#71 決勝──孔融
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曹操が席に戻る。
不機嫌そうに椅子に座ると、孔融を一瞥。
「やれやれ……だいぶやり辛くしてくれましたね」
その視線を受けて、苦笑しつつも歩み出る孔融。
次は、彼の手番だ。
「子供のように不機嫌を表せば“世論”が動くとでも? それとも、ただ会場の“熱”を削ぐための“奸計”でしょうか? 私に持っていかれるのを恐れたか……」
孔融は余裕の笑みを崩さない。
言葉はあくまでも丁寧で、弁は正しく聞こえる。それでいて、曹操の怒りを焚き付けるような嫌味を平然と吐く。
「ふん、大したものだな。ずいぶんと驕った考え方だ。貴様ごときを破るのに、“計”など要らぬ」
それに対する曹操も口は減らない。
だが彼の興味は既に孔融にはない。その視線の先にいるのは──“何進大将軍”。
何進はただじっと曹操を見つめ、やがて静かにその目を閉じた。
「すでに、我が“意”は成った」
曹操もそう言って目を閉じる。
「ははは、なんです。敗北宣言でしょうか? 我が詩を聞く前に随分と臆病なことだ」
孔融はまだ曹操を煽っているが、曹操はじっと動かない。
「ふむ。貴方が乗ってこないとつまらないですね。しかし、先ほどの詩は悪くなかったですよ。今度ぜひまた貴方と手合わせしたい」
「俺はもうお前に興味はない」
孔融の誘いは曹操に一言で打ち切られる。
孔融はつまらなさそうに肩をすくめると、今度こそ前を向いて歩き出した。その長い髪を靡かせて。
「私に興味がないなんて……言わせません。聞いていてください。必ず貴方を我が教理に振り向かせてみせます」
小さく呟いたその頬は赤く染まり、目は爛々と輝いている。
信念を通そうとする人の昂りは、どこか恋に通じるところがあると私は思う。
孔融のその中性的な容姿も相まって、なんだかまるで本当に……。
待って。何か気づいてはならないものに気づいてしまった気がした。
興奮した様子でそのやりとりを見つめる文姫の目と耳を、私はそっと塞ぐ。
(ねぇ。ちょっと、小紅さまっ……! もっと見たいんですけどっ!)
(だめ、文姫。それ以上言わないで、わかってるから)
こんなものを見せられるなんて思ってもみなかった。でも、これ以上は文姫の“成長”によくない。
……この都、想像よりずっと“濃い”わ。
そうしているうち、孔融が霊帝さまの前に跪く。
「それでは、次は孔融が詠ませていただきます」
「うむ、では朕の詩から」
そう言って、霊帝さまは孔融に向けた詩を詠みあげた。
『五行と五常に通じん孔子 教理に謳いし “徳”は尊き
然りとて “徳”は漢の教 異なる賊徒に通じんや
或いはまさに 今日の糧 その尽き果てんとせんが時
孔子の“孝”曰く “老”を救へ
然して国に 老兵溢れど 賊徒の勇に 勝つるべくなし
万事万世 唯一不変
其方の言に 偽なくば
内には病 外には患い
朕の抱くべき “徳”や如何に』
霊帝さまの詩は鋭かった。
これは、予選で孔融が詠んだ詩への更なる問いだ。
国内不安の排除と外敵への備え。その二つを同時に果たすことは難しい。
本当に孔子の言う“徳”こそが唯一不変の真理であれば、この難題にどう答える。
そう霊帝さまは問うている。
しかし霊帝さまが詩を終えても、孔融はしばらく顔を上げない。
理由はわからない。
「孔融のやつ。いったいどうした……?」
「詩が思いつかなかった? そんなことはないだろう」
ざわざわと、少しずつ会場に広がっていく動揺。
「……なんだ? どういうつもりだ……孔融」
我関せずと目を瞑っていた曹操ですら、痺れを切らして眉を上げる。
ついに霊帝さまが、声をかけようとした。まさにその時だった──
孔融が立ち上がり、手を叩く。
──パァン──
予選と同じ、孔融の一拍──会場に、また静寂が満ちる。
孔融はふうと大きく一息。静かに霊帝さまを見つめて言う。
「霊帝さま。いま会場に広がったこの動揺こそ、その答えにございます」
続いて詩を詠みはじめた。
『世の万物を成す理に五行 曰く 木・火・土・金・水
人の修むべき道徳に五常 曰く 仁・義・礼・智・信』
これも、予選と全く同じ。
だが、ここから孔融は違う詩を詠んだ。
『天子が“徳”は 臣たるものの“陽”なり
“陽”が満ちれば“陰”が止み “陽”が欠ければ“陰”が満つ
天子が“徳”を疑うは まさに“陽”の東から登るを疑うが如し
それ即ち 万事万世 唯一不変
その理を疑いしことこそ 民の不安を煽るものなり
明日も我らに注ぐ“陽”の 誰がそれをか疑わん
もし地に万難ありしとて その天道は揺らぐべくなし
礼は軍律 義は刃 徳は剣にも また輝く
天道揺らぎて人心乱る 人心乱れて国難を排せず
嗚呼我が君や いままさに 漢窮せしは其れが為なり
万人が知る 古き徳心 温故知新こそ 我が解なり』
孔融は静かに深く一礼。
彼の詩の主張はこうだ。
漢の国教でもある“儒教”の教えを疑うことは、太陽の道筋を変えるようなもの。
それでは人心は一つにならない。国内不安も外敵も、天の道を変えていい理由にはならない。
古い教えかもしれないが、いまは誰もが知る儒教の下に心を一つとすることこそが大切である。
それを論語の有名な一説、温故知新に準えて説いたのだ。
「……素晴らしい」
「ふむ。まさに正論にして解」
文官たちの唸り声。
「ああ、王よ。これぞ儒家の教え、真に鍛えるべきは……己自身の“心”なのかもしれませぬな」
霊帝さまの隣で聞いていた王允も、感心したように霊帝さまに話しかける。
「ほほ。……見事じゃ孔融。また一つ学ばせてもらったぞ」
静かに、しかし笑みをはらんで霊帝さまが言う。
「いいえ。私の言葉ではございません。全ては我が祖──孔子からの受け売りでございます」
そう言って、孔融は恭しく頭を下げた。
それと同時、会場に巻き起こる拍手と喝采。
中には、感動で涙しているものさえいた。
「ふう、なんて人なの。あんな難題に答えてしまうなんて」
お母さまも感心したように呟いている。
孔融はやがて満足そうに頭を上げ、紅潮した顔のまま曹操の方を向く。
しかし一瞬だけ目を合わせた曹操は、うんざりしたようにすぐその顔を逸らした。
(あの二人、やっぱりめちゃめちゃ尊いです〜!!)
それを見た文姫のテンションが、おかしな方向に振り切れている。
私も気にはなったけど、今はそれどころじゃない。
(ちょっと文姫、落ち着いて。いよいよお母さまの出番なんだからね!)
(ああ! そうでした!)
そう言って、私たちはお互いの手を握る。
“詩”はもうお母さまに渡してある。お母さまの目に宿った覚悟も消えていない。
だけど、最後にもう一度だけ。私はお母さまの袖に抱きついた。
ただ「私がついてる」と、そう伝えたかった。
柔らかな手が、私の頭を撫でるように通り抜ける。
その指先から一瞬だけ流れ込んできた、お母さまの五行。
優しく、包み込むように燃える“火”。
静かに微笑んだお母さまの表情は眩しい。だけど、本当は泣き出したいくらい不安なのもわかってる。
微塵もそう見えないのは、あの“戦化粧”のせいかもしれない。
(必ず、帰ってきてね)
聞こえていないのはわかってる。でも、思わずそう口にした。
なのに、お母さまは一度振り返って小さく言った。
「うふふ、ありがとう。行ってくるね」
お母さまが一歩を踏み出す。その向こうで、何皇后がはしゃいだように声をあげている。
霊帝さまがどこか挑戦的な笑みをお母さまに向けている。
ここからは、お母さまの戦い。
決勝戦が──始まる。
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