第二話 暖簾の向こう
今回の出張は、直前に決まった。
地方企業との新規案件。
規模は大きくないが、継続すれば広がる余地はある。
「一度、現地を見ておきたいんだよね」
上司は、資料を軽く叩きながら言った。
綾乃の名前が挙がるのに、特に理由はなかった。
調整役。
初動の整理。
外さない人間が行けば、それでいい。
「分かりました」
そう答えたとき、迷いはなかった。
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新幹線の窓の外で、景色がゆっくりと変わっていく。
高層の建物が減り、空が広がる。
綾乃は、手元の資料に視線を落とした。
企業概要。課題。提案の方向性。
どう組み立てれば通るか。
それを考えるのは、もう習慣になっている。
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打ち合わせは、滞りなく終わった。
想定した範囲内で話はまとまり、大きな齟齬もない。
帰り際、相手先の担当者が言った。
「せっかくですし、少し倉敷も見ていかれては」
柔らかな提案だった。
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「いえ、大丈夫です」
綾乃は軽く会釈する。
「明日も予定がありますので」
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実際には、調整はできた。
だが、無理に変える理由もない。
観光は、仕事とは別のものだ。
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外に出ると、すでに夜だった。
駅前は思っていたよりも明るい。
アーケード商店街の灯りが続き、人の流れも途切れていない。
飲食店の呼び込みが、遠慮がちに混じる。
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食事には困らない。
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綾乃は足を止め、スマートフォンを取り出す。
検索画面を開く。
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「倉敷 ディナー」
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評価、写真、ランキング。
整った情報が並ぶ。
どれも見慣れた形式だった。
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安心できる。
外れない。
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どの店を選んでも、大きな失敗はない。
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画面をスクロールする。
綺麗に撮られた料理。
丁寧に書かれたレビュー。
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その中で、指が止まる。
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理由は、はっきりしない。
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どれを選んでもいいはずだった。
それで問題はないはずだった。
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それでも。
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数秒、画面を見つめたまま動かなかった。
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綾乃は、スマートフォンを閉じる。
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顔を上げる。
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アーケードの灯りが、均一に続いている。
分かりやすく、選びやすい場所。
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そのまま進めば、迷うことはない。
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視線を、少しだけ横にずらす。
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脇道がある。
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アーケードから一本外れた細い通り。
人の気配は、ほとんどない。
灯りも少なく、奥は暗がりに沈んでいる。
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ほんの気まぐれだった。
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理由と呼べるものは、特にない。
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それでも。
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綾乃は、その通りに足を向けた。
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一歩入る。
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空気が変わる。
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ざわめきが遠のき、足音だけが残る。
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整えられた通りとは違う、少し不揃いな景色。
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歩く。
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どこへ向かっているのかは、分からない。
それでも、足は止まらなかった。
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しばらく進んだところで、視線が止まる。
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通りの奥。
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ぽつんと、小さな灯り。
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近づく。
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暖簾が、静かに揺れている。
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派手な看板はない。
控えめな光が、内側から滲んでいるだけ。
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綾乃は、足を止めた。
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木の板に書かれた文字を読む。
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――瀬戸内の魚と地酒
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情報は、それだけだった。
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価格も分からない。
雰囲気も想像しにくい。
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評価も、レビューもない。
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——分からない店。
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少しだけ息を吐く。
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ここに入る理由は、特にない。
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入らない理由なら、いくつも思いつく。
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時間を無駄にするかもしれない。
合わない可能性もある。
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視線を外す。
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少し戻れば、明るい通りに出る。
そこには、選びやすい店が並んでいる。
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間違えない選択。
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それでいいはずだった。
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それでも。
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もう一度、暖簾を見る。
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柔らかい光。
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強くはない。
けれど、確かにそこにある。
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外の暗さとは違う、わずかな温度。
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胸の奥で、何かが引っかかる。
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名前は、まだない。
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「……」
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ほんの一瞬、躊躇する。
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ここから先は、分からない。
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誰も、保証してくれない。
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それでも。
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綾乃は、手を伸ばした。
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暖簾に触れる。
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布の感触。
わずかな重み。
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その向こうに、別の空気がある。
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からり、と音がした。
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「いらっしゃい」
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静かな声。
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綾乃は、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
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外とは違う温度。
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一歩、踏み込む。
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まだ、何も分かっていない。
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それでも。
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ほんの少しだけ、違う場所に来た気がした。




