384.目を開けてよ
春希は胸に手を当て、想像してみる。
――もし、あの時隼人に出会わなかったら。
――もし、掴んでくれた手を振り払っていたら。
おそらく誰にも心を開くこともなく、あの家で1人のまま、無味乾燥な日々を送っていたに違いない。
母とも荒波を立てず、顔を合わすことも、こうして話すこともないまま疎遠になっていく。
そして大人になってどこかへ勤め、人と交わらず淡々と凪いだ日々を何の感動もなく過ごすのだろう。
だけど、今はもう違う。目を瞑れば大切な人たちが脳裏に浮かぶ。
これまで彼らと紡いだ色んな出来事が、今の春希を形作っている。
これからもきっと色んな人との出会いがあって、様々なことを経験を重ねていく。
春希の周りには、頼りになってお節介な多くの友人がいる。
だから春希はどこか自慢するように、母へ告げた。
「ね、お母さん。僕ね、たっくさん友達ができたんだ。ひめちゃんに沙紀ちゃん、みなもちゃんに恵麻ちゃん、森くんに、海童もいれていいかな。それから、好きな人も!」
すると真央は少し驚いたように目を丸めた後、ひどく優しく慈しむように微笑む。
「そう、よかった。あなたはもう、私が守らなくても大丈夫なのね」
「うん。辛い時や困った時は寄り添ってくれて、頼れる人たちがいるから。芸能界でも変な人に絡まれることあるけど、そっちでも相談したり助けてくれる人もいるし」
「ふふっ、いいわね」
「えへへ」
「……あなたにはホント、どうすればいいか悩まされたのよ。本人に言うことじゃないけど、妊娠した時も産むかどうか迷ったし。結局、あなたの父親――桜島清辰への何かあった時の脅す材料的な打算的な意味で産んだの。我ながら酷い母親ね。」
「でも、産んでくれたからこそ、ボクは大切な人たちと出会えた。お母さんにもこうして会えた。だから、あり、がと……」
「……春、希」
春希が嘘偽りのない心からの感謝を伝えると、真央の頬につぅと涙が伝う。
にこりと微笑む春希に、真央はグラスを置いて人差し指で涙を拭いながら、まるで懺悔するかのように言葉を吐き出す。
「ダメね。あなたがあの撮影で一人前になったのを見せつけられてから気が緩んで……本当は最後まで嫌な母親を演じ切ると決めてたのに。娘にそんなことを言ってもらう資格とか、ましてや嬉しいと思ってしまうなんて許されないのに……」
「お母さん、でもこれからはっ」
春希は真央の告解を許し受け入れるかのように、その手を取って握りしめる。かつて、隼人がそうしてくれたように。
しかし真央はそれを拒絶するかのように小さく頭を振った。
「ごめんなさい。もうダメなのよ」
「どうして」
「時間が残されてな――けほっ、けほけほっ、ごほっ……」」
「…………え?」
真央はいきなり口を押さえ、カウンターに突っ伏すように咽返った。
咳は中々収まらず、やがて嗚咽も混じる。
その背中はやけに弱々しい。
春希はわけがわからず、ただおろおろするばかり。
やがて咳が収まり、顔を上げた真央の口の端に朱い滴が滲むのが見え、春希は信じられないと瞠目する。
薄暗い部屋と化粧でわからなかったが、よくよく見れば真央の顏は血の気が引いており、明らかに病人のそれ。
記憶を浚っても、真央が大病を患っていたという報道何て思い当たらず、困惑が加速していく。
真央は声を絞り出すようにして、春希へ告げる。
「告げられた余命から、もう1年以上過ぎてるわ。医者が言うには、今生きてるのが不思議なくらいだって」
「ま、待って」
「あなたの扱いに困った私は、母であることよりも女優を選んだ。あなたには母として何もできなかった。せめて憎まれて、いなくなってせいせいした、解放されたと思われようとして……それなのに、最後に母で居たいと思ってしまった」
「うそ、だよね……演技だよね? これからもボクのお母さんでいてよ、タチの悪い冗談はやめてよ!」
真央の言葉を認めたくない春希は、震えた声で懇願する。
その真央は春希へゆっくり手を伸ばし、頬に手を添えて呟く。
「春希、私の遺産は相続しないでね。借金もあなたへ引き継いじゃう。今住んでるあの家の名義は桜島清辰だから、私がいなくなってもあのまま住めるはず」
「い、いきなり相続とか名義とか言われてもわかんないよ! ボクまだ高校生だよ!」
「もう、高校生なのね……春希」
「な、なに?」
「私の分まで幸せになって」
「っ」
そう言って真央はギュッと春希を抱きしめる。その顔はまぎれもなく、娘のことを想う慈愛に溢れる母の顏だった。
香水と酒の混じった匂い、思いのほか骨ばった身体、そしてじんわりと感じる熱。聞き取れないような、微かな鼓動。
やがてふいに真央の力が抜け、春希へ寄りかかってくる。
春希はそこで母を抱きとめ返し、涙交じりの声をリビングに響かせた。
「ねぇ、止めてよ。目を開けてよ、お母、さん……っ」




















