第十六話:値札の付いた人生
正式に建物の権利を手に入れた翌朝。龍馬は日の出と共に起き出し、館中の窓をこれでもかと全開にした。
「よぉし! 磨くぜよおおおお!」
雑巾を片手にロビーで気合の咆哮を上げる。だが、現実は非情だった。
吹き抜けのロビー、数十の客室、巨大な厨房に大浴場、そして広大なテラスと廊下。一人で磨き始めたところで、一階の半分すら終わる気配がない。
その様子を、リサが呆れ果てた顔で見守っていた。
「……アンタ、本気で二人でやる気だったのかい」
「二人?」
龍馬が汗だくで振り返ると、そこにはふかふかのソファに埋もれて熟睡する子竜の姿があった。
『我を数に入れるな』
寝言のような念話が響き、龍馬はがっくりと肩を落とした。
龍馬はすぐさま街へ求人を出しに向かったが、現実はさらに厳しかった。
「あそこ?カラスがいた廃業娼館だろ。縁起が悪い」
「今は人材不足なんだよ。料理人も給仕も、大手の宿が囲い込んでるさ」
元娼館という悪評と、物流都市ならではの人材枯渇。
「ほいたら、給金を倍に上げれば――」
「やめな」
リサが即座に止めた。
「アンタが勝手に相場を壊してみな。今度は街中の小規模宿や食堂を全部敵に回すよ」
龍馬はここで初めて、自由競争の裏にある「市場」のバランスを知ることになる。
商業ギルドの職員は、悩む龍馬に平然と言い放った。
「奴隷を買えばいいじゃないですか」
その言葉に、龍馬の顔が露骨に歪んだ。
それは、土佐の厳格な身分制度を嫌った龍馬にとって、受け入れがたい選択だった。
「綺麗事だけじゃ店は回らないよ」
リサの言葉は重かったが、彼女は無理強いもしなかった。
奴隷市場へ向かうと決めた龍馬がリサを誘うと、彼女は静かに首を振った。
「……あたしは遠慮しとくよ。娼婦になるか奴隷になるか、あたし等にゃ縁起が悪い場所さ」
リサの横顔に差した暗い影を見て、龍馬は短く「……ほうか」とだけ返した。
龍馬は一人、鉄格子の並ぶ市場に立っていた。
首輪をされ、値札を付けられ、品定めされる人間たち。眉を顰める龍馬に、奴隷商が慣れた様子で声をかける。
「犯罪奴隷にしますか? 借金奴隷にしますか?」
「……犯罪奴隷は嫌じゃ」
龍馬が選んだのは、博打や商売失敗、身内の肩代わりなどで身を落とした「借金奴隷」だった。龍馬は自分の直感を信じ、その中でも健康そうで、どこか善人そうに見える男三人を選び出した。
「逃亡防止の隷属魔法は?」
「魔法で人を縛るんは好かん」
奴隷商は、まるで希少な変人を見るような目で龍馬を見送った。
館に連れ帰った三人を見て、リサは一瞬だけ彼らの目を確認したが、「……あぁ、その手合いをねぇ」とだけ呟いた。
その日、掃除は劇的に進んだ。三人は大人しく雑巾を持ち、窓を拭き、龍馬と共に汗を流した。
「ほぉら! 回り始めたぜよ!」
活気づく館に、龍馬は明るい未来を見ていた。
だが、翌朝。
館は妙に静まり返っていた。
龍馬がロビーへ降りると、そこには放置された掃除道具と、半分だけ磨かれた床、そして開きっぱなしの裏口だけが残されていた。
「……なんでじゃ」
逃げられた。龍馬は怒りよりも、純粋な困惑で立ち尽くした。
「あいつら、借金奴隷だったろ。博打打ちのチンピラさ」
リサが煙管をくゆらし、冷徹な現実を突きつけた。
「借金奴隷だから真面目とは限らない。むしろ逃げ癖があるから、あんな所まで落ちる奴も多いんだよ。だから、みんな魔法で縛るのさ」
龍馬は深く、静かにショックを受けた。
「……次は、あたしも行くよ」
沈黙の後、リサが静かに言った。
「おまん……」
「“見る”なら、ちゃんと見な。アンタの目は綺麗すぎて、泥の中にいる人間が見えてないんだよ」
リサの言葉に、龍馬はゆっくりと顔を上げた。
ロビーに差し込む朝日は、半分だけ磨かれた大理石を虚しく照らしている。
『学んだか?』
ソファの皇帝龍が問いかける。
龍馬は静かに雑巾を拾い上げた。その瞳に絶望はない。ただ、異世界の深淵を正視しようとする、新たな覚悟が宿っていた。
「……人を見るんは、難しいのう」




