第四話 変わらぬ味と距離感
東京に戻ると、歩く速さが揃っていた。
改札を抜ける流れ。
エスカレーターの立ち位置。
視線の向き。
どれも無駄がない。
綾乃も、その中に自然と収まる。
迷いはない。
考えすぎる余地もない。
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翌日の夜、取引先との会食が入った。
店は先方の指定。
都内でも評価の高い一軒だと聞いている。
入口で名前を告げると、すぐに席へ案内された。
照明は柔らかく、空間は整っている。
音も匂いも、過不足がない。
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「本日はありがとうございます」
形式の整った挨拶。
会話は、淀みなく始まる。
案件の進行、スケジュールの確認。
論点は整理され、やり取りは正確だ。
綾乃は、適切なタイミングで言葉を返す。
外さない。
それが求められている。
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料理が運ばれてくる。
皿の上は、美しく整っている。
説明が入り、グラスが置かれる。
「こちら、華やかな香りが特徴でして」
軽く頷く。
香りを確かめる。
果実のように明るい。
一口。
舌の上を滑るように広がり、すぐに整う。
「……美味しいですね」
自然に言葉が出る。
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料理に手を伸ばす。
火入れは適切で、味のバランスも崩れない。
酒と合わせても、輪郭ははっきりしている。
非の打ち所がない。
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「この店は、間違いないですよ」
相手が言う。
綾乃は頷く。
「ええ」
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その言葉に、違和感はなかった。
むしろ、正しいと思える。
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会話は続く。
必要な確認を終え、次の話題へ移る。
流れは、滞らない。
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ふと、グラスに視線が落ちる。
透明な酒が、静かに揺れている。
もう一口。
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美味しい。
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それは、間違いない。
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その瞬間。
わずかなズレを感じた。
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ほんの一瞬。
それでも、確かにあった。
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何かが違う、というほどではない。
ただ。
どこかが、かみ合っていない。
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皿を見る。
料理は、整っている。
説明された通りの味。
想定された通りの仕上がり。
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それを、正しく味わっている。
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そのはずだった。
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それなのに。
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手が、ほんのわずかに止まる。
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「どうされました?」
相手の声で、意識が戻る。
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「あ、いえ……」
小さく笑う。
「美味しくて」
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嘘ではない。
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会話に戻る。
流れは変わらない。
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それでも。
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さっきの感覚だけが、どこかに残る。
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食事が終わり、店を出る。
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夜の街は、明るい。
人の流れは途切れない。
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綾乃は、その中を歩く。
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スマートフォンを取り出す。
投稿画面を開く。
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言葉は、すぐに浮かぶ。
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——美味しかった。
——さすがの一軒。
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それを書けば、問題はない。
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数秒、画面を見つめる。
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そのまま、閉じた。
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書けないわけではない。
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ただ、書かなくてもいい気がした。
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歩きながら、ふと別の光景が浮かぶ。
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静かな店。
控えめな灯り。
隣で、誰かが静かに話していた。
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あのときの味。
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強くはない。
けれど、どこかに残る。
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足が、ほんの一瞬だけ止まる。
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すぐに、また歩き出す。
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何かが違う。
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はっきりとは言えない。
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けれど。
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同じはずのものが、少しだけ違って見えた。
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それだけは、確かだった。
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その違いが、何なのか。
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まだ、言葉にはならない。
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ただ。
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もう一度、確かめてみたいと思った。




