4 火領の農業研究班
「……はあ」
マティアスが火領に来てから一月が過ぎた。
四領を囲む山脈のうち、火領山脈では今も時折火山活動が起きる。気候は土領とそう変わらないほど暖かいのだが、全体的に土に栄養が少なく、たまに灰が降ってくる。
もちろんそんな特色なりに育つ作物はあるのだが、火領では魔害も多い。四領の魔害駆除を受け持つ役割もあり、領内の意識が農業より魔害駆除に向くのは当然の流れでもあった。
ふと思い出したのは、マティアスを捕らえた枯死蔦を焼き尽くしたゲルトルートの炎だ。土領の出身として農業を軽視するつもりは全くないが、それはそれとして子どもがどちらに憧れるかといえば狩師だろう。
「マティアスさん、戻ってきてー」
窓の外の、赤く色づく葉っぱをぼんやりと見ていたマティアスは、呼びかけの声にはっと意識を戻した。
「あ、起きてた」
呼びかけてきたのは、マティアスの呼ばれた火領の農業研究班の若手であるヨハンだ。火領の上級学校の学生だが、火領では珍しく農業を専門に学び、この研究班での活動を実習扱いとしているらしい。班員たちに教えを乞いながら自分も実験をする傍らで、雑用なども一手に引き受けてくれている。
「すまない、何か?」
「土領の神殿からお手紙です」
「ありがとう」
マティアスが火領にきてしばらくして、リュカから手紙が届いた。正直驚いた。彼は、自分のことをよくは思っていなかっただろうから。
手紙は軽く近況を尋ねるものと、ベルネ村の研究所が改装され、所員も入れ替わった旨が簡単に書かれていた。
気遣いがとてもありがたかったのだが、その頃はまだゲルトルートに夫と子どもがいたことの衝撃から抜けきっていなくて、なんと返事をしたか正直覚えていない。
この手紙がそれに対するリュカの返事だとしたら、自分はよっぽど泣き言でも書いてしまったのだろうか、とちょっと不安になりながら封を切る。
「……」
「どうかしたんですか?」
「いや、神官というのはおせっかいだなと思って」
便箋を軽く振ってみせた。そこにはひたすら、土の民が他領に行った時の懐郷病の兆候と初期の対処法について書き連ねてあった。そして、火領の神殿にいる知り合いに連絡をしておくから、何かあったら訪ねるように、と。
「神官様と仲良しだったんですね!」
ヨハンの感想にマティアスは苦笑する。しょっちゅう研究所に来て魔力植物の記録や畑の魔力濃度やら属性値やらを確認しては、マティアスにここの記録が足りない、この数値は危険である、安全対策に疑問があると口うるさく言う彼と仲良しだったかと言われれば疑問が残る。向こうだってそうだろう。
ただ、遠い地の自分を気にかけてくれるのが、たとえ天氏族の使命ゆえだとしても、素直に嬉しかった。
「あれ? マティアスさん、裏にもう一枚張り付いてるみたいです」
「え?」
便箋を裏返した拍子に張り付いていた紙が剥がれ、床に落ちたそれをヨハンが拾った。自然とその字が目に入った。
「……」
「あの、ごめんなさい」
無言になったマティアスに、ヨハンが思わずと言ったふうに謝った。
──失恋とは人生における大きな悲しみであるが、時がいずれ癒してくれる。
──あなたは何かに没頭する質だから、興味深い火領の農作物を早く見つけることを推奨する。決して自棄にならないように。自分を大切にしなさい。
改めてリュカの無表情を思い出す。彼は神官ではあるが、おそらく街の相談役には向いていない。その彼が一生懸命こんな文章を書いてくるなんて、自分はいったい前回どんな手紙を出したのだろうととても不安になった。
◇◇◇
リュカの勧めを真に受けたわけではないが、マティアスは気持ちを新たに火領の土壌研究に没頭するようになった。
火領山脈から降る灰を含む土壌は水捌けが良い。火領でも昔から芋類や豆類は多く植えられているのだという。斜面のある土地には果樹園も多い。ただこれには注意が必要で、作物を荒らす動物や魔力生物が出るのだそうだ。
……害獣や害虫を寄せない方向の研究も需要がありそうだ。
非常に興味を惹かれるが、土領の専門家として呼ばれた手前、わかりやすい結果を出すならやはり土壌の研究だろう。
灰が降る地域ということで土地がそもそも痩せているのかと思ったが、昔から農業をしている地域の土地は、ちゃんと黒く肥えた土壌だった。そこには火領の主要な作物の芋類が主に植えられている。
昔からの農地に関しては記録も多く、農法も確立しているので、ここにマティアスが首を突っ込むのは難しい……というか、まだ早い。
目に見える形で収穫量を上げるなら、もう少し灰が多い地域の赤土の改良だろうか。
今あまり使われていない土地が畑として利用できるようになれば、収穫量も将来性も売り込みやすいだろう。
「まずは豆類が定石だが……」
マティアスは手を止めて、資料整理を頼んでいたヨハンを振り返る。
「ヨハン。火領では若い豆は食べるか?」
「若い豆? エンドウやソラマメでしょうか。水の季には市場に出ますけど、やっぱりちょっと高級品ですね」
「ふむ」
火領で栽培する農作物の主流は芋や根菜で、葉物野菜は少なく高級になる傾向がある。豆類もそれらの合間に育ててはいるが、若いうちに食べるより成長させて保存食や加工品にすることが多いのだろう。
今回土壌改良の一環として植えるなら、土の季のうちに畑を作り、風の季を越して水の季の若いうちに豆を収穫する。その後、暑くなる火の季にかけて収穫後の根や残った茎や葉を畑にすき込んでいくのはありかもしれない。
「……」
マティアスが魔術で眠っている土を起こせば、一回目の収穫は問題ないはずだ。しばらくは豆を中心に、土壌が良くなってきたら他の作物に移行してもいい。灰には強い種類が向いているだろうが……。
「……神殿案件だな」
土を起こす──マティアスたち土属性を持っている土領の民が畑を作る時に行う、農業用地への魔術による働きかけだ。他領では肥料を混ぜたり休ませたりして数年かかるという土壌の変化を、土領では土魔術で促進させている。
単純に土を固めたり柔らかくしたりする魔術とは違い、知識をもとにどんな変化を起こすかをしっかり意識せねば成功しないので、土領でも地匠と呼ばれる専門の職人に弟子入りしたり、上級学校で知識と魔術の使い方を系統立てて学んで免許をとった者だけが使える上級魔術だ。
免許を取っても勝手に土を起こすことはできず、畑であればその土地の役所と神殿に届けなければならない。新しく開墾した土地にそれを行うとなれば場所、面積、目的とする作物、魔術の規模、その他色々と分厚い申請書を地匠の免許を添えて出す必要がある。
「火領ではその辺りの法はないみたいなんだけどな」
農地を管理する火領の法をまとめた本の表紙を撫でる。土領のそれよりだいぶ薄い。それは農業に関する領の意識の差でもあるし、単純に土魔術の使用が想定されていないせいでもあるのだろう。
ただ、ないから勝手にやっていいというわけでもあるまい。そもそも土魔術による土壌改良の促進ができることを、土領の民以外に伝えてもいいのだろうか。
……そしてゲルトルートは、土魔術やそれらの規制についてどれだけのことを知っていて、マティアスにどこまでを求めているのか。
「直接話さないと、無理だよな……」
マティアスは音もなく突っ伏した。会いたくない。いや、本当は会いたいのかもしれない。でも現実を直視したくない。
唸り声を上げるマティアスをヨハンや他の研究員が同情のこもった眼差しで見ていた。
◇◇◇
現在使用されていない赤土の土地に豆を植えて土壌改良の実験をしたい、と班員に相談すれば、優秀な彼らはあっという間にゲルトルートとの面会の手筈を整えた。というか、マティアスが唸っている後ろで手回しを始めていた感がある。
そしてゲルトルートもあっさり「そっちで直接詳細を聞く」と返してきたらしい。ずいぶんと腰が軽い統承一位だ。他領に狩師隊を率いてくるくらいなのだから、これくらいは散歩みたいな感覚なのかもしれない。
「腹が痛くなってきた」
「はいはい」
「腹ですか? 胸でなく?」
「マティアスさん、資料まとめましたよ。こっちが火領の豆の耕作地ごとの収穫量、こっちが実験畑の目星です」
「ほら、あったかいお茶淹れたから一回飲んで落ち着きなさい。風領の香草茶よ」
「神殿から借りた土壌研究の本もこっちに置きますか?」
「ゲルトルート様にお出しするお菓子ってこれでいいでしょうか」
マティアスの複雑な思いをよそに、周囲はゲルトルートを迎える準備を着々と進めている。
「……皆さんだって張り切ってるじゃないですか」
「だってゲルトルート様がいらっしゃるんでしょう? あの方は我々の恩人ですからね」
「農業分野を拾ってくださって、お抱えの研究班を作ってくださって」
「火領では、武芸の素養がないと肩身が狭いですからね」
さらりとそんな言葉をこぼしたのは、この研究班の班長であるケネスだ。
「武器を持つより農具や書物が好きだなんて変わり者だって、みんな一度は言われたろ」
班員に向けた言葉に笑い声が上がる。
「そんなの一度じゃ効きませんね」
「変わり者って思われるくらいなら別にいいんですけど、狩師の家の長子だったりするとまあ針の筵っていうか」
「軟弱者ってひそひそされたりとかね。切って終わりの狩師とは直面する問題が違うんだって話ですよ! 植えても植えても気温の変化と大雨と灰に出来が左右される農家の苦労の上にみんなの食事があるのに!」
ヨハンの声に熱が入ると、周囲がまあまあ、と宥めに入る。
「落ち着け落ち着け」
「気持ちはわかるが、他の職業と対立するような言い方は避けた方がいい」
マティアスは苦笑した。
「その辺りは土領とは逆だな。狩師になりたがる子供を、なんでそんな危ないことをしたがるんだって周囲が諌める」
みんながきょとんとした顔でマティアスを見た。
「そりゃまた極端じゃないですか?」
「農業や家業が大事なのはそうですけど、誰かが狩師になって魔害を退治しなきゃ、いつ畑が荒らされるかわからないのに」
「そうなんだけどね」
土領だって狩師が尊敬されていないわけではないが、「自分たちのやる仕事」という意識が薄いのだ。それはそれで構わない。それをやろうとする人間を邪魔したり後ろ指を指したりしないのであれば。
「まあそんなわけで」
ケネスが仕切り直す。
「ゲルトルート様は領主一族としても狩師としても、火領でもっとも尊敬される立場なわけです。そのゲルトルート様が、普段いまひとつ重要性を理解されない農業分野に目を向けてくださり、仕事をしやすいように環境を整えてくださったり必要な援助をしてくださる。それが我々にとっては、とてもありがたいわけです」
誰かの言った恩人、という言葉にマティアスはうなずく。ケネスが続けた。
「最近でいうなら、土領の専門家の方を連れてきてくれたってのが一番大きいですね。さすが土領の持ってる知識や発想は本当に勉強になります」
「いや、それは……」
マティアスとて、彼らの研究や実験にかける姿勢には頭が下がる思いである。農業に向かないと言われる土地での苦労は、マティアスの経験してきた苦労とはまた違うはずだ。
気を取り直したらしいヨハンがマティアスに向かってにこりと笑った。
「本当に、土領の領主一族の方ぶんどってくるとか、どうやったんだろうって思ってたんですよ」
「ぶんどるって」
マティアスは苦笑した。
「だって他領で暮らすって、体調のことはもちろん、気候や文化の違いも大変じゃないですか。それを乗り越えて火領に来ることを即決するくらい、ゲルトルート様が魅力的だったんだなって」
「……」
いや、魅力的だったのは火領へのお誘いであって。即決したのは研究所を辞めさせられた状況のせいだし。
「ゲルトルート様がご結婚されてること知っても自棄にならなかったし」
……恩人が結婚してたからっていちいち自棄になっていたらおかしいだろう。
ケネスがなんだか慈愛のこもった目でマティアスを見た。
「ゲルトルート様に憧れるのはみんな同じですからね、大丈夫ですよ」
大丈夫だって何がだ。マティアスは息を吐いた。
「……腹が痛いです」
そもそも大丈夫でないかもしれない、とマティアスは腹に手を当てる。
「そりゃ大変だ」
「お腹温めますか?」
この流れで優しくするのはやめてほしい、とマティアスは思った。




