第二十三話:信用の対価
交易都市ガルガドの喧騒を切り裂くように、一台の豪奢な馬車が『寺田屋』の正面へと滑り込んできた。車体に刻まれているのは、西の港湾都市を治めるガラン伯爵家の紋章である。
御者が恭しく扉を開くと、中から威厳を纏った壮年の男――ガラン伯爵が降り立った。
ガラン伯爵がここを訪れたのは、単なる気まぐれではない。近隣の侯爵家で開催される大規模な夜会に出席するための、一週間の滞在拠点として選んだのだ。
出迎えたのは、館主である龍馬と、事務方のカイルだった。
「ようこそ、ガランの旦那。一週間も泊まってくれるたぁ、まっこと景気がええ話じゃ」
「領内に出入りする行商人たちが「ガルガドに、奇妙で快適な宿が出来た」と口々に噂していたのでな。その宿が『坂本殿』の宿だと聞いたのでこの目で確かめに来たまで」
「ほう?そげな噂がたっちうか」
龍馬は相変わらずの調子で笑うが、その隣でカイルが静かに一歩前に出た。
「ガラン閣下、お待ちしておりました。お手荷物の運搬、および随行の方々のお部屋もすべて整えてございます」
カイルの無駄のない動きと、龍馬に向けられた短い、だが確かな信頼を感じさせる「目配せ」。龍馬はそれを受け取り、黙って頷いた。
今やこの巨大な館の心臓として、龍馬の背中を支えている。そんなカイルを、龍馬は誇らしく感じていた。
伯爵の一行が門をくぐれば、そこには手入れの行き届いた前庭が広がっていた。以前まで荒れていた土は、今や美しい砂利と芝生に覆われ、色鮮やかな花々が潮風に揺れている。
ロビーに足を踏み入れると、磨き上げられた大理石が天井の魔力灯を反射し、陽光のような輝きを放っていた。
そして中央に鎮座する噴水。その清涼な水音は、交易都市の喧騒を忘れさせるほどに心地よい。
「……ふむ。噂に違わぬな」
伯爵は、併設された食堂から漏れ聞こえる賑やかな活気――クインの怒鳴り声や子供たちの笑い声、客たちの談笑――を背に感じながら、吹き抜けの大階段を上った。
宿泊フロアに一歩足を踏み入れた瞬間、下の階の喧騒が、魔法にかけられたかのようにピタリと消えた。厚手の絨毯が足音を吸い込み、廊下には清廉な制服に身を包んだメイドたちが、規律正しく並んで深々と頭を下げていた。
案内された最上階の一等客室は、もはや宿の域を超えていた。
広々としたリビングには、アリアンロッド大陸の特産である上質な革張りのソファ。寝室には、雲のように柔らかな天蓋付きのベッド。そして圧巻は浴室であった。
そこには、冷ややかな美しさを放つ大理石の浴槽と、それとは対照的な、見慣れない「木」で造られた浴槽の二つが並んでいた。
「……これは何だ?」
「本当はひのきが欲しかったんじゃが、まぁ充分な木が手に入ったきの。ドイルに特注して造らせたわしの『故郷の風呂』じゃ。大理石の冷たさもええが、木のぬくもりと柔らかさ、そしてこの香りこそがええがよ」
龍馬がバルコニーの扉を開け放つ。そこからは、大陸最大とも言われる交易都市ガルガドの全景が、琥珀色の夕日に染まって輝いていた。
絶景を背にした伯爵は、部屋の隅々まで視線を走らせ、最後に龍馬を見た。
「これほどの設えと、この立地……それを、一泊たったの銀貨五十枚で提供しているのか」
「たったの、とは言わんちくれ。庶民にゃあでっかい話ぜよ」
龍馬は笑いながらも、その瞳には真剣な光が宿っていた。
「お前は、私を常に『持てる者』として見ていたな。だがな、坂本殿。私は己の責務の上に立ち、その重責に相応しい振る舞いをしているに過ぎない」
「……わしゃあ、そういう肩肘張った言い方が好かんだけじゃ。おんしゃを嫌いじゃ言うちょる訳じゃないき」
不意を突かれたように、伯爵は口を閉ざした。
「……そうか」
短く応じた彼の表情には、わずかに憑き物が落ちたような安堵が浮かんでいた。
ガラン伯爵は、滞在中のすべてに満足していた。
食事、寝床、そして旅の疲れを芯から癒やす木の風呂。だが、その平穏を乱すのは、いつも「誇り」を履き違えた人間であった。
滞在数日目の夕刻。伯爵に同行していた騎士たちの宿舎となっていた下層階で、騒ぎが起きた。
「シ、シーツを交換させていただきます……っ」
部屋の清掃をしていたスラム出身の少年が、若い騎士の怒鳴り声に身を竦めていた。
「ふん! 貴様等のような卑しい貧民の手が触れた部屋で眠れと言うのか! 聞けばこの宿はスラムの乞食や奴隷ばかりだとか……閣下も何を考えてこんな掃き溜めに」
「何を騒いでいるのですっ!」
廊下に響いたのは、伯爵家執事長の声だった。その一喝で場は静まり、執事長は少年に短く詫びて場を収めた。
その夜、夕食の席で報告を受けたガラン伯爵は、静かにナイフを置いた。
「その騎士は?」
「ある男爵の息子で、今年から当家に配属された者です」
「バスカル……分かっているな?」
「御意に」
伯爵領最強と謳われる騎士団長バスカルはすぐさま、問題の騎士の元へ向かった。そして、有無を言わせぬ口調で告げる。
「貴様は今この瞬間を以て、当家での職務を剥奪する。そのまま領地へ戻り謹慎せよ。追って沙汰を下す」
騎士は愕然とし、納得がいかないと叫んだ。
「なぜ! なぜ、たかが奴隷や貧民街の乞食如きのために、私がこのような辱めを!」
バスカルの目は、冷酷なまでに据わっていた。
「貴様は正気か? 奴隷制度はこの国の法によって定められた秩序である。その『所有物』としての価値を否定し、法の下にある者を辱める発言は、我が王国の法と、ひいては国王陛下に対して異を唱えているも同然だ」
「わ、私は決してそのような……っ、しかしあの子供はスラムの……!」
「戯けたことを!」バスカルの声が地を這う。
「貧民街が存在するということは、領主の統治が失敗していることを示す恥辱だ。我が王国の統治の下、多少の貧富の差はあれど、我が王国に『貧民街』や『乞食』など……存在してはおらぬのだ」
「……え?」
「貴様は、その存在しないはずの『恥』を公然と口にし、我らが主、ひいては侯爵様に対して不敬を働いた。言語道断である。去れ!」
闇の中、独りで寺田屋の門を出ていく騎士の後ろ姿を、上階の談話室のテラスから見下ろす二つの影があった。
龍馬の横に、ガラン伯爵が静かに歩み寄る。
「……すまんのう。やっぱりわしは、おまんのやり様が好きになれんぜ」
龍馬の言葉に、伯爵は夜の街を見つめたまま、自嘲気味に微笑んだ。
「奇遇だな。私も……私のことが好きにはなれんよ」
一週間の滞在が終わり、最後の日の朝。
寺田屋の前に停められた豪奢な馬車に向かう伯爵に、従業員たちが一列に並んで深々と頭を下げる。
「世話になったな。実に見事な宿だった」
「お言葉畏れ入ります。道中、御気を付けてお帰り下さい、閣下」
リサが代表して見送る。龍馬は、いつものように頭をボリボリと掻きながら、最後尾に突っ立っていた。
「……まぁ、暇があったらまた来ぃや」
伯爵は一度振り返った。龍馬の目を見据え、彼は静かに、だがはっきりと頷いた。
「……ああ、そうしよう」
翌日から、寺田屋の光景は一変した。
侯爵家の夜会に出席したガラン伯爵が、列席した多くの貴族や大商人の前で、「寺田屋の快適さと絶景、そして木の風呂の素晴らしさ」を語ったのだ。その宣伝効果は絶大だった。寺田屋の予約台帳は、瞬く間に有力者たちの名で埋め尽くされていった。
「案外、話せるお貴族様だったのかねぇ、あの伯爵さんは」
予約の山を前にして、リサが感心したように微笑んだ。
龍馬は知っていた。伯爵が騎士を厳罰に処したのも、宿を宣伝したのも、すべてはかつての恩を返し、自らの矜持を保つための「清算」であることを。
それでも、白亜の館に流れ込む新しい「風」は、確かにこの『今』を変え始めていた。
「そんなんじゃ無いろう。まぁ……これで貸し借り無しっちゅうこっちゃ」




