第十二話:夜の街の灯
赤い灯籠が揺れ、甘い香木と安酒の匂いが混じり合う歓楽街の奥。
龍馬は娼婦に手を引かれ、石畳の喧騒を抜けた先に建つその威容を見上げて、思わず足を止めた。
「……なんじゃ、こりゃあ」
それは八階建ての、大理石を思わせる白亜の建築物だった。
各階には開放的なテラスが設けられ、大きな窓からは漏れる光が路地を照らしている。屋根の煙突からは、絶え間なく白い湯気が立ち上っていた。
昼間、龍馬を絶望させた薄汚れた宿屋とは、あまりにもかけ離れた「贅」の極み。
(……こりゃあ、宿じゃない。城のようぜよ)
龍馬の脳内にある「寺田屋」や「酢屋」のイメージを遥かに超える設備が、目の前に鎮座していた。
案内された館の内部は、さらに龍馬を絶句させた。
廊下にはふかふかの絨毯が敷き詰められ、防音に配慮された厚い壁が、外の喧騒を完璧に遮断している。
通された部屋の扉が開いた瞬間、龍馬の商人としての魂が激しく震えた。
部屋の中央には、人間が三人寝ても余りそうな大型のベッド。
部屋の隅には専用の浴室と、仕切られた個室の便器。
化粧台には曇りのない鏡が据えられ、柔らかなソファの向こうにはガルガドの夜景が一望できる窓。
「ま、中の上くらいの部屋だけどね」
娼婦が気怠げに言う横で、龍馬はベッドを指で押してみた。
「……沈んだ!? 雲の上を歩くとは、こういうことかえ」
「中の上」でこれならば、上はどうなっているのか。龍馬が問い詰めると、娼婦は面白そうに指を三本立てた。
「最上階はこの三倍の広ささ。専属の給仕が付いて、専用の浴場があって、景観は最高。……まぁ、あそこを使うなら一晩で金貨三枚は必要だけどね」
「き、金貨三枚ぃ!?」
「貴族様とか、大商人相手の場所だからねぇ。ここは」
龍馬は部屋を歩き回り、壁を叩き、浴室の湯を確かめた。
思考が加速する。
防音、個室、風呂、トイレ、高級寝具、そして接客のノウハウ。
(完成しちゅう……。わしがやりたかった「理想の宿」の形が、ここにあるじゃないか)
「おまんら、なんでこれを宿屋にせんがじゃ?」
龍馬の問いに、部屋の空気が凍りついた。
娼婦はぽかんと口を開け、数秒の沈黙の後に眉をひそめた。
「……いや、ここは娼館だよ? お兄さん、酔ってるの?」
今度は龍馬がぽかんと返す。
「いや、泊まれるがじゃろ?」
「そりゃ泊まるけど……」
「風呂がある」
「あるねぇ」
「飯も出せる」
「まぁね」
「部屋数もある」
「娼婦の数だけね」
「ほいたら、宿じゃろうが!!」
「いや娼館なんだってば!!」
この世界において、娼館は「夜の快楽を提供する特殊施設」であり、そこを「宿泊施設」として利用するという発想を持つ者は、一人もいなかったのだ。
龍馬は、その絶望的なまでの価値観のズレに、商売人としての勝機を見出した。
(競合がおらん……! 誰もここを『宿』として見とらんき!)
『……貴様、女を抱きに来たのではなかったのか?』
「そんな場合じゃなくなったがぜ!!」
翌朝。商業ギルドの受付嬢は、再び現れた龍馬を見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「……また貴方ですか」
「娼館を探しちゅう! 潰れてしもうた奴か、今使われちょらん空き物件を教えてくれ!」
龍馬の叫びに、ギルド内の商人が一斉に振り返る。冷ややかな視線と失笑。だが、龍馬は一歩も引かない。
「潰れてしもうた娼館! 大きゅう方がええ!」
受付嬢は頭を抱え、しぶしぶ資料をめくり始めた。
しばらくして、彼女は一枚の埃を被った書面を取り出した。
「……去年閉鎖された物件が一件だけあります。酔街の外れですが、内部事情が特殊で案内できる人間が限られますので、元従業員に連絡してみますので、あちらで少々お待ち下さい」
「世話になるのう」
「仕事ですので。しかし宿屋を諦めたかと思ったら今度は娼館の経営ですか。あまりお勧めできる職業ではありませんが、まぁそれは私がとやかく言うは事ではありませんけど」
「?おまん何か勘違いしとりゃせんか?」
「すいません。お引き取り願いますか。さぁ、次の方、どうぞ」
「お、おう。すまんかったの」
ロビーの端に移動した龍馬は静かに案内人を待っていた。
そんな龍馬の背後に現れたのは、首元に消えない火傷の痕を持つ、艶やかな美しい女性だった。
彼女は手に持った煙管をくゆらせ、気怠げな視線で龍馬を値踏みするように見た。
「……アンタが、『娼館をやりたいから見せろ』なんて言ってる、頭のおかしい男かい?」
「まぁちくと違うが、 話が早うて助かるぜよ!」
「……変な男だねぇ」
彼女は薄く微笑み、紫煙を吐き出した。
夕日が外壁に沈むころ、龍馬は元娼婦の女性に連れられ、酔街のさらに奥深くへと足を踏み入れた。
目の前に現れたのは、かつては光に満ちていたであろう巨大な廃墟だった。
割れた窓ガラス、閉ざされた重厚な扉、枯れた噴水。
だが、街路の魔光石に照らされたそのシルエットを眺める龍馬の瞳には、別の景色が映っていた。
客たちの笑い声、立ち上る白い湯気、銘酒の香り、飛び交う情報の渦、そして、絶え間なく流れる金と人の鼓動。
「……見つけたぜよ」
「何をだい?」
元娼婦の問いに、龍馬は確信に満ちた笑みを浮かべて答えた。
「次の時代の、入り口じゃ」




