第三話 隣にいる人
店内は、思っていたよりも静かだった。
カウンターと、小さなテーブルがいくつか。
席はまばらに埋まり、声は低く抑えられている。
食器の触れる音が、ときおり空気に混じる。
それだけで、十分だった。
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綾乃は、案内されたカウンターに腰を下ろす。
木の感触が、わずかに手に残る。
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「おひとりですか」
「はい」
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短いやり取り。
それ以上、踏み込まれない。
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壁には、手書きの短冊が並んでいる。
“ままかり酢”
“小イワシ天ぷら”
“イカナゴのくぎ煮”
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どれも、聞き慣れない。
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写真もない。
説明もない。
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何を頼めばいいのか、すぐには分からなかった。
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短冊を順に眺める。
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決め手がない。
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選ぶ理由が、見つからない。
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「初めてですか」
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横から、声がした。
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柔らかく、落ち着いた声。
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視線を向けると、隣に座っていた女性がこちらを見ていた。
同じくらいの年齢だろうか。
派手さはないが、整った印象。
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「あ、はい……」
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「分かりにくいですよね」
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少しだけ笑う。
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「私も、最初は困りました」
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その言い方に、どこか力が抜ける。
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「出張ですか」
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「ええ……仕事で」
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「ですよね。この時間にこの辺にいる人、だいたいそうなので」
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自然な言い方だった。
決めつける感じはない。
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「よく来られるんですか」
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綾乃が聞くと、女性は少しだけ考える。
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「最近は、たまに」
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少し間を置く。
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「前は、あんまり来なかったんですけど」
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「そうなんですか」
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「ずっとこの辺にいると、逆に来ないんですよね」
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軽く肩をすくめる。
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冗談のようでもあり、本音のようでもあった。
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店主が、静かに皿を置く。
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「ままかりです」
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それだけを言って、下がる。
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綾乃は、少し躊躇してから箸を伸ばす。
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一口。
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軽やかな酸味。
やわらかな旨味。
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思っていたよりも、静かな味だった。
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「……」
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もう一口。
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今度は、少しだけ輪郭が見える。
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「それ、好きなんです」
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隣から、声がする。
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「最初、ちょっとびっくりしませんでした?」
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「ええ……もう少し強い味かと思ってました」
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「分かります」
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女性は、静かに頷く。
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その反応に、少しだけ安心する。
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グラスの酒を口に含む。
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派手ではない。
だが、やわらかく広がる。
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さっきの料理と、自然に繋がる。
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「観光で来る人って」
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女性が、ぽつりと言う。
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「だいたい、決まったところに行きますよね」
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「……ええ」
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思い当たる。
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「有名なところに行って、紹介されたものを食べて」
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少しだけ間を置く。
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「それも、いいと思うんですけど」
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視線が、少しだけ揺れる。
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「でも、ここって」
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そこで一度、区切る。
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「自分が食べたいのはこれ、って、素直に出してもいい店なんですよね」
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柔らかい言い方だった。
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押しつける感じはない。
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ただ、そう感じている、というだけ。
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綾乃は、手元の皿を見る。
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ままかりが、少し残っている。
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もう一度、箸を伸ばす。
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一口。
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さっきよりも、味がはっきりしている気がした。
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「……難しいですね」
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思わず、言葉がこぼれる。
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「はい」
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女性は、短く頷く。
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「私も、まだよく分かってないです」
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少しだけ笑う。
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「こういうのがいいのか、そうじゃないのか」
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視線を、グラスに落とす。
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「前は、分かりやすい方がいいと思ってたんですけど」
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そこで言葉を止める。
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続きは言わない。
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店の中は、静かなままだった。
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誰も急がない。
誰も、何かを押しつけない。
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「美咲です」
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ふと、女性が言う。
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「あ……佐伯です」
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短く名乗る。
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それで、十分だった。
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グラスの酒が、少し減っている。
料理も、少しずつ進んでいる。
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何かが大きく変わったわけではない。
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それでも。
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ほんの少しだけ。
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さっきまでとは違う場所にいるような気がした。
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まだ、はっきりとは分からない。
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けれど。
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この感覚は、嫌ではなかった。




