#69 ラブレター
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『春は過ぎ 夜に浮かぶは 初夏の月
然は然ればとて 翳りの宮に ただ眩しきは油灯のみなり
朕を酔わすは 天下の盃か 墨の香りか 琴の音か
蝶と聞ゆる其方の詩は その酔いをすら 遠ざけん
銀翅の衣 宙に舞い 黒にして朱が宵に咲く
天下の織は我が手にあれど 錦とするには 未だ玉を欠く
玉蝶出て 都を翔ぶも なぜ朕の側に在ざるか
朕を飾るは 位の玉か それとも そなたの言の葉か』
最後まで目を通したお母さまの額に汗。
霊帝さまの詩は直球だった。
誤魔化しを許さない。真っ直ぐで、真ん中。
霊帝さまは天子。文字通り、天下を手にしている。この漢で、自由にできないものなど何もない。
そんな彼がいま、「何故後宮に入内しないのか」とお母さまに問うている。
(これ……こんなの、予言のまんまじゃないですかっ!)
隣から覗き込んでいた文姫も憤る。
“恥”をかこうがかくまいが、霊帝さまの狙いは“最初からお母さま”だった。
未だお母さまの体面が保たれている分、余計にその執着は強いかもしれない。
(ええ、予言は変わっていない。つまり、この問いに辿り着くのもまた必然……ってことね)
私の額にも汗が滲む。
(でもでも、赤麗さまはどうなされるおつもりでしょうか!?)
(お母さまは“賢い人”よ。それに、“強い人”。だから……)
私は思わずお母さまの袖を握りしめていた。
それに気がついたお母さまが、またそっと頭を撫でてくれる。
「大丈夫。……大丈夫よ」
小さく口にするお母さま。でも、その声は震えている。
お母さまの視線が、ふと、お爺ちゃんの方へ向く。
その“迷い”に、気がついたのだろうか。
お爺ちゃんは手を口に添え、大きな声でこう言った。
「迷うな、“凛”とじゃ! お主らしくあればよい!」
「お父さま……」
お母さまは、きっと迷っている。
この誘いを断れば“董家がどうなるか”──賢明なお母さまにはわかってしまう。
竹簡の予言で霊帝さまの“問い”に答えたのは、“お爺ちゃん”だった。
きっと今回も、言葉に詰まればお爺ちゃんが“お母さまの代わりに”答えるのだろう。
そしてその先にあるのは──
私の身体から血の気が引いていく。
(文姫、ちょっと貸して)
そう言って、私は文姫の持っている筆と詠札を一枚抜き取った。
(な……何を)
(お母さまに、一言だけ)
お母さまに伝えておきたいことはこれだけ。
でも、これだけは伝えたい。私は筆を走らせる。
そしてその書き切った一文を、そっとお母さまの手元に滑らせた。
俯いていたお母さまが、指先に触れるそれに気がついた。
その瞬間、私の“手紙”に“色”が戻る。
『私がついてる。お母さまは渡さない。董家も潰させない。
──私たちを信じて』
お母さまの視線と指が、ゆっくりと文字を撫でていく。
その目にまた、少しずつ“赤い焔”が宿っていくのがわかる。
お母さまは小さく祈りのポーズをとると、目を閉じて私たちにだけ聞こえる声で言った。
「わかった。私の“答え”は、“お断り”。頼んだわよ……貴女たち」
解いていた髪を結え直すと、お母さまは立ち上がって、両手で自分の頬を張る。
ぱんという短い音。
その音に、お母さまの背後で周囲を警戒していた李儒が声をかける。
「く、黒赤蝶様……どうかなさいましたか?」
その表情はいつもと変わらなかったが、声には少しの戸惑いが混ざっていた。
「いいえ。ちょっと……なんだか弱気になってばかりの自分が許せなくてね」
お母さまはそう言うと、机の上に置かれた墨壺にそっと両手の指を伸ばす。
そして自分の瞼の上を撫でるように、ゆっくり指を滑らせた。
目の周りを縁どるアイラインが、そのまま“戦化粧”に変わる。
紅と混ざって黒炎のようにも見える化粧は、まるで戦いの前の“狼煙”
「……ふう、そうだったわ。“男を袖にする”のには、慣れてるんだった」
澄ました顔でそう口にしたお母さまは、もう“蝶”じゃない。
“涼州の牙”──そう呼ばれたお爺ちゃんの血を引く、“黒い狼”。
「さあ、上手に後腐れのないように……か。こんなの、久しぶりだわ」
そう言って笑うお母さまは、ドキドキするほど美しかった。
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