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「変わらぬ味と距離感」  作者: るんたま
3/5

第三話 隣にいる人

 店内は、思っていたよりも静かだった。


 カウンターと、小さなテーブルがいくつか。

 席はまばらに埋まり、声は低く抑えられている。


 食器の触れる音が、ときおり空気に混じる。


 それだけで、十分だった。



 綾乃は、案内されたカウンターに腰を下ろす。


 木の感触が、わずかに手に残る。



「おひとりですか」


「はい」



 短いやり取り。


 それ以上、踏み込まれない。



 壁には、手書きの短冊が並んでいる。


 “ままかり酢”

 “小イワシ天ぷら”

 “イカナゴのくぎ煮”



 どれも、聞き慣れない。



 写真もない。

 説明もない。



 何を頼めばいいのか、すぐには分からなかった。



 短冊を順に眺める。



 決め手がない。



 選ぶ理由が、見つからない。



「初めてですか」



 横から、声がした。



 柔らかく、落ち着いた声。



 視線を向けると、隣に座っていた女性がこちらを見ていた。


 同じくらいの年齢だろうか。


 派手さはないが、整った印象。



「あ、はい……」



「分かりにくいですよね」



 少しだけ笑う。



「私も、最初は困りました」



 その言い方に、どこか力が抜ける。



「出張ですか」



「ええ……仕事で」



「ですよね。この時間にこの辺にいる人、だいたいそうなので」



 自然な言い方だった。


 決めつける感じはない。



「よく来られるんですか」



 綾乃が聞くと、女性は少しだけ考える。



「最近は、たまに」



 少し間を置く。



「前は、あんまり来なかったんですけど」



「そうなんですか」



「ずっとこの辺にいると、逆に来ないんですよね」



 軽く肩をすくめる。



 冗談のようでもあり、本音のようでもあった。



 店主が、静かに皿を置く。



「ままかりです」



 それだけを言って、下がる。



 綾乃は、少し躊躇してから箸を伸ばす。



 一口。



 軽やかな酸味。


 やわらかな旨味。



 思っていたよりも、静かな味だった。



「……」



 もう一口。



 今度は、少しだけ輪郭が見える。



「それ、好きなんです」



 隣から、声がする。



「最初、ちょっとびっくりしませんでした?」



「ええ……もう少し強い味かと思ってました」



「分かります」



 女性は、静かに頷く。



 その反応に、少しだけ安心する。



 グラスの酒を口に含む。



 派手ではない。


 だが、やわらかく広がる。



 さっきの料理と、自然に繋がる。



「観光で来る人って」



 女性が、ぽつりと言う。



「だいたい、決まったところに行きますよね」



「……ええ」



 思い当たる。



「有名なところに行って、紹介されたものを食べて」



 少しだけ間を置く。



「それも、いいと思うんですけど」



 視線が、少しだけ揺れる。



「でも、ここって」



 そこで一度、区切る。



「自分が食べたいのはこれ、って、素直に出してもいい店なんですよね」



 柔らかい言い方だった。



 押しつける感じはない。



 ただ、そう感じている、というだけ。



 綾乃は、手元の皿を見る。



 ままかりが、少し残っている。



 もう一度、箸を伸ばす。



 一口。



 さっきよりも、味がはっきりしている気がした。



「……難しいですね」



 思わず、言葉がこぼれる。



「はい」



 女性は、短く頷く。



「私も、まだよく分かってないです」



 少しだけ笑う。



「こういうのがいいのか、そうじゃないのか」



 視線を、グラスに落とす。



「前は、分かりやすい方がいいと思ってたんですけど」



 そこで言葉を止める。



 続きは言わない。



 店の中は、静かなままだった。



 誰も急がない。


 誰も、何かを押しつけない。



「美咲です」



 ふと、女性が言う。



「あ……佐伯です」



 短く名乗る。



 それで、十分だった。



 グラスの酒が、少し減っている。


 料理も、少しずつ進んでいる。



 何かが大きく変わったわけではない。



 それでも。



 ほんの少しだけ。



 さっきまでとは違う場所にいるような気がした。



 まだ、はっきりとは分からない。



 けれど。



 この感覚は、嫌ではなかった。


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