第二十話:寺田屋
白亜の館に、かつてのような死の静寂はもうなかった。代わりに響き渡るのは、朝から館中を震わせる怒号と悲鳴である。
「ちがーーうっ!! シーツは角を揃えて、ピンと張るのっ!!」
元メイド長、リンダの鋭い声が廊下を突き抜けた。スラムからやってきた子供たちにとって、そこはもはや生活の場というよりは「戦場」だった。
「ひゃああっ!?」
少女が重いシーツを抱えたまま、慣れない磨き上げられた床に足を滑らせて転ぶ。
「水桶を廊下で引き摺るんじゃないよっ! 床が傷むだろうが!!」
「ご、ごめんなさいっ!!」
少年は必死に桶を持ち上げようとして、今度は中身をぶちまけた。皿を割り、水をこぼし、せっかく磨いた床を泥だらけの足で走り回る。文字通りの大騒動だが、それでも、誰一人として逃げ出そうとする者はいなかった。
彼らは、ここで足を止めたら再びあの澱んだ「影」へと戻ることになると、肌で理解していたからだ。
厨房では、岩のような体格の料理人、クインが鉄鍋を叩いて怒鳴っていた。
「火を見るな!! 鍋を見ろっ!! 焦げついてからじゃ遅いんだよ!!」
「は、はいっ!!」
小柄な少年が、煤で顔を黒くしながらも必死に重い皿を運び、下ごしらえに食らいつく。一方、洗濯場では別の少女が、水分を含んで巨大な怪物と化したシーツの下敷きになっていた。
「た、助け……っ」
「ほら、踏ん張んな! 腹一杯飯を食ったんだろ!!」
元下男たちが豪快に笑いながら、少女を助け起こしてコツを教え込む。厳しい言葉の端々には、かつての自分たちの姿を重ねるような、不器用な慈しみがあった。
そんな喧騒の中、龍馬もまた、袖をまくり上げて館内を走り回っていた。
「おぉ!? 凄いのう! 動いちゅう、動いちゅうぜよ!!」
『貴様だけは働いておらんな。ただ走り回って騒いでおるだけではないか』
肩の上の皇帝龍が冷ややかに指摘するが、龍馬はモップをバトンのように振り回して笑い飛ばす。
「働いちゅうわ!! わしは全体の士気を上げゆうがじゃ!!」
「「「「ゆうがじゃあ」」」」
龍馬の周りには働くは満たない幼い子供達がまとわりついてはしゃいでいた。
昼時、子供たちは大広間で円卓を囲んでいた。目の前には、湯気の立つ熱いスープ、香ばしい匂いのする焼きたてのパン、そしてたっぷりの肉料理。
スラムでは想像もできなかった光景に、彼らは最初、幽霊でも見るかのように手を付けられずにいた。
「……これ、本当に、食っていいのか?」
一人の少年が震える声で尋ねる。クインが太い眉を吊り上げて一喝した。
「冷めるぞ馬鹿共! 働いた分は食え!」
その瞬間、決壊したダムのように子供たちが料理に食らいついた。スープをこぼし、涙目になりながら、喉を詰まらせんばかりに必死に食べる。
リサは柱に背を預け、煙管をくゆらせながらその光景を眺めていた。
「……飢えてたんだねぇ。腹だけじゃない、居場所にもさ」
夜になると、子供たちには個別の部屋が与えられた。清潔なベッドと、驚くほど柔らかな毛布。
「……これ、俺たちが使っていいのか?」
戸惑う少年たちに、元メイドの一人が優しく微笑んだ。
「今日からアンタたちは、ここの立派な従業員なんだから。当たり前でしょ」
その夜、ふかふかの枕に頭を沈めた子供たちは、あまりの幸福に逆に目が冴えてしまい、誰もすぐには眠りにつけなかった。
「邪魔するがぜよ」
「旦那様」
深夜、出費の勘定に頭を悩ませているカイルの部屋に龍馬が顔を出す。
「こんな時間になにか?」
「おぉ。ちくとおまんに渡すもんがあっての――ほれ、受け取れち」
「え?……これは」
そこには金貨が詰まった革袋があった。
その数300枚。
「しばらくはそれで凌げるじゃろ」
「……」
「ほいじゃ、遅くに悪かっ」
「お返しします」
「っ!」
その強い視線に龍馬が止まる。
「……金が無いろうが」
「そこを何とかするのが私の仕事です。出所不明の大金を使うのは危険です」
「汚い金じゃないき」
「旦那様にお預け頂いた金額は確かに大きい金額でした。その出所も背景もお尋ねは致しません。ですが、それがこうほいほい継続するとなると流石に出所を疑わざるを得ません」
「おまんも硬いのう」
「これは私の信条です。『騙すな誤魔化せ』という悪しき風習は商いとは申せません!」
「……」
「……」
折れたのは龍馬だった。
「仕方ないのう。皇さん」
『ん?』
「?」
肩に乗る小さな皇帝龍に
「昼のヤツ、もう一本出せるかの」
『ん?……面倒な……ほれ』
皇帝龍は手近な空間を歪ませれば、そこから一本の『牙』を出した。
受け取った龍馬はそれをそのままカイルに渡す。
「これらを金に換えたがよ」
「?これは魔獣の素材でしょうか?それにしは随分と大きな」
「おぉ、そりゃあドランゴの牙じゃ」
「?ドランゴで御座いますか?」
『ドラゴンじゃろうに』
「?おう、そんな名前の竜じゃった」
「!!!ドラゴン!!!」
呆然としたカイルが再起動してから、龍馬は竜の素材を入手するに至った、町でのあらましを簡単に聞かせた。
「わしが止める前に皇さんが殺めちょったからの。まぁ同情はせんが無駄にするんも勿体ないからなぁ。町に役立ていゆうたが、せめてもの礼に受け取ってくれち言われての」
「それで、ドラゴンの素材を一頭丸々、ですか」
「まぁええかと思っちょったんだが、びっくりするくらい高値が付いちょるからの。小出しにする事にしたんがよ」
「当たりまえです。ドラゴンの素材なんて売っているのも見た事ありませんよ。稀に出物があっても裏で取引されるだけで――――小出し、とおっしゃいましたか?」
「そうじゃ」
「それは、まだ、在ると」
「う~ん、皇さん。あとどんぐらい有るがよ?」
『ん?まだ三割も出してないが?』
「だそうじゃ」
「……あと七割……旦那様」
「分かっちゅう」
真剣な視線になったカイルを片手で制する。
無論、龍馬も同じ意見だ。
「これは誘惑じゃ。反則じゃ。商いでも何でもない、皇さんからの袖の下となんも変わらん」
「乱用はしないと」
「せん!これはわしの罪じゃ。わしが墓まで持ってく咎じゃき。それでも皆が餓えるよりかは全然ええがよ」
「はぁ……では私は共犯者という事になりますか」
「おまん」
「どのみち奴隷の私は旦那様の私物です。精々しっかりと道連れになって差し上げますから、旦那様は存分にお進みください」
「――――おう!」
龍馬はカイルという名の共犯者と笑みを交わし合うのだった。
「ま、あたしが被るまでも無いかね」
ドアの外で煙管を弄んでいたもう一人の共犯者は、微笑みを残して廊下の闇に溶けて行った。
数日後。ついに、その瞬間が訪れた。中央ロビーの干からびていた噴水へ、再び命が吹き込まれたのだ。
ゴボッ――という鈍い重低音のあと。
透き通った水が勢いよく空へと吹き上がった。
「「「おおおおおおっ!!」」」
館中に歓声が響き渡る。噴水を修繕した庭師のクレイルが、鼻を鳴らした。
「おーしっ!これで水廻りは完璧だ。さて、次は庭木だ」
元鍛冶師のドイルも、誇らしげに腕を組んで笑う。
「儂を誰じゃと思っとる。この館の隅々まで、儂の管理下にない場所などない」
同時に、天井の巨大なシャンデリアへ魔力灯が灯る。磨き上げられた大理石の床に、その光が宝石のように反射した。
かつて「死んでいた建物」は、今、確かに「生きた建物」へと変貌を遂げたのである。
夜。全ての作業を終えた龍馬は、一人で静まり返ったロビーに立っていた。耳に届くのは、心地よい噴水の音と、厨房から漏れ聞こえる笑い声、そして寝床へ向かう子供たちの走り回る足音。
そこには、かつての冷たい静寂ではなく、確かな「人の熱」があった。
「……随分、賑やかになったねぇ、龍さん」
隣に並んだリサに、龍馬は満足そうに頷いた。
「ほうじゃのう。……だが名前がいるのう」
「名前?」
「商いにゃ看板がいるき。いつまでも『烏の住処』と呼ばれちゃあ、客が来んぜよ」
その言葉を聞きつけ、カイルやイーサン、リンダたちもいつの間にか集まっていた。龍馬は腕を組み、しばし考え込んだ。そして、遠い空を見つめるような、懐かしくも寂しげな、それでいて誇らしい笑顔を浮かべた。
「寺田屋」
「……テラダヤ?」
皆が聞き慣れない響きに首を傾げる中、龍馬は静かに館の梁を見上げた。
「わしにとって、大事な名前ながじゃ」
それはかつて、夢を語り、仲間と酒を酌み交わし、時代という巨大な荒波を変えようと若者たちが足掻き、そして龍馬自身が何度も窮地を切り抜けた場所の名前。
「今日からここは――」
龍馬は振り返り、真っ直ぐな瞳で満面の笑みを浮かべた。
「“寺田屋”ぜよ!!」
夜のガルガド。
歓楽街の外れにひっそりと、しかし力強く建つ白亜の館。その正面に、新たな看板が誇らしげに掲げられた。
その看板に灯された光は、かつて絶望の街だったガルガドの夜を、静かに、そして確かに照らし始めていた。
力強い筆致で大きく記されたその名は――――『テラダ屋』




