第十九話:諦めていない目
巨大都市ガルガドの喧騒は、石造りの街路を一つ折れるごとに遠ざかり、代わりに湿ったカビの匂いと、何かが腐敗したような不快な臭気が鼻を突くようになった。
龍馬は、自らの足元に広がる割れた石畳と、泥水が溜まった水路を見つめ、静かに呟いた。
「……ここが、貧民街か」
隣を歩くリサが、煙管をくわえ直して短く返す。
「スラムさ。この街の、終着点だよ」
龍馬の肩の上で、小型犬サイズになった皇帝龍が不快そうに黄金の瞳を細め、鼻を鳴らした。
『死臭がするな』
龍馬は、崩れかけた壁にもたれかかる大人たちを観察し始めた。
荷運びができそうな逞しい体格の男、かつては兵士だったのか腕に傷跡を持つ者……。しかし、誰一人として龍馬と目を合わせようとはしない。
それは「休憩」ではなく、生きることそのものを途中で放り出した「放棄」の姿だった。
「……こりゃあ」
龍馬の落胆に、リサが冷徹な現実を突きつけた。
「男は駄目さ。このスラムにまで落ちて、なお動かない男は、もう『終わってる』んだよ」
リサは紫煙を吐き出し、路地裏の人間相関図を説く。
「働く気力を失い、酒に逃げ、何でもかんでも他人のせいにする。そんな連中に金だけ渡してみな。明日には酒に変わって、また同じ場所で転がってるだけさ」
龍馬は次に、うずくまっている女たちを見た。だが、リサは再び首を振った。
「女も基本は無し。……いいかい、龍さん。この世界じゃ、生きる気力のある女なら、とっくに娼婦になるか奴隷になってるんだよ」
その言葉に、龍馬の表情が痛ましげに曇った。
「女には『使い道』があるからね。だから、まだここに残っている女は、そのどちらの道も『選ばなかった』か、あるいは心を完全に折って『諦めた』かのどっちかさ」
龍馬とリサの視線が交わる。
「いいかい龍さん。あたし等が見るのは、子供等さ」
「おまん……」
「子供達は『まだ諦めていない』のさ。家族や友達、そして自分自身の為に……龍さん。ココはあんたが嫌う『女子供を使う』場所だよ」
龍馬は、固く拳を握りしめた。幕末の世でも貧困は人を壊すものだったが、この異世界の断絶はより一層深く、救いがないように感じられた。
その時だった。積み上げられたゴミの陰から、一対の鋭い眼光が龍馬を射抜いた。
汚れにまみれた服を着た少年が、自分よりさらに小さな妹の手をぎゅっと握り、龍馬を警戒するように見つめていた。
「……ぼん」
龍馬は、その瞳の奥に、スラムの大人たちには欠片も残っていなかった「火」を見た。
「……俺?」
少年は妹を背後に隠し、一歩前へ出た。その足は震えていたが、視線だけは逸らさない。
「わしは、働き手を探しゆうがよ」
その瞬間、少年の目に宿ったのは、希望というよりも「生存への執着」に近い激しさだった。
「お、俺! なんでも出来るぞっ!」
少年は必死に捲し立てた。
「荷物も持つ! 掃除だって誰よりもやる! 走れるし……それに、殴られたって平気だっ!」
妹の手を握る少年の拳が、あまりの力に白くなっている。
「……働くいうんは大変じゃぞ。生半可な気持ちじゃ務まらん」
「分かってる!!」
少年は叫んだ。
「お、俺っ……ぼく、ちゃんと働けますっ!!」
龍馬は沈黙した。少年の叫びに呼応するように、周囲の物陰から次々と子供たちが這い出してきたからだ。
痩せた頬、擦り切れた布切れを纏った姿。だがその目だけは、周囲の澱んだ空気を拒絶するように、ギラギラとした輝きを放っていた。
リサが言った通りだ。この絶望の底で、まだ世界を『諦めていない』のは、この子供たちだけだった。
龍馬の胸の内に、言葉にできない怒りが沸き上がった。それは、子供たちに対してではなく、彼らをそこに追いやった世界と、守ることを止めた大人たちへの憤りだった。
龍馬は突如として天を仰ぎ、腹の底から咆哮した。
「どいつもこいつも!! この糞大人共がぁぁぁぁぁっ!!」
その大声に、酒を煽っていた男たちが、死人のような顔をした女たちが、驚いたように一斉に龍馬を見た。
「こりゃあなんじゃ!なんなんじゃこりゃあ!」
初めて見せる、怒り。
「おまんらぁのツケ!この坂本龍馬が一切合切、払っちゃるっ!!」
リサが驚きに目を見開き、カイルは絶句したまま龍馬の背中を見つめた。
龍馬は腰の刀の鞘をカチリと鳴らし、子供たちに群がろうとしているスラムの「影」を威圧するように周囲を睨みつけた。
「こっから先!! わしの唾ぁついた奴に指一本でも手ぇ出してみいや!!」
その声は、かつて数多の修羅場を潜り抜けた男の、真実の殺気を孕んでいた。
「そっ首叩っ斬るき、覚悟しちょけぇぇぇっ!!」
スラムの喧騒は完全に沈黙し、子供たちの目に、恐怖ではない「畏怖」と、そこから派生した「小さな信頼」が芽生え始めていた。
スラムを離れ、子供達を引き連れ帰る道中、カイルが耐えかねたように口を開いた。
「……旦那様。本気ですか。この子供たちを、全員雇うなど……よろしいのですか?商売としては」
「よろしゅうはない!」
龍馬は即答し、カイルの言葉を遮った。
「ないが!! こうなった以上、やるしか無いろうが!!」
「確かに憐れみは感じます。しかし、教育コストもかかれば、周囲の反発も」
龍馬は足を止め、射抜くような強い視線をカイルにぶつけた。
「カイル、こいつ等ぁ憐れなんじゃない。まだ諦めちょらん!自分の足で立ちゆうがじゃ」
「……このやり方は、確実に潰れます」
龍馬はカイルの肩を掴み、力強く揺さぶった。
「潰れん。潰させん!!」
「どのようにして!」
「考えるんじゃっ!!」
カイルは息を呑んだ。
「人間、どうにもならん事なんぞ一つもない! 考えろっ!」
龍馬の声がカイルの胸の深くに響く。
「考えるんを止めた時が潰れる時じゃ。知恵を絞れ!カイル!考えるんじゃっ!!」
カイルは、かつて自分の人生を諦め、奴隷市場で俯いていた自分を思い出した。龍馬に言われているのは、今目の前の問題だけでなく、自分自身の生き方そのもののように感じられた。
夕暮れの白亜の館の前に、龍馬と、その後ろに不安げな顔をした十数人の子供たちが到着した。
巨大な建物を前に子供たちは息を呑み、足がすくんでいる。彼らにとって、これほど美しい場所は空の上の物語にしか存在しないものだった。
龍馬は、館の巨大な扉を勢いよく両手で押し開けた。
中からは、昨日までの暗闇を払い除けたような、磨き上げられた床が反射する眩い光が溢れ出した。
「おまんらぁのこれからは、ココからはじまるがぜ!」
龍馬の豪快な声に背中を押されるようにして、子供たちは恐る恐る、しかし力強く、新しい「城」へと足を踏み入れていった。
「よぉし!! 忙しゅうなるぜよ!!」




