第十三話:可能性の灯
歓楽街の喧騒が、遠く潮が引くように引いていく。
元娼婦の女性に案内され、龍馬が辿り着いたのは酔街の最奥。大通りには面しているが、華やかな中心部からは一歩外れた、奇妙な静寂に包まれた場所だった。
「客商売には、中途半端な場所なんだよ。遊びに来る奴はもっと奥へ行くし、堅気の奴らは寄り付きにくい」
彼女が煙管で指し示した先。闇の中に、巨大な白亜のシルエットが浮かび上がった。
かつては夜を統べる女王のように光り輝いていたであろうその建物は、今や噴水は枯れ、窓ガラスは無残に割れ、死んだ巨獣のように横たわっている。
だが、龍馬の瞳には、絶望ではなく強烈な輝きが宿っていた。
重厚な扉を押し開けると、数年分の埃が舞い上がった。
その先に広がっていたのは、五階まで吹き抜けになった巨大なロビーだった。
大理石の床、天井から吊り下がった巨大なクリスタルのシャンデリア。各階を繋ぐバルコニー式の通路が曲線を描き、さながら宮殿のような威容を誇っている。
「…………ほぉ」
龍馬はしばらく無言で、その空間の広がりを見上げていた。そして、ぽつりと言った。
「こんだけ広けりゃ、皆で酒を振る舞うにゃあ、丁度ええ場所じゃのう!」
「酒? ……ここは他の客と顔を合わせたくない奴も多かったけどね」
彼女の言葉に、龍馬はニヤリと笑った。
価値観がズレているのではない。龍馬には、この場所の「新しい役割」が、すでに映像として見えているのだ。
龍馬の興味は、ロビー中央の止まった噴水へと移った。
「ここ、水が出るがか?」
「噴水自体は止まってるけどね。でも、上階の風呂用の水路の魔導具はまだ生きてると思う」
「各部屋に湯と水を回せるがか……! 革命ぜよ、こりゃあ!」
「大袈裟な人だねぇ。風呂見てそこまで喜ぶのかい?」
幕末時代、共同井戸や銭湯で暮らしてきた龍馬にとって、一部屋ごとに水回りが完備されているという事実は、魔法以上に驚異的な文明の利器だった。
龍馬は興奮を抑えきれず、次々と客室の扉を開けた。
ふかふかの豪華ベッドに座っては「沈んだ!」と喜び、個室の便所を見ては「誰にも見られず用が足せるがか!」と感心する。
「便所の後始末はどうするがじゃ?」
「下男が魔法の魔導具を使って回収して片付けるよ」
「魔法具か!? 商売っちゅうがは、こういう『裏方の仕組み』で決まるがぜよ」
最上階。そこはかつて「女王」が君臨した特別室だった。
天蓋付きの巨大なベッドに、街を見渡す大窓。テラスに出れば、侯爵領ガルガドの物流を支える灯火が、眼下に川のように流れている。
「えぇ眺めじゃ……」
「見慣れりゃそうでもないさ。……それより」
女性のトーンが落ちた。紫煙が夜風に流れる。
「アンタ。いい人そうだから言っとくけどね。ここはやめな」
彼女が語った廃業の理由は、残酷なまでに現実的だった。
「ここは歓楽街の外れ。向こうは堅気の世界で、人目がありすぎる。娼婦が客を誘うには不向きだった。さらに、後ろ盾だった用心棒組織が抗争で壊滅して、客引きの護衛も消えた。……こんな不便な場所で、どうやって娼館を続けるってんだい」
沈黙が流れる。しかし、龍馬の口から漏れたのは笑い声だった。
「なに言うちゅうがよ。……最高じゃないかよ!」
「……は?」
「歓楽街の真ん中じゃ、堅気は入り辛い。じゃが、ここは違う! 堅気の客も、遊び帰りの客も、両方拾える最高の立地じゃ! 設備も眺めもこれ以上はない。宿をやるにゃあ、これ以上の場所は天下に二つとありゃせんぜよ!」
「……旦那、本気なのかい。ここは元娼館なんだよ? 汚れた場所だって、嫌う奴は多いよ」
「なぁにが汚いんじゃ?商いなんじゃから、やるこたぁやるに決まっちゅう」
「あんた……」
「のう別嬪さんや……おまんには、この建物が何に見えちょるが」
「終わった娼館さ。時代遅れの遺物だよ」
「わしには違う。……わしには可能性に見えちょる」
龍馬はテラスの手すりを叩き、夜の街を見下ろした。
「こいつぁ化ける。……大化けするがぜよ!」
龍馬の熱量に、彼女は初めて言葉を失い、煙管を持つ手を止めた。
その時、龍馬はふと周囲を見渡した。
「そういえば、皇さんはどこへ行ったがじゃ……? 皇さーん!」
最上階の奥。最高級の天蓋付きベッドを覗き込むと、そこには。
子竜となった皇帝龍が、羽毛のクッションに深く、深ーーく埋もれていた。
黄金の眼を細め、喉をごろごろと鳴らし、これ以上なく「至福」といった顔をしている。
『…………良いな、この柔らかさ、神話の時代にも無かったぞ』
「おまん、そこで寝とったがか!!」
龍馬は再びテラスに立ち、夜風を吸い込んだ。
廃墟だった巨大建築に、龍馬の意志という名の新しい灯が点こうとしている。
(流れは止まっちょらん。ただ、行き先を失っちょっただけじゃ。……だったら、わしがその先を作っちゃる)
「――――ここから始めるぜよ。わしの『寺田屋』の幕開けじゃ!」




