変わった世界
白亜の神殿は、壁も、柱も、床も、すべてが淡い白に統一され、天井の高みから差し込む光はやわらかく拡散している。
空気は温かい。
肌に触れるたび、まるで薄い絹が撫でていくように心地よい。
聖域という言葉は、きっとこういう場所のためにあるのだろうと、綾は思った。
本来なら、そこに満ちているのは、かすかな水音と、祈りにも似た沈黙だけのはずだった。
だが今、その静寂を切り裂いているのは、耳を劈くような激しい金属音だった。
透明な硝子を思わせる剣と剣がぶつかるたび、火花の代わりに淡い光の粒が飛び散る。
砕けるのは鋼ではなく、光そのものだ。
神殿の白さの中でも美しい。
綾はその中央で、何度も何度も斬り込んでいた。
相対しているのは、歴代最強と謳われた光の戦士。
だが、正確に言えば、戦っているのは綾だけだった。
彼は受け止めない。
ただ、最小限の動きで綾の剣筋を逸らし、まるで子どもの遊びに付き合うように、あまりにあっさりと捌いていく。
綾の身体が、うっすらと光を帯びる。
身体強化。
魔力を巡らせ、身体能力を一時的に引き上げる魔法だ。
踏み込み。
斬り上げ。
横薙ぎ。
さらに速度を乗せて、綾は畳みかける。
動きは速い。
自分でもそう思う。
けれど光の戦士の前では、その速さすら届かない。
彼は微動だにせず、綾の連撃の合間を縫って、静かに口を開く。
「まだ甘いな。身体強化の効率が悪い。」
低く、落ち着いた声。
叱責というより、淡々とした指摘だった。
「それに、目だ。視覚への強化が足りない。踏み込みは悪くないが……。」
言葉が終わるより先に、綾は渾身の斬り下ろしを放った。
だが次の瞬間、光の戦士の剣がするりと潜り込み、綾の腹部へ深く差し込まれる。
「…カウンターを食らう。」
「っ……!」
息が、止まった。
腹の奥を抉られるような痛みが全身を駆け抜け、綾の額に熱い汗が滲む。
身体の芯から力が抜けていく。
それでも、血は出なかった。
剣は肉を裂いていない。
ただ、そこにあるはずの傷つく感覚だけを、正確に刻みつけてくる。
綾は崩れ落ちるように床へ膝をついた。
光の戦士はそれを見届けると、静かに剣を下ろした。
「少し休め。」
そう言って、彼自身も神殿の床に腰を下ろす。
戦士というより、長い時を知る教師のような所作だった。
綾は痛みを堪えながら、荒い息を整える。
やがて呼吸が落ち着いてくると、訝しげに顔を上げた。
「……不思議ですね。」
光の戦士が視線だけで促す。
綾は、自分の腹に手を当てたまま続けた。
「痛みはあるのに、この剣は傷つけないんですね」
彼は小さく頷いた。
「本物の剣で斬られた時の、半分ほどの痛みしか与えない。ここは神の聖域だが、だからといって死を無かったことにはできない。死ねば終わりだ。」
その言葉に、綾は息を呑んだ。
「……死んだら、終わり?」
たったそれだけのことが、ひどく重く胸に落ちる。
戦いとは、傷を負うことでも、痛みに耐えることでもない。
死ぬかもしれない場所へ、自分の身体を投げ込むことなのだ。
誰だって、死ぬのは怖い。
綾は唇をわずかに震わせ、絞り出すように尋ねた。
「……死んだら、生き返れないんですか?」
光の戦士は少しだけ目を伏せた。
その沈黙は、答えを探したものではない。
すでに知っている真実を、あえて言葉にするための間だった。
「時間を巻き戻せる神なら、あるいは可能だろう。だが、そんな権能を持ちながら、それを軽々しく行う神は俺の知る限りいない。」
淡々とした声音だった。
だがその奥には、何百年、何千年という時を見てきた者だけが持つ、冷えた重みがあった。
「そもそも、神には神の制約がある。万能ではない。だから簡単に生き返らせることはできない。神々にも、守るべきルールがある。」
綾は黙って聞いていた。
神は何でもできるものだと、どこかで思っていた。
祈れば救われる。
願えば叶う。
そういう、都合のいい存在だと。
けれど、目の前の光の戦士はそうではない。
強大で、絶対的で、そしてどこまでも制限された存在だった。
綾はふと、初めてこの光の神ルミナリアに会った日のことを思い出す。
あのとき彼女は、静かな声で言ったのだ。
巫女になりなさい、と。
「……巫女って、なんですか?」
光の戦士は綾の問いを聞くと、少しだけ表情を和らげた。
「巫女とは、神との繋がりが強い者のことだ。聖域に入れるのは巫女だけ。そして、他の者よりも多くの力を授かる。」
綾はその言葉を噛みしめるように、白い床を見つめた。
神に選ばれた者。
力を与えられる者。
そして、この場所に立つ資格を持つ者。
胸の奥で、何かが静かに形を変え始めていた。
「……私は、その巫女になれるんでしょうか?」
その問いに、光の戦士はすぐには答えなかった。
ただ、神殿に差し込む柔らかな光が、二人の間に静かに降り積もっていく。
そしてやがて彼は、まっすぐ綾を見て言った。
「なれるかではない。なりたいかだ。」
綾は息を呑む。
痛みはまだ腹に残っている。




