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「変わらぬ味と距離感」  作者: るんたま
2/5

第二話 暖簾の向こう

 今回の出張は、直前に決まった。


 地方企業との新規案件。

 規模は大きくないが、継続すれば広がる余地はある。


「一度、現地を見ておきたいんだよね」


 上司は、資料を軽く叩きながら言った。


 綾乃の名前が挙がるのに、特に理由はなかった。


 調整役。

 初動の整理。


 外さない人間が行けば、それでいい。


「分かりました」


 そう答えたとき、迷いはなかった。



 新幹線の窓の外で、景色がゆっくりと変わっていく。


 高層の建物が減り、空が広がる。


 綾乃は、手元の資料に視線を落とした。


 企業概要。課題。提案の方向性。


 どう組み立てれば通るか。


 それを考えるのは、もう習慣になっている。



 打ち合わせは、滞りなく終わった。


 想定した範囲内で話はまとまり、大きな齟齬もない。


 帰り際、相手先の担当者が言った。


「せっかくですし、少し倉敷も見ていかれては」


 柔らかな提案だった。



「いえ、大丈夫です」


 綾乃は軽く会釈する。


「明日も予定がありますので」



 実際には、調整はできた。


 だが、無理に変える理由もない。


 観光は、仕事とは別のものだ。



 外に出ると、すでに夜だった。


 駅前は思っていたよりも明るい。


 アーケード商店街の灯りが続き、人の流れも途切れていない。


 飲食店の呼び込みが、遠慮がちに混じる。



 食事には困らない。



 綾乃は足を止め、スマートフォンを取り出す。


 検索画面を開く。



 「倉敷 ディナー」



 評価、写真、ランキング。


 整った情報が並ぶ。


 どれも見慣れた形式だった。



 安心できる。


 外れない。



 どの店を選んでも、大きな失敗はない。



 画面をスクロールする。


 綺麗に撮られた料理。


 丁寧に書かれたレビュー。



 その中で、指が止まる。



 理由は、はっきりしない。



 どれを選んでもいいはずだった。


 それで問題はないはずだった。



 それでも。



 数秒、画面を見つめたまま動かなかった。



 綾乃は、スマートフォンを閉じる。



 顔を上げる。



 アーケードの灯りが、均一に続いている。


 分かりやすく、選びやすい場所。



 そのまま進めば、迷うことはない。



 視線を、少しだけ横にずらす。



 脇道がある。



 アーケードから一本外れた細い通り。


 人の気配は、ほとんどない。


 灯りも少なく、奥は暗がりに沈んでいる。



 ほんの気まぐれだった。



 理由と呼べるものは、特にない。



 それでも。



 綾乃は、その通りに足を向けた。



 一歩入る。



 空気が変わる。



 ざわめきが遠のき、足音だけが残る。



 整えられた通りとは違う、少し不揃いな景色。



 歩く。



 どこへ向かっているのかは、分からない。


 それでも、足は止まらなかった。



 しばらく進んだところで、視線が止まる。



 通りの奥。



 ぽつんと、小さな灯り。



 近づく。



 暖簾が、静かに揺れている。



 派手な看板はない。


 控えめな光が、内側から滲んでいるだけ。



 綾乃は、足を止めた。



 木の板に書かれた文字を読む。



――瀬戸内の魚と地酒



 情報は、それだけだった。



 価格も分からない。

 雰囲気も想像しにくい。



 評価も、レビューもない。



 ——分からない店。



 少しだけ息を吐く。



 ここに入る理由は、特にない。



 入らない理由なら、いくつも思いつく。



 時間を無駄にするかもしれない。

 合わない可能性もある。



 視線を外す。



 少し戻れば、明るい通りに出る。


 そこには、選びやすい店が並んでいる。



 間違えない選択。



 それでいいはずだった。



 それでも。



 もう一度、暖簾を見る。



 柔らかい光。



 強くはない。


 けれど、確かにそこにある。



 外の暗さとは違う、わずかな温度。



 胸の奥で、何かが引っかかる。



 名前は、まだない。



「……」



 ほんの一瞬、躊躇する。



 ここから先は、分からない。



 誰も、保証してくれない。



 それでも。



 綾乃は、手を伸ばした。



 暖簾に触れる。



 布の感触。


 わずかな重み。



 その向こうに、別の空気がある。



 からり、と音がした。



「いらっしゃい」



 静かな声。



 綾乃は、ほんのわずかに肩の力を抜いた。



 外とは違う温度。



 一歩、踏み込む。



 まだ、何も分かっていない。



 それでも。



 ほんの少しだけ、違う場所に来た気がした。

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