第二十二話:信用の値段
交易都市ガルガドの喧騒が夜の帳に包まれようかという時間。かつて「黒鳥の館」と呼ばれた雰囲気は見る影もなく。白亜の建物は、賑やかな活気を現していた。
中央ロビーの噴水は、絶え間なく清涼な水音を奏でている。その周囲には、仕事を終えて一杯の酒を愉しむ商人や、遠路はるばる辿り着いた旅人たちが、厨房から漂う香草と肉が焼ける芳醇な香りに目を細めていた。
しかし、華やかな表舞台とは対照的に、館主事務室の空気は、重く淀んでいた。
「……やっぱり、数字は正直なもんじゃのう」
龍馬は、机の上に広げられた厚い帳簿を睨みつけ、苦々しく呟いた。視線の先には、整然と並んだ数字が、牙を剥く怪物のように居座っている。
食材の仕入れ値、大量の薪や魔石の代金、備品の補充費用、そして何より、スラム出身の子供たちや元娼婦、元奴隷といった大所帯を養うための人件費。広大な館を維持するということは、ただ「店を開ける」こととは次元の違う現実を突きつけていた。
「極端な赤字です」
傍らに立つカイルが、事実を突きつけた。彼は羽ペンを帳簿の特定の一行に走らせる。
「食堂部門は成功と言っていいでしょう。クインの料理はもはや街の噂です。銀貨一枚という、庶民には少し高く、富裕層には手頃な価格設定が、絶妙な『特別感』を生んでいます。酒の注文も増えており、ここだけの利益を見れば黒字です。……ですが、館全体の維持費が、その利益をすべて食いつぶしています」
龍馬は椅子に深く背を預け、天井を見上げた。
「結局、二階から上が埋まらんことには、この館はただの『でかい飯屋』で終わってしまうきな」
寺田屋は巨大だ。食堂の収益で館全体を支えるのは厳しい。
宿泊部門、特に利益率の高い中層から上層の高級客室が埋まらなければ、この『商い』は早々に頓挫する。
「やっぱり『信用』かのう……」
龍馬が頭を掻いた。カイルは静かに頷き、以前から懸案事項だった「屋号」の問題を口にした。
「旦那様、そもそも『寺田屋』という名は、この世界の住人には馴染みが薄すぎます。通常、宿といえば『○○亭』や『○○の宿り木』、『○○の巣』といった、安らぎを想起させる名が選ばれる。ですが『○○屋』という語尾は、この地では武器屋や道具屋といった『物品を商う場』を指す。ここが眠る場所であるという認識が、富裕層にまで届いていないのです」
「……わしにとっては、これ以上ないほど馴染みのある、商いの名前なんじゃがのう」
龍馬は遠い空を想うように目を細めた。
「じゃが、おかげで商業ギルドから睨まれんですんじょうが。宿屋をなのるなち言われとるからの」
龍馬は不敵に笑った。
「当館の性質上、宿泊費の単価を下げる事は出来ません」
「そっちの方がええろうが。安くして既存の宿を潰す気はありゃあせん。わしらぁ、この街の『流れ』を増やしたいんじゃ。誰かの場所を奪いたいんじゃないき」
経営の悩みは、館の内側だけに留まらなかった。見回りを終えたイーサンが、険しい表情で事務室に現れた。
「旦那様。また食堂で小競り合いがありました」
「しつっこいのう」
龍馬は顔をしかめた。寺田屋が注目を集め、成功し始めているからこそ、それを面白く思わない連中も増えている。特に、従業員の多くが元娼婦や元奴隷、スラムの子供たちであるという事実は、凝り固まった偏見を持つ連中にとって、格好の攻撃材料だった。
「『元娼婦のくせに、上等な服を着て気取りやがって』……そう吐き捨てた客がいたそうです。他にも、子供たちが料理を運ぶ姿を見て『奴隷臭ぇ料理だ。スラムのガキが運ぶ皿など不潔で食えん』と難癖をつける輩も」
リサたちは、そんな悪意を笑顔でいなしている。
かつて夜の街で海千山千の男たちを相手にしてきた彼女たちにとって、言葉の礫など日常茶飯事だ。だが、それを横で聞かされている子供たちの心までは守りきれない。
「現状は、リサたちが上手く捌いています。笑顔で酒を注ぎ、時に鋭い言葉でねじ伏せる。ですが……」
「……腹ぁ立つのう」
彼らが過去を捨て、新しい自分になろうと懸命に磨いている床を、土足で踏みにじるような真似は許しがたい。だが、今の寺田屋には、そんな無礼な客を追い出す余裕すらなかった。
その後、場所を厨房に移して行われた新作料理の試食会は、もはや会議というよりは激論の場と化していた。
クインが差し出したのは、地元で採れる希少な魔獣の肉を贅沢に使い、数種類の香草で煮込んだ、目も眩むような逸品だった。
「旨い。まっこと旨いぜよ、クイン! これなら豪華なだけじゃなく、評判になる」
龍馬が感嘆の声を上げた瞬間、カイルの鋭い声が響いた。
「ですから! 豪華すぎて採算が合いません! こんな高価な料理を提供する宿屋がどこにありますか。一体いくらで出すつもりですか!」
「まぁ、銀貨一枚でもいいんじゃない?」
リサが煙管を指に挟んで軽く言った。
「ほうかほうか! それなら皆も買いやすうなる」
「冗談はやめてください!」カイルが机を叩く。
「この食材の原価を計算したのですか? 銀貨二枚と銅貨五枚――それが適正価格です。ですが、今の食堂の平均単価は、酒を含めても銀貨四枚程度です!」
「そ、それはちと料理と合わんがぜ……」龍馬がたじろぐ。
「だからその酒で儲ければいいのさ」リサが不敵に微笑む。「旨い飯を食えば酒が進むもんさ。それが夜の街の道理ってものよ」
「たしかに! あいつらぁ、ようけ飲むきな」龍馬が頷く。
「だったらそこにモノの道理も入れて欲しいものですね」カイルは一歩も引かない。
「食事の値段を上げるか、料理の質を下げるか、バランスをとってください。薄利多売はブランド力低下の第一歩です。この旅館はそこらの有象無象とは一線を隔す場所なんですから。客を選ぶという視点を持っていただかないと」
「選ぶだって? 随分と上からの物言いじゃないか」リサが目を細める。
議論の熱に当てられた龍馬は、両手を広げて間に割って入った。
「よし、分かったぜよ!! 」
龍馬の声に、場が静まり返る。
「食堂には今まで通り、誰でも腹いっぱいになれる銀貨一枚から数枚で料理を出して、酒で利益を出す。で、上等な部屋に泊まる御仁たちには、クインの高級コースを振る舞う。その代わり、代金はしっかり頂く。……そうすりゃあ、食堂の皆の腹も膨らむし、夜景を見ながら旨い飯を食える客にも評判がようなる。これでどうじゃ!?」
カイルは数秒沈黙し、頭の中で計算を弾いた。
「……であれば、いっそ食器や器から見直し、サービスのランクを完全に分ける必要がありますね」
「だったら、大皿で出してみるのもいいわね。どうせ贅沢を覚えた連中なんだから、テーブルの真ん中に……」
即座に実務的な議論に入り、自分を置いて各々の部屋に向かう二人を見て、龍馬はほう、と息を吐いた。
「あぁ……えぇ案じゃった、よな」
独り厨房の隅に取り残された龍馬の元に、パタパタと足音が近づいてきた。スラム出身の年少の子供たちだ。
「どうしたの?」
「喧嘩?」
「んにゃ。あんならぁ、腹が減ってちょっと気が立っちょるだけじゃき……ほれ、食うか?」
龍馬が袖口から取り出したのは、握り飯だった。だが、子供たちは顔を見合わせ、クスクスと笑いながら走り去っていく。
「「「「それ、しょっぱいから嫌ぁ~!」」」」
「……まっこと旨いと思うんだがのう」
龍馬は一人、寂しく握り飯を口に運んだ。
『それがか?』
肩の上の皇帝龍が、不思議そうに問いかける。
「おう、ほれ。米は旨いぜよ。女子どもにゃあ、この良さが分からんのかのう」
龍馬は、皇帝龍にも握り飯を分け与えた。
『うむ……ほう。悪くはないな。だが、この地の者にはパンの方が人気なのであろう?』
「……ん。人気なんじゃよ。悲しいのう」
一人と一匹、無言で塩辛い握り飯を咀嚼する。
「……食い過ぎると、太るぞ?」
『っんが!!』
皇帝龍が喉を詰まらせたような声を上げる。その滑稽な様子を、通りかかったドイルが冷ややかな目で見つめていた。
「……なにをやっとるんじゃ、お主たちは」
昼を過ぎ、寺田屋が夜の営業メニューへの切り替えようとしていたその時だった。館の正面玄関の向こうから、複数の蹄の音と、重厚な車輪の音が響いてきた。
イーサンが、鋭い視線を外に向ける。
止まったのは、陽の明かりを跳ね返すほどに磨き上げられた、豪奢な馬車だった。車体には、厳格な権威を感じさせる紋章が刻まれている。
「……伯爵家の紋章」
イーサンが息を呑む。
御者が恭しく扉を開くと、中から一人の男が降りてきた。それはこの世界で龍馬にとっての初めての貴族。ガラン伯爵であった。背後には、隙のない動きを見せる護衛が控えている。
伯爵は、白く輝く寺田屋をゆっくりと見上げた。
「なるほど。これが噂の『元娼館』か。死んでいると聞いていたが……随分と、熱気があるではないか」
ロビーに現れた龍馬は、貴族特有の威圧感を正面から受け流し、まるで旧友を迎えるかのように、この上なく不敵で、かつ爽やかな笑顔を浮かべる。
「よう参られたのう……ここがわし等の宿」
その両手を大きく広げ――誇った。
「『寺田屋』じゃ」




