彼の妻が穏やかな顔で横たわり、その隣では幼い娘が、泥のついていない綺麗な毛布に包まれて、すやすやと寝息を立てていた。
「ここで暮らせばええ」
部屋の隅で腕を組んでいた龍馬が、静かに、だが確かな声で言った。
「……何を、言っているんだ。これはいったい」
ランセルの声が震える。
「ここはウチの連中が暮らす部屋じゃき。おまんが行商に出とる間、家族はこの寺田屋でおまんを待てる。ここなら、喰うも困らんし、おまんの留守を狙う不届き者も入ってこれん」
「そんな、バカな……! 妻の病気はどうする! 薬代だけで、普通の人間なら破産するんだぞ!」
「ここ貴族も来る旅館じゃからな。優秀な治療師も常駐しちょる。飯も三食、美味いもんを出すき。子供も沢山おるから、娘さんも寂しくないろう」
ランセルは激しく首を振った。信じられなかった。この冷酷なガルガドの街で、これほどの救いが無償で与えられるはずがない。
「そんな都合の良い話が……この世にあるわけがない!」
「この世は知らんが、ここにはあるがよ」
龍馬は一歩前に出ると、ランセルの目を真っ直ぐに見据えて笑った。
「わしが作ったき」
ランセルは言葉を失った。喉の奥が熱くなり、言葉が形にならない。
その時、寝台の上で目を覚ましていた妻が、細い腕を伸ばし、ランセルの大きな手をそっと包み込んだ。
「……あなた。もう一度、やってみて。あなたの好きな、商いの道」
妻の優しい声が、部屋のひのきの香りに乗って、ランセルの胸の奥へと染み込んでいく。
ランセルは、自らの拳を握りしめ、寝静まる娘の顔を見た。かつて世界の果てまで荷を運ぼうと夢見ていた、あの頃の自分が、胸の中で激しく拍動を始めていた。
ランセルはゆっくりと、だが深く、自らの膝が床につくほどに頭を下げた。
「……よろしくお願いします。龍馬さん。俺の命と知識、全てニッポン商会に預けます」
「おう! 頼むちや、ランセル!」
龍馬はランセルの肩をガシッと掴み、豪快に引き起こした。
翌朝。
東の空が白み始め、美しい朝焼けの光がガルガドの白亜の館を照らし出す頃。
ギルドの前には、新調された頑丈な荷馬車と、ノイルが選び抜いた屈強な2頭の馬が並んでいた。
荷馬車の側面には、白地のマスの中に大きな赤い丸が記されている――ニッポン商会の旗印の『日の丸』が描かれている。
御者台にはノイルが手綱を握り、その隣にはランセルが地図を広げている。
そして、馬車の荷台にひょいと飛び乗った龍馬が、街を振り返る。
寺田屋の前では、女将のリサが煙管を軽く振りながら、呆れたような、だがどこか誇らしげな笑みを浮かべて見送っていた。
「いってらっしゃいよ、大商人さん。宿の留守は任せなさい」
龍馬は大きく手を振り返し、朝日に向かって満面の笑みを浮かべた。その顔は、かつて浦賀の海を見つめていたあの頃と、何一つ変わらない輝きを放っていた。
「おう!女将、寺田屋は頼んだき。イーサン、リンダ、みんなを頼むぜ」
「畏まりました」
「こっちは楽しく過ごしますから、ご心配なく」
頷き、カイルに視線を向ける。
「分かっちゅうな、カイル」
「旦那様こそ、私の準備を無駄になさなぬ様、お願い致します」
「ははは!おう! 行って参るちや!」
鞭の音が響き、2頭の馬が力強く石畳を蹴る。
止まっていた流れが、今、轟音を立てて動き出した。ニッポン商会の第一歩は、朝焼けの街道をどこまでも真っ直ぐに突き進んでいった。
「出発ぜよ!ちくと世界を回してくらぁ!」




