#61 孔子の末裔
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孔融の足取りは軽い。まるでその緊張を感じさせないほどに。
長く伸ばした髪はまるで女のよう。長いまつ毛から覗くのは、空のように澄んだ青。
その容姿に、女中たちは皆とろんとした目を向ける。
それとは反対に、酒を注がれていた武官たちは面白くなさそうだ。
「おい! 溢れてるぞ! ……っておい!」
「やめとけやめとけ。どうせ聞こえてねえよ、注目してんだから」
「っち。あの青瓢箪、気に入らねえぜ」
会場の方々からそんな声が聞こえてくる。
中央に進み出て、まずは霊帝さまに深く一礼。続いて観衆、そして左右の出場者の三方に一礼。
その所作は澱みなく、ただただ洗練されている。
「早くしろお!」
「そうだそうだ」
堪りかねた武官の数人が野次を飛ばすが、孔融は全く意に介した様子はない。
彼は目を瞑り、深く息を吸い込む。
そしてゆっくりと吐ききってから、ぽんと軽く手を打った。
──パァン
するとどうしたことだろう。あれほどまで喧騒に満ちていた会場の空気が、その一拍を境に一気に清廉に澄む。
──静寂。
そして彼はまたもう一つ大きく息を吸い込むと、大きく目を見開いて詩を詠み上げた。
『世の万物を成す理に五行 曰く 木・火・土・金・水
人の修むべき道徳に五常 曰く 仁・義・礼・智・信』
五常と五行……孔融の弁は、儒家の教理。孔融は、孔子から数えて二十代目の直系。
その身に脈々と受け継がれる清廉の血の為せる業か。
彼の持つ“雰囲気”に、会場全部が吸い込まれる。
『五行は巡りて国を潤し 五常が柱となりて世を支う
徳が満ちれば 文もまた 花開く
これ即ち 万事万世にして 唯一不変の真理なり
然れば世を治むるに まず徳を修めて臨むべし
君にありて徳を修むれば 臣にありて自ずと忠す
臣の忠はまた 民を安んじ 世に信巡りて漢の春を継ぐ』
孔融は深く一礼し、じっと霊帝さまの言葉を待つ。
「おお、これは……」
「霊帝さまの“文”を“徳”で返したぞ……」
騒いでいた武官を含め、観衆からも賞賛の声が上がる。
圧巻にして、圧倒的正統──その弁はまさにこの国の“国教”である儒教の真理を、そのまま詩にのせた霊帝さまへの忠言。
「見事じゃ孔融。このお題、孔子の直系である其方には少し簡単が過ぎたか」
「否、でございます。知る者がいつも“正しき道”を選べるとは限りませぬゆえ」
霊帝さまも満足そうな笑みで孔融に声をかける。
勝負あったか、誰もがそう思った。予選の通過枠はまだある。しかし、こうも完璧な詩を披露されては誰もそれに続こうとはしない。
──ただ一人を除いては。
「ふん。相変わらず固いな孔融。つまらん。“情”の無き詩に“美”などあるか」
そう言い放ったのは曹操。またしてもこの男だ。
「やれやれ。あなたはいつもそうだ。どうして私の教理を拒む」
孔融が振り返り、曹操を睨む。
「は、当然だろう。もう七百年以上も前の教理だ。その間に、この中華がどれだけ変わったと思っている」
「聞こえてなかったか? 言ったろう。孔子の教えこそ、“万事万世の唯一不変”と?」
「ふん。その傲慢で不遜な態度こそ、漢の変革を拒む“国家の病原”だと言っているのだ」
「あなたこそ、“変革”という聞こえのいい戯言で悪戯に世を乱すのはやめろ。それは“獣”のやることだ」
互いに徐々に歩み寄り、会場の中央で鼻を突き合わせて火花を散らす二人。
どう見ても穏やかじゃない。この二人は全く根本的に性質が合わない。
(しょ、小紅さま……)
私の横で、文姫が小刻みに震えている。
(文姫!? どうしたの文姫、怖いの?)
ふるふると二人を見つめる文姫の顔は、しかしどこか恐怖とはまた別の感情を宿しているように見える。
(す……)
(……す?)
(すっごくいいですあの二人! なんですなんです!? あの距離、あの温度感!? はわわァ〜耽美! 耽美ですう!!)
な、なんだコイツ……。一瞬、私は“前世”の文姫を思い出す。B L好きの彼女は、よくこんな顔で孫策と周瑜のやり取りを見ていた。文姫、お前までそんな……いや、でも今はそれどころではない。
(ちょ、文姫!? ねえ、大丈夫なの!?)
(はあい! もっちろんです! あの二人のばちばちを見て、俄然創作意欲が湧いてきましたあ!)
(そ、それはそれで……本当に大丈夫!?)
文姫は、言うが早いか床に突っ伏して筆を走らせ始めた。
こんなにノリに乗っている文姫は初めて見る。でも、いまは彼女の文才を信じるしかない。
それはそうなのだけれど……お母さまのかく“とんでもない大恥”って、まさか……この娘のせいでそうなるんじゃないでしょうね!?
そんなことを考えながら不安いっぱいで文姫を見ていると、文姫が不意に顔を上げた。
(なーに不安そうな顔してんですか小紅さま! 誰が大丈夫って言ったと思ってるんですか? 私は“蔡文姫”……いずれこの中華に、初めて偉大な“女性文学者”として名を残す女です!)
いや、それは……本当にそうなのだけれど。
──やっぱり、ホントに大丈夫なの!?
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