7 火領の領主と配偶者
「結婚」
「ええ」
いったい何を言っているのだ、とマティアスは混乱しながら口を開く。
「……ジークハルト様は」
そして出てきたその名に、マティアスはいっそ消えたくなった。なんでここで彼の名を出してしまうのだ。
マティアスの焦りを知ってか知らずか、ゲルトルートは首を傾げた。
「領主に複数の配偶者がいるのは珍しいことではないでしょう。そうね、ジークが第一配偶者、あなたが第二配偶者という形になると思うけど」
「第二配偶者」
思わずおうむ返しをした。状況が具体性を帯びてマティアスに迫る。
「だめかしら?」
ゲルトルートがちょっと不安げに頭を揺らす。珍しい表情だと思った。出会ってこのかた、この人はいつも自信に溢れた表情をしていたから。
うーん、と彼女は考えるような顔をする。
「わたくしとしては、あなたにはこのまま火領にいてもらいたくて。ここもちゃんと火領の農業研究所にして、あなたに責任者になってほしいのよね」
責任者、の言葉にマティアスは瞬きをした。
「年齢や火領の農業への従事歴からすれば、ケネスさんがふさわしいのでは?」
「ケネスは研究の方に注力したいのですって。まあ、今の農業班は農業かその研究に没頭したい人の集まりだから、希望を取ればそうなるわよね」
「……私もできればそうしたいんですが」
ゲルトルートが微笑む。
「あなたも研究をしたい人なのはわかっているわ。でもあなたが私の夫で火領の領主一族であれば、研究所に対して色々と手が回しやすいの。なんなら補佐という形で人をつけて、あなた自身は研究に没頭できるようにすることもできるわ」
ゲルトルートのその提案に、マティアスの心のどこかが軋んだ。
「目に見えて成果が出れば、研究所を農産物省として火領の行政に組み入れる。そうすれば運営のための人も予算もきちんとつけられるわ」
「……私はお飾りですか」
少し尖ったマティアスの声に、ゲルトルートが瞬きをする。
たぶん、ゲルトルートがマティアス自身を欲しいといってくれたのなら、それは飛び上がるくらい嬉しかったはずだ。
それが結婚ではなく、研究所の責任者として正式に火領にきてくれ、という話だったとしても、マティアスの努力や成果を認められたことを純粋に喜べただろう。
けれど、領主の夫という地位が新しい機関の長として「都合がいいから」という理由でゲルトルートの夫に収まるというのは納得がいかなかった。
「それが私である必要がありますか? 領主の夫が長であることが必要というなら、ジークハルト様の名前だけおいてもいいのでは?」
ゲルトルートが首をかしげる。
「勘違いだったらごめんなさいね。あなたは、わたくしのことを好きだと思っていたのだけれど」
顔面に一気に血が上った。
「……あの、それは」
そんなマティアスを見て、ゲルトルートは微笑んだ。
「勘違いでなかったみたいでよかったわ」
言葉が出てこずマティアスが口をぱくぱくとさせている。それを見て、ゲルトルートは畑のよく育った葉に軽く触れた。
「必要性についていうなら、あなたを正式に火領の所属にするということ。そろそろ土領も、領主の従弟を返せって言ってきそうなのよね」
マティアスは目を瞬かせた。そんな話は聞いていない。
「でもわたくしはあなたを返したくないと思ったの。土領を批判するつもりはないけど、あなたはここで楽しそうにやっているし、こうやって結果も出してくれたし」
くるりとゲルトルートがマティアスに向き直る。
「あなたが研究を続けたいなら、火領で今まで身につけた技術を活かすのはどうかしら。わたくしと結婚すれば、今なら火領の実験畑と研究所が、農業研究班員付きでついてくるわよ。火領の土壌改良の結果を広めるには数年かかるでしょうし、並行して魔害除けの作物や灰除けの工夫も考えていると聞いたけど」
「……聞いたって、どこからです?」
「研究班から嘆願書ね。彼らからも、講師殿にまだ教わり足りないから、どうか火領に引き留めてほしいって」
「だから、私と結婚を?」
結婚についてマティアスに話すゲルトルートの表情は晴れやかだ。
……けれど。
「ゲルトルート様にとって、ご自分の結婚は領のための手段なのですか?」
ゲルトルートが瞬きをした。
「否定はしないわ。貴族の結婚には多かれ少なかれそういう部分があるでしょう」
「……でも私は、あなたには幸せでいてほしい」
領主というのが決して自由な身でないのは、傍系であったマティアスですら骨身に染みてわかっている。制限も負担も大きく、いざという時は領のために身を捧げる覚悟を持つ、そんな領主を務めることが決まっている彼女に、せめて家庭では安らぎを、愛する人と得てほしいと、そんなふうに思ってしまう。
うつむいているマティアスに、ゲルトルートが瞬きをする。
「マティアス殿には、わたくしが幸せでないように見えるのかしら」
マティアスは言葉につっかえた。
「……お幸せなように見えます。ジークハルト様と、お子様方に囲まれて」
そうね、とゲルトルートが微笑む。
「では、マティアス殿といるわたくしは、幸せでないと思うの?」
問いかけに、マティアスは完全に言葉に詰まった。ゲルトルートを、幸せにする?
「ジークも子どもたちも、私にはかけがえのないものだけど。でも、私は欲張りなの」
ゲルトルートが一歩、マティアスとの距離を詰めた。
「今持っているものはとても大事だけれど、もう一つ欲しいものができたときに、手を伸ばしてはいけないということはないでしょう?」
手を伸ばせば触れられるほどの距離で、ゲルトルートはそんなことを言う。
「欲しいもの、って」
うーん、とゲルトルートが首をかしげた。
「もう一つ、勘違いがありそうね。あなたのことを好きでなかったら、わたくしは結婚なんて申し込まないわよ」
「——っ」
マティアスは無言でその場にうずくまった。顔が熱い。今聞いたのは現実だろうか。自分に都合の良い夢を見ているのではないだろうか。
「マティアス殿?」
うずくまったまま下を向いているマティアスの前で、ゲルトルートがしゃがみ込む気配がする。
「……私は、あなたの役に立ちたいんです」
「なら、わたくしの側にいてもらえるかしら。あなたはわたくしの役に立つし、必要だし、それにわたくし、あなたの農業に熱心で頑固な感じのところが、すごく好きなの」
恐る恐る顔を上げれば、ゲルトルートがとびきりきれいに微笑んで、マティアスを見ていた。
マティアスは思わず唾を呑む。
「……私は多分、ずっと誰かに必要だと言ってほしかったんです。統承の控えでもお飾りの責任者でもない、私のことを」
ゆっくりと息を吐く。
「……でも今は、誰かじゃなくて。私は、あなたの役に立ちたい」
ゲルトルートが笑う気配がした。
「ではマティアス殿。わたくしと結婚してくれる?」
再びそう尋ねられ、マティアスは今度こそうなずいた。




