変わった世界
綾はスマホの画面に視線を落とした。
聖域と現実世界では、時間の流れが違う。
その事実を知っていても、いざ数字として目にすると妙な感覚が残る。
「……三時間、か」
光の戦士からは、丸一日にも及ぶ修行を受けた。
それでも現実世界では、たった三時間しか経っていない。
聖域で少し休んだが、体の奥に沈んだ疲労は抜けていなかった。
汗ばむ肌を流したくなって、綾は風呂場へ向かった。
湯船に身を沈めると、温かな湯がじわりと肩まで包み込む。
張りつめていた神経が少しずつ緩み、思わず息が漏れた。
手のひらに湯をすくう。
揺れる水面に、自分の顔が歪んで映った。
その顔を見つめたまま、綾は静かに指先へ力を込める。
すると、掌の内側から淡い光がこぼれ出した。
光は細く伸び、やがて一本の剣の形を成していく。
ルミナリアから与えられた、聖剣。
その重みと輝きが、ただの武器ではないことを物語っていた。
修行だけでは足りません。
実戦も行いなさい。
多くの魔を祓い、人々の命を助けなさい。
それが、貴女の使命です。
ルミナリアが発した言葉が、静かに蘇る。
風呂から上がり、ひと息つこうとした、その瞬間だった。
スマホが鳴る。
鋭く、短い警告音。
非常事態を知らせる、見慣れたアラーム。
魔物が町の中に出現したという知らせだった。
しかもここは田舎だ。
人手は足りない。
頼りの自衛隊も、すぐには来られない。
つまり、誰かが今すぐ動かなければならない。
綾は迷わなかった。
動きやすい服に着替え、窓を開ける。
夜の冷たい空気が流れ込んだ次の瞬間、背中から光の翼が広がった。
そのまま、夜空へ飛び出す。
田舎の夜は暗い。
街灯の少ない道は、闇が濃く沈んでいる。
だが綾の目には見える。
魔物も、人も。
夜という暗闇は、彼女の視界の妨げにはならない。
光をまとった聖剣を抜き放ち、魔物の群れへと急降下する。
一筋の閃光が地面に落ちた、そう見えた次の瞬間には、魔物の姿はもうなかった。
――弱い。
綾は心の中で、静かに呟く。
反応する間もなく、次々と斬り伏せられていく魔物たち。
まるで包丁で絹豆腐を切るように、手応えがなかった。
綾は町の上空を縦横無尽に飛び回り、魔物を一体ずつ駆逐していく。
しかし、彼女の中に湧くのは達成感よりも、ゲームをしているような感覚だった。
その時、破裂音がいくつか耳に届く。
綾は目を見開き、音のした方角へ視線を向けた。
誰かが戦っている。
急いで向かうと、そこにいたのは勝樹だった。
銃を構え、冷静に狙いを定め、迫る魔物を次々と撃ち抜いている。
「勝樹!」
名を呼ぶと、勝樹もこちらを見た。
「綾。」
魔物を最後の一体まで片づけると、二人は向き合った。
「危ないよ?」
「誰かがやらないといけないだろ。」
「……そうだね。でも…。」
綾はそれ以上、言葉を続けられなかった。
胸の奥にある何かが、喉の手前で止まってしまう。
気まずい沈黙。
その空気を壊したくて、綾はふと思い立った。
そして、すぐに心の中で強く願う。
――ルミナリア様、お願いします。
――勝樹に、ご加護を。
周囲が、たちまち光に包まれる。
「これは……」
勝樹が周囲を見回し、目を細めたその時だった。
「ルミナリア様……それに、エスペリア様。お願いします。勝樹にご加護を!」
綾は深く頭を下げる。
勝樹も、それに合わせるように姿勢を正した。
光の中に、二つの神気が現れる。
エスペリアは楽しげに笑い、ルミナリアは小さく息をついた。
「久しぶり〜。うん、いいよ。ね?」
「仕方ないですね」
ルミナリアの手とエスペリアの手から、光の球体がゆっくりと浮かび上がる。
それは穏やかな軌道を描きながら、勝樹の胸元へと向かった。
だが――。
球体は、そこで止まった。
勝樹の身体へ入ることなく、光は霧散する。
同時に、聖域の空間に、ひび割れたガラスのような音が響いた。
「ちょっと! ルール違反よ!」
エスペリアの声が、怒りを帯びて鋭く響く。
「無断で他の神の聖域に干渉して、加護スキルを妨害するなんて! どういうつもり?」
割れた空間の向こう側で、赤い瞳がわずかに覗いた。
「やめなさい」
ルミナリアが低く制した。
「どうしてよ! これは審議にかけるわ!」
だがルミナリアは答えない。
ただ静かに、その赤い瞳を一度だけ見つめると、勝樹へ視線を戻した。
「どうやら、貴方に力を与えることはできないようですね。」
その声は氷のように冷たかった。。
「それでは、ごきげんよう。」
次の瞬間、綾と勝樹の身体は強制的に聖域の外へ弾き出された。




