3 火領へ
「マティアス殿は土領の農業研究所の所長をされていたのでしょう? 火領でも、農作物の収穫量を増やす工夫を始めたいと思っていますの。土領の農業の専門家から、火領の農業に意見を頂ければ、火領としても助かります」
「お、お待ちください!」
ゲルトルートの提案に、法務官は慌てたように言い訳した。マティアスは領主一族としての責任者として所長の任に就いたのであって、土領における農業の専門家というわけではない、と。
彼女は不思議そうに首を傾げる。
「でも、ご自身で土壌改良のための研究をなさっていたのですよね? 枯死蔦の研究と利用を考えるほど」
押し黙った土領の面々の前で、ゲルトルートはにこりと笑った。
「土属性の方にとって火領で暮らすというのは体の負担も大きいでしょうけど、それに関してはこちらもできる限り支援をしますわ。どの道しばらく謹慎をされるというのでしたら、謹慎場所が火領になってもよろしいのでは? もちろん、マティアス殿の働きの成果に関しては土領にもお返ししますとも」
法務官が何か言おうとする前に、ゲルトルートは笑みを深めて言った。
「差し当たっては、研究所の枯死蔦の駆除費など」
……それは実質、マティアスを火領によこすなら、指定魔害生物である枯死蔦の増殖なんていう不祥事にこれ以上つっこまないでいてやろう、という提案であった。
法務官はかろうじて「一度持ち帰ります」と言ったが、予想通り、その日のうちにマティアスに火領への出向命令が出た。
ひとまず謹慎期間として一年を目安に、火領の農業研究班に参加するように、と。
◇◇◇
マティアスの火領行きはゲルトルートたち火領の狩師の帰路に同行することになったため、準備は慌ただしいものであった。あまり時間を置いて誰かの気が変わったり、余計なことを喋られると困る勢力があるのだろう。
出立前、土領現領主のマルグリットから私的な手紙が届けられた。火領滞在中の体を気遣うものと、従姉として気にかけている、という内容だった。妊娠中で体調を崩している彼女に心配をかけたことは申し訳なく思った。
……とはいえ、正直なところ、火領に行くことには期待もあった。
お飾りとして何もさせてもらえなかった土領での研究所とは違い、火領の跡取りから直々に見出されて研究班に招聘されるというのは、マティアスの自尊心を十分に慰撫するものであった。
自分の知識が火領の農業の発展に役立つかもしれない、必要とされるかもしれないというのは、土領で梯子を外された形になった責任感を奮い立たせた。
「こちらの予定に合わせてしまって申し訳なかったわね。移動で体に負担などは出ていない?」
何より、道中で何くれとなくゲルトルートが気にかけてくれる事は、マティアスの内心に何かが芽生えるのに十分であった。
休憩の時などゲルトルートは必ずマティアスに声をかけ、今までほとんど無視されてきたマティアスの研究内容を、赤い目を輝かせながら熱心に聞いてくれた。
道中、土領と火領の境を超えてしばらく、夜営中に野犬の群れが現れた。
群れの上げる唸り声に飛び起きたマティアスの足は、野犬がこちらを囲もうとしているのを見てとって情けなくも震えたが、そこにさっと部隊の若手がきてくれた。
「火領に入ったので獣も増えますが、大丈夫です。この部隊は火領で一番強いですから」
そういう彼の視線の先には、休む時の軽装のまま、ゆったりと群れの前に進み出るゲルトルートの後ろ姿があった。
「あぶな──!」
思わず声を上げかけた口を若手がふさぐ。
ゲルトルートがスラリと腰に帯びていた剣を抜いた。先日、マティアスの頭上を通り過ぎて枯死蔦を払った、銀の輝き。火領にしか許されぬ、生き物と戦うための道具。
それをいっそ無造作に体の前に構えたかと思うと、次の瞬間剣が燃え上がった。いや、鉄でできているのであろう刀身はわずかに赤くなるのみで焼け落ちはしない。けれどそれに纏わせるように、燃料もないのに炎がゲルトルートの手元から、野犬の群れに向かって燃え盛る。
ゲルトルートに対していた野犬が、炎に恐れをなすように後ずさる。ゲルトルートはその一歩を詰めると、軽く剣を振り下ろした。
炎が夜闇に軌跡を描き、野犬に襲いかかる。それを見た群れは鳴き声も立てずに闇の中へ散り散りに逃げていった。
ゲルトルートが軽く剣を振ると炎は消え、周囲にまた闇が戻った。
「みんな、問題はない?」
ゲルトルートの声に、周囲から応の声が上がる。
「マティアス殿は?」
名を呼ばれ、マティアスはハッと立ち上がった。
「だ、大丈夫です」
ゲルトルートがマティアスに視線を向け、にこりと笑った。
「よかったわ」
それに、マティアスはうなずくことも忘れて立ち尽くしていた。先ほどの若者に声をかけられるまで、マティアスは自身の天幕に戻っていくゲルトルートの後ろ姿をじっと追っていた。
自分の命も立場も救ってくれたこの人の役に立ちたい。この人の隣に立てるくらいになりたい。
そんな夢想は、火領の領都に入った直後に木っ端微塵に砕かれた。
「ゲルダ、よく帰ったな! 待ちかねたぞ!」
狩師一行と領都に入ったマティアスの目に飛び込んだのは、統承一位率いる狩師の凱旋を迎える領都の住民たちと、それからゲルトルートに似た色合いの赤い髪の、偉丈夫の姿であった。
ゲルトルートがぱっと笑顔になって駆け寄っていく。
「ジーク、ただいま。みんなに変わりはない?」
「うむ、みんな元気に過ごしていたぞ。ヒルデは夜になると多少母を恋しがっていたが、ステラとリヒャルトがよく面倒を見てくれた」
「お母様!」
続いて後ろから、やはり赤い髪の子どもが二人、ゲルトルートに走り寄ってくる。ゲルトルートは二人をまとめて抱き上げた。
「ステラ、リヒャルト、お留守番ご苦労様。お父様のいうことをよく聞いていたかしら?」
「はい!」
「いい子にしてました!」
「ヒルデは?」
「直前までは自分もお母様を迎えに行くと言っていたのだが、待ちきれなかったようで眠ってしまったのでな。乳母に預けてきた」
ふふ、とゲルトルートが笑う。
「それでは目を覚ます前に帰らないと大変ね」
「……あの」
家族の再会を呆然と眺めながら、マティアスはつぶやく。
「あの方々は」
狩師たちからマティアスに、同情するような視線が集まる。ボソリと口を開いたのは、狩師隊の副隊長だ。
「ゲルトルート様のご夫君とお子様方だ」
やっぱり、という気持ちと、どうして、という思いが同時に湧き上がった。
「……ご結婚、されてらしたんですね」
「うん、まあ……」
「やっぱり知らなかったんですね……」
「我々も、ちょっとマティアス殿に対して隊長の距離が近いとは思っていたんだが……その、大丈夫か?」
「今、大丈夫じゃなくなりました」
マティアスの命の恩人は、とても幸せそうな笑みを浮かべている。それはこの数日見つめていた彼女の表情の中で、一番きれいな笑みだった。




