第五話 冬の温度
東京に戻ってから、数週間が過ぎた。
仕事は、いつも通りに進んでいる。
会議も、提案も、滞りはない。
問題は、ない。
⸻
思い出す。
静かな店。
強くはない味。
言葉にならないまま残った、あの感覚。
⸻
デスクの上で、手が止まる。
⸻
なぜか、少しだけ気になった。
⸻
もう一度、行ってみようと思った。
⸻
予定表を開く。
空白に、カーソルを合わせる。
⸻
行き先は、岡山。
⸻
入力して、確定する。
⸻
翌日。
「今週末、少し外します」
⸻
「了解です」
同僚は画面を見たまま答える。
「何かあれば、こちらで回しますね」
⸻
「助かります」
⸻
それで終わる。
理由は聞かれない。
⸻
仕事は、回る。
⸻
誰かがいなくても、問題はない。
⸻
綾乃は、画面を閉じた。
⸻
週末。
倉敷に着く。
冬の空気が、静かに冷たい。
⸻
足は、迷わなかった。
⸻
暖簾に手をかける。
わずかな重み。
⸻
くぐる。
⸻
からり、と音がする。
⸻
「いらっしゃい」
⸻
その声と同時に、店の奥へ視線が流れる。
⸻
カウンター。
⸻
そして。
⸻
「……あ」
⸻
隣の席に、美咲がいた。
⸻
「また来たんですね」
⸻
その一言で、わずかに力が抜ける。
⸻
「ええ」
⸻
案内されて、その隣に座る。
⸻
しばらくして、気づく。
⸻
何も出てこない。
⸻
コースも、順番もない。
⸻
ただ、そこにメニューがある。
⸻
綾乃は、短冊を見る。
⸻
分からない。
⸻
少しだけ考えて、顔を上げる。
⸻
「……この時期、このあたりで美味しいものって、何ですか」
⸻
自分から、尋ねる。
⸻
店主が、静かに答える。
⸻
「今日は、寄島の牡蠣がいい」
⸻
それだけ。
⸻
美咲が、少しだけ言葉を足す。
⸻
「今、すごくいいですよ」
⸻
「甘みもありますし、旨味も強いです」
⸻
少し間を置いて。
⸻
「賀茂緑とか、合いますよ」
⸻
綾乃は、カウンターを見る。
牡蠣。
酒。
⸻
少しだけ考える。
⸻
「……じゃあ、それにしてみようかな」
⸻
「牡蠣と、賀茂緑」
⸻
「はい」
⸻
皿が置かれる。
湯気が、静かに立ち上る。
⸻
一口。
⸻
やわらかく崩れる。
濃い旨味。
その奥に、静かな甘み。
⸻
そして、遅れて。
磯の香り。
⸻
思わず、息が止まる。
⸻
もう一口。
⸻
今度は、はっきりと分かる。
⸻
酒を口に含む。
⸻
ほどける。
⸻
消えない。
⸻
重なる。
⸻
「……本当に合うんですね」
⸻
「はい」
美咲が頷く。
⸻
「こういうの、地元だと当たり前なんですけど」
⸻
「外にはあまり出ていかないんです」
⸻
綾乃は、もう一口食べる。
⸻
さっきよりも、自然に入ってくる。
⸻
「……こういうの、好きかもしれません」
⸻
ぽつりと、言う。
⸻
美咲が、少し笑う。
⸻
「分かります」
⸻
「私も、最近そう思うようになってきているんですよ」
⸻
静かな空気。
⸻
綾乃は、グラスを持つ。
⸻
ゆっくりと、口に運ぶ。
⸻
落ち着く。
⸻
安心する。
⸻
聞いて、考えて、選んで。
⸻
それが、こうして繋がる。
⸻
その感覚が、静かに胸に落ちていく。
⸻
無理がない。
⸻
ただ、自然に満たされる。
⸻
それでいいと、思えた。
⸻
ふと、隣を見る。
⸻
美咲と目が合う。
⸻
少しだけ間があって。
⸻
「……また、この店で会えますかね」
⸻
静かな問い。
⸻
綾乃は、頷く。
⸻
「……そうですね」
⸻
「また、この店で」
⸻
「ぜひ」
⸻
短い約束。
⸻
外は、冬の夜。
⸻
この場所だけが、静かに温度を持っている。




