第二十四話:門を守る者
交易都市ガルガドの朝は、寺田屋の噴水が奏でる清涼な音と、厨房から漂う焼き立てのパンの香りで幕を開ける。
食堂は連日、朝から晩まで満席が続き、下層階の客室も旅人や行商人たちの荷物で埋まりつつある。
さらに「あのガラン伯爵が長期滞在した宿」という噂は、上流階級の好奇心を刺激し、中層階の部屋にも順調に予約が入り始めていた。
だが、急激な膨張には、必ず歪みが伴う。
「……また、割られたがよ」
朝の静かな食堂で、龍馬は床に散らばった陶器の破片を見つめていた。
その前で、給仕の少女が肩を震わせ、小さな男の子が彼女を庇うように立っている。昨夜、酔った客が少女の腕を掴んでしつこく絡み、制止に入った男の子を力任せに突き飛ばしたのだ。
その際に、テーブルの上の皿が床に叩きつけられた。
『手ぇ滑らせただけだろ?』
『スラムのガキに高ぇ皿持たせる方が悪いんだよ』
そう吐き捨て、下卑た笑いを残して去っていった男たちの顔を、龍馬は忘れていない。龍馬は膝をつき、黙って破片を拾い集める。
その拳は、白くなるほど強く震えていた。嫌がらせは、日を追うごとに陰湿さを増していった。
深夜、館の窓に向けて酒瓶が投げ込まれ、裏口には家畜の排泄物が撒かれる。
朝、清掃のために門を開ければ、白亜の壁に「元娼婦の宿」「汚物溜め」といった殴り書きのような落書きが踊っている。
さらに深刻なのは、外の世界での圧力だった。
子供たちが買い出しに行けば、馴染みの店から「しばらくは売れない」と門前払いを食らい、道中では素性の知れない男たちに肩をぶつけられ、脅される。
それは単なる不運ではなく、明確な意図を持った「悪意」の連鎖だった。
「……カラスの残党だね」
リサが事務室で煙管を燻らせ、苦い煙と共にその名を吐き出した。
かつてこの界隈を裏から支配していたならず者集団。
かつて王国最大勢力のガーグファミリーとの抗争で彼らは利権を奪われ、薄暗い裏通りへと追いやられていたのだ。
「しかも、こいつぁ厄介な構図さ。世間から見れば、テラダ屋は『元娼婦と元チンピラの吹き溜まり』。下手に警邏を呼んで騒げば、ただの“元仲間同士の揉め事”として処理される。向こうはそれを分かってて、じわじわと外堀を埋めに来てるのさ」
龍馬は舌打ちし、窓の外の青空を睨みつけた。
「せこい真似をしよるのう。真正面から来んのが、一番腹が立つぜよ」
決定的な事件は、その日の夕刻に起きた。
買い出しから戻ってきた子供たちが、土まみれになり、泣きそうな顔で中庭に立ち尽くしていた。
荷車は無惨に横倒しになり、苦労して仕入れた新鮮な野菜は泥の中に散らばっている。
「……ご、ごめんなさい、龍さん。おいら達、ちゃんと守ろうとしたんだけど……」
最年長の男の子が、膝を擦りむきながら震える声で言った。
裏路地で数人の男たちに囲まれ、「スラムのガキが小綺麗な格好して調子に乗るな」「寺田屋なんざ、すぐにまた幽霊屋敷に戻してやる」と嘲笑われ、荷車を蹴り飛ばされたのだという。
子供たちの震える肩を見た瞬間、龍馬の表情からいつもの温厚な笑みが完全に消えた。
怒りは炎ではなく、深い海の底のような静寂となって龍馬を包み込む。
龍馬は無言で子供たちの頭を撫で、泥まみれの野菜を一つ、拾い上げた。
その夜、事務室には重苦しい沈黙が流れていた。
「……護衛が必要ですな。それも、ただ強いだけではない。この館の『顔』となる者が」
沈黙を破ったのは、常に冷静なイーサンだった。
カイルが「冒険者ギルドに依頼を出しますか?」と尋ねるが、イーサンは首を振る。
「金で雇った冒険者では、スラムの子供たちや元娼婦を守るために命は懸けません。……旦那様、一人、お勧めしたい男がおります」
イーサンが語ったのは、かつて彼と同じ貴族家に仕えていた一人の門番の話だった。
名は、グレイグ。
寡黙で実直、その忠誠心と剣の腕は誰もが認めるところだった。しかし、数年前、暴漢に襲われた主人一家を守る凄絶な戦いの中で、彼は右腕を肩口から失った。
役目を果たせなくなった彼は、名門の門番という地位を追われ、治療費のために多額の借金を背負わされた末、奴隷へと落ちたのだという。
「今は奴隷市場の片隅で、荷運びにも使われず、ただ腐っております。ですが、あの男の魂はまだ折れてはいないはずです」
龍馬は椅子から立ち上がり、短く言った。
「会いに行くぜよ」
ガルガドの端にある、薄暗い奴隷市場。鉄格子の奥に、その男は座っていた。
岩のように頑強な体躯、だが右肩の袖は虚しく風に揺れている。視線は足元の土に落とされ、光を失っているように見えた。
龍馬は檻の前に立ち、その男――グレイグを見据えた。
「おまん、以前は門番をやっちょったらしいのう」
男は答えない。
ただ、深い霧の底に沈んだような沈黙が続く。
龍馬はさらに一歩踏み込み、低い声で問いかけた。
「おまん……まだ『何か』を守れるか?」
その瞬間、グレイグの瞳の奥で、消えかかっていた火が爆ぜるように揺れた。
ゆっくりと顔を上げた彼の瞳には、絶望を押し殺した執念が宿っていた。
長い沈黙の末、掠れた声が牢獄の冷たい空気を震わせる。
「……守るべき場所があるならば」
龍馬は、その不器用なほど真っ直ぐな言葉に、満足そうに口角を上げた。
「ほいたら十分じゃ。行くぜよ――おまんの新しい門が待っちゅうき」
寺田屋に迎えられたグレイグは、その日から門前に立った。
片腕というハンデがありながらも、彼の立ち姿には、長年の鍛錬に裏打ちされた独特の威圧感があった。昼は子供たちの買い出しに同行し、夜は松明を片手に館の周囲を回る。その大きく逞しい背中は、不安に怯えていた子供たちにとって、不思議な安心感を与える「盾」となっていった。
しかし、悪意は物理的な強さだけでは防ぎきれない。
ある深夜、再び嫌がらせに現れたカラスの残党たちを前に、グレイグは左手で剣を抜こうとした。
だが、バランスが取れず、鞘から引き抜く動作すらままならない。
かつて右腕一本で容易に成し遂げていたことが、今の彼には届かない。
暗闇で見せつけられる己の無力さ。グレイグは悔しさに奥歯を噛み締めた。
「……生活用の義手なら、儂の技術で作れる」
ドイルが低く呟きながら現れた。
「じゃが、戦闘に耐えるほどの強度は無理じゃ。普通の鉄では、本物の剣筋と衝撃に耐えられん」
龍馬が振り返る。
「なんでじゃ? 鉄で駄目なら、何を使えばええ」
「材料じゃよ。お主が求めているのは、片腕で大男を撥ね退けるような、文字通り『折れない力』じゃろうが」
その時。龍馬の肩の上で、退屈そうにあくびをしていた皇帝龍が、面倒臭そうに鼻を鳴らした。
『アレの牙でも使えばよかろう?』
「いやいや皇さん、今は腕の話じゃ。歯があっても仕方ないじゃろ」
『お主は……そこらの剣でも斬れんぞ?アレは』
「…………は?」
その夜、目の前に置かれた「竜の牙」にドイルは驚愕に目を見開く。その口元は引き攣っている。
「ドイル、こんなんで世界一の義手、作れるがか?」
「旦那、お前さん……」
ドイルは牙を撫でるように指で叩き、やがてニヤリと笑った。
「フン、言ってくれる。儂を誰じゃと思っておる」
深夜。寺田屋の門前。グレイグは一人、静かに白亜の館を見上げていた。
かつてすべてを失い、死を待つだけだった自分が、再び「門を守る」という役割を与えられた。背後にある鍛冶場からは、ドイルが竜の牙を睨みつけながら唸る声が聞こえてくる。
「……こんな素材、儂の長い鍛冶人生でも初じゃぞ……。おい、旦那! 火力が足りん、もっと魔石を持ってこい!」
館の奥からは、まだ眠りにつかない子供たちの微かな笑い声が聞こえてくる。
グレイグは、残された左手を静かに、だが力強く握り締めた。
守るべき場所。
戻ってきた誇り。そして、暗い裏路地では、カラスの残党たちが寺田屋の灯りを見つめ、不気味に笑っている。
嵐の前の静けさが、ガルガドの夜を包み込んでいた。
「……気に入らねぇなぁ。あの片腕のデカブツ」
「次は、もっと派手にやるか」




