382.おかえり/ただいま
映画の撮影から数日、春希の仕事もオフのある日の放課後。
春希は都心の誰もが名前を知っているハイグレードで有名な街の、あるタワーマンションに訪れていた。
入口から全容を把握するように見上げると、首が痛くなるほど高く大きい。
エントランスも広く、吹き抜けで解放感があり、洗練されたデザインの調度品も置かれ高級ホテルさながら。カフェも併設されているので、余計にそう感じてしまう。
「……ここでいいんだよね?」
圧倒された春希は、つい腰が引けた様子で恐々と呟く。
もしやと思ってスマホで確認するが、ちゃんとここで合っている。
ふぅ、と落ち着かせようと小さく息を吐く。豪華な待合室もありちらほら人を見かけるが、誰もがオシャレかつハイブランド品を身に付けており、制服姿の春希は場違い感を否めない。
しかし、大女優田倉真央の居住する場所としては至極妥当な場所だろう。
どうしてここへやってきたかというと、母親である真央から、改めて話がしたいと招かれたからだ。
撮影ではあの後、ちゃんと台本通りのものも撮り直したが、結局最初のアドリブのものが採用されることになった。
監督的には本当はずっと寂しいと言いたかったのを、過去の自分に教えられ、それを受け入れることで成長し、一歩踏み出すものと解釈したようだ。
春希としても方向性は変わるが、物語として整合性が取れていると思う。
しかし正直なところ、あのアドリブで最後の方は完全に素の自分を曝け出して泣きじゃくったものなので、恥ずかしいものがある。隼人からも、盛大な母娘喧嘩だったなと揶揄われた。それにもう一度アレを演じろと言われても無理だ。そもそも演技ではない。もっとも、そのリアリティこそが監督に刺さったというのもわかるのだが。
しかし、今日こうして2人で話す機会を得たのも、あの撮影のおかげだ。
春希は色んな意味で緊張しながら、指示にあったコンシェルジュデスクへ向かう。
「すみません、今日4102号の田倉と16時頃に伺うと約束していた、二階堂と申しますが……」
「っ、……少々お待ちください」
すると春希の顔を見たコンシェルジュが一瞬目を大きく見開くものの、すぐさま内線を繋いで4102号の住人と連絡を取る。春希の知るマンションの概念が変わりそうだ。
ややあってコンシェルジュは受話器を置いた後、とあるカードキーを差し出した。
「これをお使いください。お帰りの際にこちらに寄って返却を。エレベーターは右手奥の方のものになります」
「ありがとうございます」
春希は丁寧に頭を下げカードキーを受け取り、セキュリティを解除しながらマンション内へと足を踏み入れる。そしてエレベーターでもカードキーが必要だったり、特定の階層には停まったりしないことにも驚きつつ、41階へ。
内廊下のカーペットのふかふかさに驚きつつ、4102号室の前に立つ。
春希はここにきて、ひどく緊張している自分に気付く。
喉だってカラカラだ。そのくせ背中には変な汗。
話をすると言っても、今さらどういう態度で何を話していいかわからない。
それだけ母との接し方がわからなかった。
また一番言いたいことは、撮影の時に演技を通じて既に伝えている。
一体、これ以上何を話すことがあるというのか。
とはいえ、ここでずっと立ちっぱなしでいるわけにもいかない。
春希は3回深呼吸をした後、意を決してインターホンを押す。
ピンポーンという音が響く。同時にバタバタという足音。
ややあって扉が開き、真央が顔を出した。
「いらっしゃい」
「っ、えぇっと……」
真央は赤ら顔だった。瞳は潤み、吐く息は酒臭い。何とも隙の多い姿だ。着ているものはばっちりオシャレにしているだけに、余計にだらしなく見える。
まさか自分の母親が夕方から酒を呑んで迎えるとは思わず、意外な真央の姿にどう反応すべきかわからず、春希は曖昧な笑みを浮かべ戸惑う。
すると真央はそんな春希の様子を見ておかしいとばかりにくすくすと笑い、自嘲めいた声で言う。
「ふふっ、なんか柄にもなく緊張しちゃって、素面で話せそうになくてね」
「は、はぁ……」
「とにかく上がって……あー――」
そう言って春希を手招きした真央は、くるりと背を向け耳を真っ赤にしながら、気恥ずかし気に呟いた。
「ここは『おかえり』って言うところだったかしら?」
「っ!」
一瞬、虚を衝かれたように目を丸くする春希。
それが母なりに先日言った自分の願いに応えようとしてくれたことに気付いた後、じんわりと胸を熱くさせ、そして春希もまたはにかみながら呟いた。
「うん……『ただいま』」




















